行為と思考
雨漏りにほとほと疲れた。
天井裏に落ちる雨の音を聞くと心に棘が刺さったようになる。
いつからか思考のプロセスが転換した。どういうことだろうか、どうしてだろうか。本がこの部屋に増えたからであろうか。
この殻(川端の家)が、私が対峙すべきものだったのに、飲み込まれてしまった。内から外への思考、行為のベクトルを放っているのに…コロイドの様に僕は透過してしまう。
今や対象を見つけられなくなっている。目の前にあるにもかかわらず。内部にいながら、とても遠くの荒野に放り出された。
この家の被膜はどこへ…内的被膜、外的被膜
七月七日からここで寝泊まりをするようになった。それから今、記している、いま。
漸化式のように、「アンフラマンス-極薄」的に対象をいつしか見失った。これまでは排除することで…排除することに困惑していたのだが、排除することにも落ち着き、(雨漏りは続いているが)ニュートラルな、平坦な空間へと近づき、自己に目隠しがされ、馴染んでしまい、見えなくなったか、ここからどう掘り起こすか、次ぎの手が見つからなかった。
住むということに自分の生活が含まれすぎていた。主体が自己にあった。内から外への思考・行為のベクトルが自己の内へ放たれていたのか。
触覚が薄れていた。いまは、連日の雨で生えた黴を拭き取った。私は黴が繁殖することを否定した。向かいのお寺の窓や、外からの視線が気になり、簾をつけた。巻き上げ式の器具も付けたが気にくわず外した。簾をつけることには肯定か。ひとつひとつの選択、実践が足りない。内的思考から遠くへ、外的刺激の末の思考へ。思考のみでは、この空間は据えられない、実在は感覚にある。
川端の家は機能を取り戻したということ。引き戸が動くことなど。思考が及ぶのは結果に対してのみ、それ以上のことは想像である。川端の家だけではなく、その周辺も機能を取り戻す。便所、井戸、人と人とのコミュニケーション。
川端の家の軸というのは当時の文化…知らないので想像になるが、理想でもある。家、建築素材に対して、自然のものであること。そこに人の知恵が含まれているということ。さらにそれらが自らの思考に何らかの影響を与えること。より深く思想がある。身体の皮膚に近い機能を持ち、この川端の家が機能することによって、人間とともに機能することによって、第二の皮膚となる。本来の建築的機能を取り戻すこと。それは、人間の知恵の結晶、文化だが、さらにその先きにベクトルを向ける。この繰り返しによってひとつずつ深淵へと近づく。本来の場所へと向かっていく。
いや、しかしこれまでのことは、自己から対象(川端の家)への働きかけのみであったが、川端の家から自己への働きかけも考慮しなければならない。肯定・否定によってそこにあるものがすでに川端の家からの働きかけであって、それに対して反応はしているが…触覚的にも感覚的にも。
そして、はじめの頃から、はじめの頃の川端の家に対する、川端の家での思考があり、そこで思考していたことと、肯定・否定の排除により空間の様相が変化し、その過程で思考に及ぼす変化もあると思う。それは、いまのことのように、対象として見えていたものが見えなくなったこと。(川端の家に対して感覚的に肯定・否定する選択肢が減り、落ち着き、自己に対する刺激が減ったことが要因と思われる。)前のことと、この文脈との相互作用が行為と思考にまず起きている。
行為と思考がそのような関係であるとすれば、別の文脈の「三層原理」の「深淵」の様な対象の浮かび上がらない場所はこの方法では行為・思考もないのであろうか。例えば「御嶽」のような場所やインスタレーションの中では、その様な行為・思考は働きはじめるのであろうか。となれば、川端の家は一般的な「家」という機能から行為・思考の対象となり自己を主体とした行為・思考の錬磨によって、第二の機能が働きはじめ、芸術作品となるような「御嶽」的な、神聖な(詳しくは芸術と宗教の根源を一体とみなし)機能を持ちはじめると、第三の「深淵」という(根源)機能を持ちはじめるのであろうか。と、対象の機能や意味的存在、存在自体も変化していくということになる。そしてこれは本来考えていた三層原理ではなく、その亜種となる。