情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)日隅一雄

知らなきゃ判断できないじゃないか! ということで、情報流通を促進するために何ができるか考えていきましょう

1審の考え方もあり得るところとして許容>合理的疑いを超える証明

2009-04-10 05:27:06 | 適正手続(裁判員・可視化など)
 裁判員制度の実施を前に高裁の裁判官が、裁判員が関与して下された判決について控訴審でどのような審理・認定をするかについて研究をしている。その研究の成果が判例タイムズ1288号に掲載されているが(「裁判員制度の下における控訴審の在り方について」)、この中で、「控訴審が1審判決と異なる心証を抱いたとしても、直ちに破棄してきたわけではなく、1審の考え方もあり得るところとして許容される幅の範囲内と考える場合には、1審判決を維持してきたのであり、事実誤認として破棄するのは1審の判断が明らかに不合理な場合に限られていたのではないかとの指摘もある」と書かれている。

 う~ん、確か、「有罪」にするには「合理的な疑いを超える証明」が必要なはずだったよな…。最高裁の判例は、合理的な疑いについて、「通常人であれば誰でも疑いをさしはさまない程度に真実らしいとの確信」(昭和23年8月5日最高裁第一小法廷判決)という表現をしている。つまり、ほかの選択肢があり得ると考える場合は、無罪としなければならないということだ。

 ところが、高裁の裁判官は、高裁の判断は、たとえ無罪との心証を抱いても、1審の有罪の判決も許容される範囲だと考える場合には1審を維持してきたという…。

 もちろん、これまでの自分自身の残念な経験でもそのとおりだが、こうまで明確に言い切られるとやはり引っかかる。

 有罪方向と無罪方向では違う基準が必要なのではないだろうか?

 1審の無罪判決に対し、「どうも有罪のようだが、無罪という判断も成り立つな」というなら1審無罪を維持するのはかまわないが、1審有罪判決に対し、「どうも無罪のようだが、有罪という判断も成り立つな」という程度で、有罪判決を維持されるのは、合理的疑いを超える証明があったといえるのだろうか。

 というか、無罪のようだけど、有罪もありうるという場合に有罪にすることができるのは、いったい、どのような信念に基づくのだろうか?

 何を今更、と言われるかもしれないが、立証責任は被告人にはないんだ、という原則を踏まえた認定をしてほしいし、少なくとも建前ではそのような議論をしてほしいところだが…。



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