実家の松飾も取ってきました。
父の町内では「どんど焼き」をするのですが、時間があわなくて間にあわず…。
ただ捨てるのはもったいない…と、また考えたりして…門松をどーしよーというのだね。
縁起物は縁起物、燃やすことはできなくても、お役目が終れば命は神様にお返しするもの。
ちゃんと二軒分、始末いたしましょうほどに。
実家で、ふと思いついて、コタツの母が座っていたところにすわってみました。
一年過ぎても、回りの小物などはそのままです。
写真は、だまっていただいてきた(コラコラ)バッグです。
バッグ部分が15センチ四方くらい。小さくて、今の私のサイフなんてゴツイから、全然入りません。
せいぜい、小銭いれとハンカチ、テッィッシュくらいでしょうか。
私は同じ形で「赤い幾何柄」のをもらったのですが
「こんなもん、カッコばっかしやん、なんも入らへん」と文句を言いましたっけ。
母は「オシャレしよぅ思たら、しんぼうせなアカンこともあんねん」と一蹴。
母はこれを持つときは、じょうずに別の手提げを持っていましたっけ。
根付はたしか骨董市で見つけたものではないかと思います。
なかなかのイケメンならぬイケオールドメン
木製かと思ったら、どうやら象牙のようです。着物の青い部分には、よーく見ないとわからないほどの、
細かい市松の細工があります。もーらった!っと。
そのバッグの向うにノートが一冊ありました。
こまめに日記やらなにやら書く人でしたから、何の覚書かと思ったら…
後ろの方に、俳句やら詩やら…。そういえば母は、文学少女だったそーな…ほんまかいな。
で、パラパラとめくってみたら…「これはいつのころかとんぼが捨てたもの」という題。
「捨てた?」…私も詩らしきものやらなんやら書いてましたからねぇ。きっと丸めてポイしてあったのでしょう。
かーちゃん、そんなものまで拾ったのかい…。メモによれば、私が中学生のころに書いたもの。
で、その「捨てたもの」の内容というのが…
「故郷は遠きにありて思うもの そして悲しく歌うもの」
こんな唄があったっけ
なんとなくあったかいものが広がる 心地よい響き
かやぶきの屋根、デカい柿の木
おっかさーんと走っていけば
ニワトリをよけながら走り出てくるモンペの老婆
そんな故郷は 私にはない
私の故郷となるこの地…
どこを見ても同じ形の家 電柱とテレビアンテナの柱
プライバシー尊重の高い垣根
ほこりをあげてリズミカルにやってくる ゴミ収集車
あぁこれが未来のわがフルサト
えぇもぅこのころからヒネてましたねぇ…。母も何を思って取っておいたんだか。
実際、下町生まれの私の故郷は、市営住宅でしたから、今はもう形ものこっていません。
おおきい意味での故郷なら、この町、ということになるのでしょう。
このころの予想通り、わが故郷は同じような形の家が並び、アンテナが林立し(カタチはかわりましたけどね)、
それぞれの家は高いフェンスに囲まれ、耳慣れた曲を流してゴミ収集車がきます。
たぶん…ですが、私は小さいときから、たびたびつれていってもらっていた母の故郷が、
うらやましかったのだと思います。
母は、私が結婚するまで、年をとったら京都に帰る…と決めていました。
私と離れて「こりゃまずい」と思ったのでしょう。あまり遠くちゃ、なにかあったって行くのも来るのもタイヘンですから。
ようやく「もう京都にいたころの三倍もこっちにいるのだから」と、終の棲家を今のところに決めたわけですが、
私にとっては「一度も暮らしたことのない家」です。いまでも「自分の実家」と言うよりは「両親の家」と言う感覚です。
母は、そういう形での「故郷」を持たない私に、何か申し訳ないとでも思っていたのでしょうか。
母がいつか言ったことがあります。
「女三界に家ナシと言う。(三界とは、欲界、色界、無色界、つまり俗っぽい世間やら、そこから脱した世界やら、
この世の全ての世界、三千世界ともいいます。女は三従と言って、子供のころは親に従い、
嫁しては夫に従い、老いては子に従うであって、広い世界のどこにも住むところ、落ち着けるところはない、という説)
考えてもみい、三千世界のどこにも家がないんやったら、どこ行ってもえぇっちゅうこっちゃ。
好きなところで腰おちつけたらええねん。女はいつでも自由やってことやで、」。
母は、帰りたいと望みつつ、横浜で命を終え、京都にはお骨の一部が帰っていきました。
それでも「どこでも自由や」と言っていた母です。こころは自由でシアワセであったろうと思います。
私もまた、どこで暮らそうと、そこがシアワセと思える場所ならそこが私の世界、とそう思っています。
ずっと見ていたら、あるページに「昔からずっと日記を書いてきたけれど、古いものなどとっておいてもと、
手当たり次第に練炭の火付けにしてしまった。ちょっととんぼに話したら『取っておいて』というので、
考えることにする。いろいろ読んでいると、書くことでストレス解消していたのだと思う。
しまったと思っても、燃やしてしまった分は、まぁしゃーないな、面倒でもあとはとっておいて、整理してもらお」
…あたしが言ったんかい…。忘れとったがな。でも、こうして残っていると、やっぱり嬉しい。
父もまた日記をつけています。私はこんな二人にまーったく似ていなくて、
日記は三日坊主どころか、買ったはいいけど1ページも書かずに使わなかった日記帳もあるくらいです。
そんな私が、このブログはよくも続いているものだと…。これが私の日記、ということになるのでしょうか。
松も取れて、普段の暮らしに戻りましたが、時々は母の言葉をのぞくことにしましょう。
2009年から日記を書き始めようと意気込み
「私の10年史」なる10年間日記を買い込んだものの
1月から4月の初めまで虫食い状態どころか ほとんど空白の日記帳
内容はストレス解消 ストレスの捌け口になった様です
2009年の1年間は無かった事にして
遅まきながら2段目を2012年として書く事にしましょう。
楽しい事を沢山書けるように
これから先の人生を楽しめるように
いつまで続くか・・・賭けます?
私は 続かない方に
昔は長々と自分の思いをノートに書き込んで
自分の中で整理していたのですが
今は 文章短く簡潔に に取り組みたいと
聞かされました。
日記も家計簿も気まぐれです。
メモでも残してあると助かるときが
あるんですけど・・・ね。
家計簿、メモ日記など、
項目を増やすのが楽しくて、
利用していましたが、
今はブログだけとなりました。
そして、いつのころからか、
日記、家計簿、手帳とそれぞれに
万年筆で書き込むのが楽しくなって
います。
ボールペンもクロスだの、
モンブランだのと、
選んだときもありますが、
今は<パイロット>の万年筆です。
誕生日プレゼントで嬉しかったのも
万年筆でした。
キーボードの音より、万年筆の
紙の上をはしるペン先の柔らかな音が
心地よいのは歳なのでしょうか、
日記もここ数年はしっかり記入していますが、
古いのは処分しようかと考えています。
残すとしたら、ブログだけで...と。
去年の秋にひと目惚れで買ってしまいました。
私はバッグ自体をお財布にしました。
旅先の朝食のバイキングのときに
これだけ持って席を立てばいいかな、と。
小さいモノはかわいくて、わたしも、つい、です。
一つは故郷のお話。。
さすがとんぼさんとうなりましたが、なつかしい帰る場所があるというのは心の豊かさと安心に繋がるんですよね~~
私もイロイロあって帰るところがあるようなないような、、、
それはとても寂しいことだと思います。
親しい年配の方と話をしていると、皆さん懐かしい故郷に帰りたいとおっしゃる。でもそれは
もはや現実的には無いーー心の中にしかないんですよね。。。
お骨になって帰って行った人も知っていますが、まあ、ご本人は希望がかなって満足かなとも思うけれど家族はお参りに行くのも大変で、年と共に墓地の管理も出来なくなりと言うのが現実のようです。難しいですねえ~~
日記は私も3日も続かない派でしたが、パソコンの日記にしたら結構メモ代わりに書くようになりました。
とんぼさんのブログはまさに日記ですね。。。
凄いといつも感心しています。
あはは、私は自分をかえりみて「書く」法にかけましょうか。
「書かなきゃだめよ」とプレッシャーかけて?!
書くことって、冷静になるチャンスでもありますよね。
だからがーっと書くと、なんかそれでよくなっちゃう…。
私も実は、去年の10月から、ただのノートにメモをつけてます。
ただの罫線なので、何もないときは「晴れた、洗濯よく乾いた」でオシマイ。
家と思うと、あーだこーだと1ページ書くこともあります。
残せるほどきちんと書いてないのが難点…ダレも読めないし…。
最近、とみにメモの必要性を感じます。
その時は「これは忘れない」と思うのに、振り向いたら忘れてるし…。
汚い字でも、メモっておくと何かと安心…なんて、寂しいお年頃…ですねぇ。
私はタイピストをやっていたころから、人は字を書かないと忘れる…を
経験しました。40過ぎてワープロを始めて「あぁそうだった」と、
改めて「書く」ことの重要性を思いました。
字も下手になるし、感じは思い出せないし…。
ついついパソコンに頼る日々ですが、パソコンのない友人に、
努めて手紙を書くとか…最近はそれに「日記風メモ」が増えました。
年賀状は、パソコンですが、一筆添えるのと宛名だけは、
毎年手書きでやろうと決めています。
書くことは、楽しいですよね。
なるほど、最初から大きめ財布、と思って使うといいですね。
私はバッグはなにより「機能性」なので、母とはいつも
意見が合いませんでした。
今これを見ていると、なかなかいいじゃん…と。
今度着物を着たら使ってみようと思っています。
私は、結婚して18年ほど、横浜を離れて船橋で暮らしていました。
二度の引越しで腰を落ちつけたマンションには、10年以上も住んでいたのに、
なぜか「よその土地」というキモチが、心のおくのどこかに、
いつもあったような気がします。
横浜に帰りたいとか、横浜の方がいいとか、
そういうものではなかったのですが、
生まれて28年もいた土地でしたから、なんか魂の緒のずっと先は、そこにつながっている…といいますかね。
変な表現ですが「そこからはじまっているんだ」というような。
今、横浜に戻ってきて、町も駅も様変わりして、住んでいるところも、
子供のころいたところとは全く別なのに、なんとなくお尻の落ちつき具合が違います。
たぶん、これがあるから、私はどこでも暮らしていかれるのだろうなと、
そんなきがするのです。
故郷は、結局母のいたところ、なのでしょうかね。
どこで果てるかわからないのが人の世の常ですが、私は「帰りたい」ではなく、
魂の緒のねっこを忘れたくない…かな。