過労死予備群の「食から笑顔になる生活」

夜討ち朝駆けで仕事する日々。忙しくとも自分なりの手間をかけて、美味しく笑顔になる生活を志します。

祈り考える:ダッハウにて(1)

2017-09-16 02:26:00 | 旅日記
★大切な、されど、重い課題記事のため、なかなかまとまらずに時間がかかりました★
★料理の話ではありません★


雨の朝、ミュンヘンから電車(Sバーン、S2)に20分程のりました。



ミュンヘンに居るのだから、人の責任として行って学ばなくては……と信じて、気持ちをふるって、Dachauにむかいました。ミュンヘン中心部から、わずか15km程です。



駅前のバス・プールには、何番のバスに乗るべきか、分かりやすく標示されていました。



旧市街にいくバスを雨に見送り、726番のバスにのりました。二連結バスは、冷たい雨の降る平日に、一杯でした。15分程、社内は沈黙のまま、走ります。



Dachau Concentration Camp Memorial site (ダッハウ強制収容所 祈念遺構)は、終点です。

第二次世界大戦を、欧州に軸足をおいて省みるならば、ナチス・ドイツによる侵略の拡大とともに、ユダヤ人の絶滅計画の徹底した残酷さを見せつけられます。

第一次世界大戦後の賠償負担の重さに対して、疲弊するドイツ経済。市民の生活も貧しくなるなか、銀行や商社を経営するユダヤ人の豊かさに、憎しみを育てていく組織がありました。国家社会主義労働者党=略称複数形を和訳したのがナチスです。ユダヤ人が、ドイツ人から盗んで隠している富を取り返し、ユダヤ人を追い払い、歴史的に約束された素晴らしいドイツを作ろう! これこそが、ナチス党が主導するドイチェ・ライヒ(Reich:第三帝国)の台頭です。そのアジテーション演説で頭角を現したのが、ヒトラーです。

ダッハウ強制収容所は、この考えの実現のために、1933年に設置されています。ドイツ国内、最初の二つの強制収容所です。SS(ナチス親衛隊)による運営がされ、ワイマール憲法を大事にするような政治犯の教育更正を、最初の目的に掲げています。次第に政治犯のなかでも、ユダヤ人に対する取り締まりが重くなり、ゲシュタポ(gestapo、秘密警察:本来はバイエルン州警察内組織、やがてSS指揮下で国内のスパイ容疑の取り締まりにあたる)が、管理を強めていきます。

人間が、個人を剥奪され、民族として殺されていったドイツ国内の最初の場所。それがダッハウ強制収容所であろうと思います。
ナチスだから、ではなく、民族が対峙した時に起こり得る、最悪の事例と捉えられています。
ヨーロッパは民族が重なりあって暮らす場所故に、この教訓に学ぶ責任を、いまに続けているのだと私は思っています。


背景をごく短く書いただけでも重い…。ですが、行かなくてはなりません。

先ずビジター・センターで、オーディオ・ガイド(英語)を借りだしました。構内の看板説明と合わせて、学ぶつもりでした。
雨が酷くなってきたので、傘に加えてポンチョをきました。収容された方々の寒かっただろう日々を想起して、からだが強張っていきました。



1945年、1968年、現在の構内の変遷を示す看板を読むうちに、気持ちは沈んでいきます。入り口のバスを振り返れば、次々に人がやってきます。人間はあきらめていない…前にすすみましょう。



進行方向 右手に見えてきました。
強制収容所のゲート管理施設(復元部分を含む)です。
手前の人の大きさと比べれば、さして、大きくありません。白い壁に窓も大きい、ヨーロッパの城廓都市、町の入り口の楼門にありがちな作りです。トップに監視窓があるのが特徴ですが、通常の警察や刑務所にあるのに比べれば、外からみての、威圧感はそれほど感じないでしょう…。

ああ、最初に作られた施設は、こんなに普通の建物だったのだ! 政治犯の更正施設として作られ、社会からの隔離の場所だから、普通の建物にちかかったのだと、気づきました。

私はかつて、アウシュビッツ・ビルケナウを訪れています。絶滅収容所の建物がもたされた威圧感に、圧倒されたことを覚えています。それとは全く違います…。

ダッハウ強制収容所のゲートの手前には、橋が見えています。川か堀による隔離でしょう。



ゲートに進む前に、周囲を見渡します。
ああ、左手にやはり、ありました。
鉄道の駅だった場所です。

収容所を作るにも、やはりドイツ人らしい、合理的な規則性があるのです。
収容所に人や資材を、効率よく運ぶための方法を、考えてあるのです。



線路の軌道がうっすら残る、プラットホームの残骸。
ここから見れば、収容所ゲートは、門であるよりも、むしろ壁に見えてきます。
社会との壁に感じたでしょうか? それとも、ゲットー(ユダヤ人居住地区)のように、狭くとも生きられると、思ったでしょうか…。

きびすを返して、ゲートに戻っていきます。



ゲートの手前には、やはり川があり、雨で水嵩を増した濁流になっていました。



かくして、ダッハウ強制収容所のゲートにつきました。
いま、この扉は、内からも外からも開くけれど、当時、開いたままの扉を見た人はいなかったでしょう。

この鉄の扉に指をかけて、泣いている人にもあいました。



この楼門には、祈念モニュメントが埋め込まれていました。1945年4月の解放の日、その後が記憶されていました。



この後、立てられた強制労働収容所に掲げられた言葉は、ここから始まるのです。
"Arbeit macht frei."

労働は(人を)自由にする……偽りの言葉に吐き気がします……。

長くなりました。記事をわけます。
■ダッハウ強制収容所、バイエルン州、ドイツ (2017年9月上旬)


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