過労死予備群の「食から笑顔になる生活」

夜討ち朝駆けで仕事する日々。忙しくとも自分なりの手間をかけて、美味しく笑顔になる生活を志します。

祈り考える:ダッハウにて(2)

2017-09-17 23:04:00 | 旅日記
★人間の責任へ向き合う旅日記です★
★お料理の記事ではありません★



"Arbeit macht frei."
労働は(人を)自由にする。

冷たい雨、暗い空、ダッハウ強制収容所の扉を押して、敷地内部に踏み込みます。
右手にあるのは、当時のSS.の管理施設、いまは資料館として使われた、しっかりした建物です。



門から入った正面、そこは点呼広場と呼ばれた広場です。
敷地は長方形の空間で、管理施設と、収容棟32棟(16棟が2列)が、点呼広場を挟んで向き合っている形です。

32棟があった場所は、土台石で示され、最初の二棟が復元されています。
16棟が二列、その間は並木道になっていて、普通の町の設計のようでした。

そのはずです。
ここは政治犯の更正施設として作られ、さらに、1937-38年の水晶の夜以降は、ユダヤ人の国外追放のための一時滞在と通過拠点として使われるようになった歴史があったからです。
一棟に200人、それが32棟で六千人余の、番号つきの個人がいて、1938年には病院もあったという施設であった頃。



ちゃんと便器が並んだ室があり、シャワー施設がありました。



食事室が別にあって、そこには、窓も開くようになっていて。



壁にはロッカーが並び。(今は防犯状の理由であけられず)



個人を識別する名札入れがついています。



その当時の記録写真に残されている、ロッカーの内部。食器にナイフやフォークも含まれています。
この食器に、コーヒーのしみ一粒でもあったら、むち打ち20回だった、とは記載されていましたが。



ベッドは繋がっていて、ここに藁をいれて使ったそうですが、個人ごとの仕切りがあり、個人ごとの棚が、そこにありました。

始まりの時、強制収容所であっても、ここには、番号つきの個人が居たんだって、胸がつまる想いがしました。

アウシュビッツ・ビルケナウには、個人はいなくて、絶滅すべき民族がいただけ。わずか五年ほどで世界は救いようがなく、変わっていってしまったのが、ここでは、はっきりとわかりました。



食堂の窓から、点呼広場を挟んでみる、SS.の管理棟。この空間の拡がりが伝わりますか?



整然と並ぶバラックの土台。中央の並木道から、各バラックに通路がとられた規則性がわかります。


政治犯の収容所、国外追放の中間点から、次第にユダヤ人の labor camp 、強制労働収容所として、ダッハウも変わっていき、罰則と管理の厳格化が進んだと、記録されています。

1943年にはユダヤ人浄化を目すゲシュタポ(gestapo、秘密警察:本来はバイエルン州警察内組織、やがてSS指揮下で国内のスパイ容疑の取り締まりにあたる)の活動に、ダッハウも含まれていきます。
ナチスが戦争に負けて、撤退する区域の収容所から、ドイツ国内部にある収容所へ、ユダヤ人の移送が始まるのです。

ヨーロッパ各地からの移送によって、ダッハウの収容者数は、三万人大に増加したそうです。
本来は六千人の施設から、三万人に。餓えとチフスの拡大による死亡が、整然と記録されています…。

1945年は移送による死亡も記録されていました。その亡骸は当初はダッハウでも焼却されたが、後には放置され、それがチフスを拡げる基になっていったそう…。

1945年4月にアメリカ軍による解放がなされますが、解放後はチフスによる死亡が続いた、と記録にありました。



解放後も弱った人達が残された、悲しい場所。戦後に進むなかで、顧みられぬ場所は、廃墟になっていきます。その当時の写真が、残されていました。
悼まれる場所ですらなかった、ダッハウ……。
1968年に、この祈念遺構が、残されていた詳細な記録に基づいて復元されて、いま、私達が学び、祈ることのできる場所になったのです。





広大な収容施設(バラック)の一番奥に、遺構に加えられた、祈りの場所が四つありました。

カソリックを中心に、右手がユダヤ教、左がメソジストと記載されていました。その奥に、宗派を特徴化しない、祈りの場所がありました。

おそらく、右手からの歴史的配置と、最初は考えました、が、被害者と加害者なのかもしれない……いや、皆が被害者だった、人間の愚かしさを悲しみ、悼んでいるだけかもしれません。

写真はカソリックの。餓えた、苦しみに打ちひしがれたイエス様の姿。十字の重さが、人間の闇の深さを、解くことができるかを、私に尋ねているようでした。



茨のシェルターにおおわれた、ユダヤ教の祈りの場所。坂をおりていきます。



入り口の扉には、タビデの星。
この場所が、ユダヤの墓所のように意識します。



積まれた石の壁は、嘆きの壁のように、ひたすらに積まれて。人間の業の深さのようで。ですが、天空に延びる一筋の光の道がありました。



光に見えるのは……ハヌカの蝋燭…。闇の彼方に、光を求めた祈りを、異教徒である私にも、伝わってくるようでした。

苦しい時間でした。
冷たい雨に、びしょ濡れで。打ちのめされる思いを抱えて、ぼろぼろでも、黙って歩き続ける、沢山の国籍の違う人たちとともに、私も歩きました。

四つの祈りの場所を越えて、もう1つ、いかねばなりません。
収容棟は、外周道路の先に、斜坑がとられ、脱走が見えやすいようになっていました。そこからさらに、高い鉄の柵と監視塔がある境界になっていました。
さらに川をわたった先に、閉ざされていた、別の敷地がありました。

別の敷地は、当時の記録によれば、通常の収容者は入れない場所でした。

病死した亡骸を焼却するための、即物的な施設があった(旧焼き場)り、吊し罰則にあたった人の処刑場所があっただけだったそうです。

この記述からも、見せしめのための処刑が、日常化していた、アウシュビッツとは違うことがわかります…。



1943年に変わってしまいました。こちらは、脱衣場と「シャワー室」と焼却施設と、灰置き場をもつ建物です。
本当に、入り口にドイツ語で、シャワー室と書いてある。それがドイツらしい…。



この場所の中に「シャワー室」があります。実際のガス菅の配置はされていますが、おそらく使えていない。あの構造では密閉できません。
記録にも、ダッハウでのガス殺の記録は不明瞭です。
アウシュビッツの殺人施設の正確な設計配置とは、全く違いました。

収容棟の塀の外にある、この閉ざされた空間には、遺された灰が埋められています。
生存が確認されない移送者の母国からの祈りの場所が、ここにもうけられていました。

私達は再び、収容棟のある敷地にもどりました。
その塀にそって歩きながら、沢山のことを考えました。

そして、かつての管理棟、いまは資料館となった建物に入りました。

雨に、もう打たれなくていい、暖かい……それが、とても幸せでした。

ホッとしたのは、一瞬でした。

沢山の帰ってこれなかった人の記録に、取り囲まれます。淡々と続く記録だからこそ、凍りつきます。
組織的に、家畜のように、殺すために移送する姿勢に、教科書を越える、人間の組織の怖さを体感します。

生存者が語ったビデオテープの内容は恐怖でも、この人が生きてこれたことを、感謝したくなりました。

ナチスだからではない。
個人がみえなくなって、番号や記号のついた群れになってからでは、もう、止められないんだ!

今の日本も、世界も、そっちに向かっていないか?
利益を叫んで、仮想敵を作って、憎むようにさせていないか?

顔と生きてきた時間がある、一人一人違う、命のある人間を、基盤にして、そこから離れてはいけないんだ!

個を奪うことへの反対! 集団を管理しようとする政治への怖れ。それらを受け取った六時間でした。


もう、身体の冷たさが重すぎて、ビジター・センターにあるカフェを目指す欲求がたちきれなくなりました。

カフェへ向かう道すがら、私は、現代の悲しみに、直面します。
ダッハウ強制収容所 祈念遺構を含む、かつての軍用地は、国の土地です。
その一部は、いま、refugees (避難民)の保護施設に活用されている旨が、書かれていました。

他者からの攻撃から、やっとの思いで逃げてきた人にも、私達の世界は、隔離された施設しか提供できない。喜びと笑顔と選べる人生までには、まだ時間がかかるのです。
その間に、この世界を、自分を受け入れてくれぬ場所と思う人が、増えていかないで欲しい…。そう願う、一杯の祈りを抱きました。


この二つの記事は、2017年9月に配布されていた資料、オーディオ・ガイド、看板(いずれも英語版)に基づいて、記しました。誤りがあれば、それは私の問題です。


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