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古い曲が気になる

同志社大学の母、新島八重

2013-06-27 | 日記・エッセイ・コラム

 

 大河ドラマ『八重の桜』は、いよいよ30日(日曜日)、鶴ヶ城、籠城のシーンになる。会津戦争は、武士だけでなく、武家の女も、子供も、老人も、新政府軍と戦って死んだ、戊辰戦争最大の悲惨な戦闘だ。そして、会津藩の武家の人々の気概を、みごとにみせた戦いでもある。

 

 慶応四年(1867年)8月23日、鶴ヶ城(会津若松城)に籠った会津藩士と、女性、老人、子供たちは、城を包囲した新政府軍(3万とも4万人ともいう)を相手に、なんと、9月22日まで戦いぬいた。主君・松平容保から降伏命令がでて、無念にも、城に3本の白旗をあげたのだ。(この30日の長き籠城を防御総督として指揮したのが、若干24歳の山川浩だ。山川浩は、のちに陸軍少将・男爵・貴族院議員となった)。

 

 女たちは、握り飯を作り、負傷した藩士たちの看護をした。しかし、山本八重は、夜は男たちと城の外にでて夜襲をかけ、明るいときは、城のなかから狙撃した。銃の名手で、刀、薙刀の使い手でもあったのだ。

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 ドラマの主役・綾瀬はるかさんとすこし違って、実際の山本八重さんは、ぽっちゃりと太目、骨太で、十代のときに米一俵(60キロ)を4回も持ち上げた、という剛力の女性だったのだ。きわめて男性的な性格で、行動力もあったという。(ドラマはドラマだから、容姿は、綺麗な女優さんでいいのだ)。

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 藩主・松平容保の命令で降伏した日、山本八重は、城の壁に、かんざしで歌を刻んだ。無念が伝わる、胸にせまる歌だ。

   明日よりは何処(いづこ)の誰か眺むらん なれし御城(おしろ)に残す月影

 

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 ライフル銃をもって戦った山本八重は、会津戦争のあと、明治の時代、兄のいる京都で、クリスチャンの新島襄と再婚する。新島襄が創立した同志社英語学校をともに発展させて、夫の死後、その遺志をついで、今の同志社大学の基礎をつくった。

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 新島八重と新島襄。

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 すごい女の人もいるもんだ(なぜか最近、わたしは、すごい男より、すごい女に心ひかれる)。この晩年の写真でも、両刀をさし、右手にはスペンサー銃をもっている。老いて、残すべき写真を撮るというのなら、戦士であった会津の女の姿を残したい。鶴ヶ城を守りぬいた、会津魂だな。

  同志社大学HP  新島八重と同志社 http://www.doshisha.ac.jp/yae/index.html

 

 わたしの父方の祖父母は、ふたりとも福島県双葉町の出身。生母の父は、転勤で北海道にやってきて、帯広の隣町、音更町の郵便局長のときに病死したが、福島県相馬の人だ。わたしの福島に対する思いは強い。福島に親戚も多い。

 伯母(父の姉)太田光子は、彫刻家の夫、太田良平と福島市に疎開して、ふたりは、そのまま福島市で暮らし亡くなった。歌人だった伯母は、長く福島の歌壇で活躍した。その娘(つまり、わたしのいとこ)、詩人の槇さわ子もまた、福島県の文壇で注目される存在であった。

 そんなわけで、わたしの福島に対するシンパシーは強力なのだ。そういうココロで、会津の人、山本八重の物語『八重の桜』をみている。昨年夏、亡くなった母の名も八重だ。

 

 

 わたしの恩師、考古学者の石附喜三男先生は、同志社大学の大学院を卒業した。貝塚研究の第一人者でもあった、酒詰仲男教授の門下生だ。わたしは、石附先生の最初の弟子で、酒詰先生の孫弟子ということになる。たいへん名誉なことだ。


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