山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

氏族の追跡(長野氏)⑥

2016-05-24 17:58:43 | 氏族の追跡



真田歴史館へ行ってきました。真田三代と真田丸について詳しく展示されています。

ついでに真田町の県道35号線奥にある地蔵温泉に入ってきました。入湯650円 日帰り温泉です。

大露天風呂が最高です。

地蔵温泉、十福の湯地図


戦国の争乱と榛名地域(榛名町史) 長野氏の盛衰

一、長野業尚
結城合戦の時、上州白旗一揆に属す長野一族として因幡守・宮内少輔・左馬介が分捕首の手柄をあげた。宮内少輔は厩橋、左馬介は大胡に定着した長野一族とみられ、すでにこの時期に長野氏はいくつかの家に分かれて発展してきた事が伺える。
 その後文明三年(1471)に長野左衛門尉が上杉氏の従う上野武士団のリーダー的な存在として成長していたことが伺える。同人は同九年の針谷原合戦で上州一揆の旗頭としてみえ、実名を為業と称したことがわかる。さらに、永正元年(1504)の立川原合戦には孫六郎房業が討死したが、この人物も上州一揆の旗頭であったとみられる。上州一揆の旗頭に成長した長野家は左衛門尉を官途とし、為業、房業と代を重ねたとみられる。
 長野氏の人物が史料上にみられるのは、長尾景春の乱の最中の文明9年(1477年)5月7日、武蔵針谷原で山内・扇谷両上杉と長尾景春が戦ったときの記録で、この時に上州一揆旗頭として景春方にあった長野為兼が討死している[3]。また永正元7(1504年)の立河原の戦いで、長野孫六郎房兼が上杉顕定方で参加し戦死している[3]。ただし房兼・為兼は現存する系譜類にみえず、彼らの血縁関係は不詳である。また、「兼」の字を長野氏の通字である「業」の誤記・誤読として、正しくは房業・為業とする説もある。
戦国時代中期まで上野国は関東管領の山内上杉氏の領国であり、守護代の長尾氏(白井長尾家、総社長尾家)の本拠地も上野に存在したため、長野氏はその上杉氏の下で上野国西部の豪族を取りまとめて「箕輪衆」を結成し、上杉氏・長尾氏に仕えていた
。(ウィキペディアより)


「日本洞上連灯録」によると、曇英は長享元年(1487)に雙林寺に入り、明応六年(1497)に春日山の林泉寺を開いた。長年寺は文亀元年(1501)に業尚が曇英を招いて開基したことが記されている。長野伊予守(業尚)は長年寺所蔵の「長野氏系図」にみられ、長年寺を開いたことは認められるが、為業・房業とどう関わるのであろうか。官途が異なることから、業尚は長年寺を開いたことから、室田に居たとみられる。そうであれば、この時期に長野氏は二つの流れが存在し、為業・房業は室田在住ではない一族の可能性があろう。