今の世の中、どこへ行っても「自主性」「個性」の花盛りです。
ガキにやれ自主性だ、個性だというおためごかしを言い始めたのは、私の記憶が正しければ、私たちの世代(今生きていれば40歳ちょっと過ぎくらい)が第一世代となるのですが、ガキのころから家人や近所のオッサンから「ガキはわしらのやってきたこともわからんで、生意気言うな!」とキツいことを課され、「何をー!」と食らいつくことばっかりで生きてきた私は、中学生くらいのころから生意気にも「これは違う、絶対におかしい」と常に不平不満を持っていました。
特に、高校進学後の教師の多くは、「自主性」「個性」などと言いつつ、その反面山のような課題やテストを課し、出来が悪い人間をあからさまに差別するというようなことをしており、私はそうしたおためごかしに、非常に反発を覚えていました。
私が学生じゃなくなった後も、教育現場には恥も臆面もなく「自主性」だの「個性」だのという言葉が跋扈し、それが「ゆとり」という今世紀最大の悪政を呼び、日本の教育を半崩壊状態にしてしまいました。それはもう、日教組の読んだ自縄自縛なので、それはともかく。
私がガキの時分から反発していた「自主性」「個性」。これは教育の現場に必要なのか。それをガキに求めていいのか。
当時私が漠然と抱いていた不安や不平不満を、実に短い文字で端的に「違う!」と言い表した記事をごく最近発見しましたので、ここでご紹介します。
その名言をものしたのは、もと横浜ベイスターズ中継ぎ投手として活躍したものの、私と同じく口の悪さが災いし、わずか4年でクビになってしまった中野渡進さん。
のちにもつ鍋屋を経営、人気店となったものの一身上の都合により閉店。現在は会社員をしつつ野球指導に燃えているという、「奇貨居くべし」という「名人」です。経歴や人となりに関しては「球団と喧嘩してクビになった野球選手」(中野渡進著・双葉文庫)を参照してください。
中野渡さんが「野球太郎育児」(廣済堂出版)内で「中野渡進の少年野球わたり歩き」というコーナーで、「今現在、強制的に練習をやらされてばかりですが、この先、子供が自主性をつけるためにはどうすればいいのでしょうか?」という父兄の悩みに、このように答えておられます。
「子供が自主性なんて考えられるわけねえだろ。自ら激しく追い込む小学生って…逆に怖いわ。最初はやらされてなきゃわからない。ある程度強制されて、最低限のものを大人が与えて、それから自分には何が足りない、何が必要かを考えて自主性に至るんだから、まずはやらされる練習を覚えなきゃしょうがない!やらされとけ!」
私これを読んだとき、まさにその通り!と膝を大きく打ったものです。
人間として、学生として、部活で競技の入り口に立つための通過儀礼として、「強制力」は極めて重要なのです。
人間として、学生として、選手としての基礎基本を作るには、理屈抜きで「師匠の言うことを何も言わず修練する期間」が絶対に必要です。
私はこうした時期を、自分で勝手に「『1』を作る時期」と呼んでいます。
人間は大きな飛躍を遂げ、成功するときには「掛け算」で飛躍します。
しかし、その飛躍を遂げるためには、自分自身の価値を「1」あるいは「1.1」とか「1.2」にする時期が必要であるとも考えています。それこそが、物事を習得するため、自我を出さず、人の言うことを忠実に修練する時期なのです。
ここで師匠の言うことを聞かず、やれ個性だ、自主性だとほざいてやるべきことをやらなければ、礎石がグズグズの上に建物を建てるようなもので、何も習得できず、みじめな人生になることは必定でしょう。
また、いくらやってくるチャンスが大きくても、人間的な価値が「ゼロ」の人間は、そのチャンスを生かすことはできませんし、下手すればそのチャンスが来たことすら気づかないかもしれません。
掛け算と同じく、人生の掛け算も同じ。いくら大きな数を掛けても、ゼロはゼロのままなのです。
来るチャンスを逃さない人間力を形成するためには、「人から言われたことを、各レベルに応じ、自家薬籠中の物とするまで黙って頑張る」という時期を耐えて過ごすことが絶対に必要です。
これこそが人間の「1」を形成することであり、それがない人間には、以後何を教えてもダメだと思います。
その「1」を作ること・・・私的には、あいさつをして、整理整頓がきちんとできて、義務教育以上の教育をきちんと受け、先祖や父母、寺社に尊崇のまごころを持つことが最低ラインだと勝手に考えています。
それができない人間に自主性だ、個性だなどというのは、ちゃんちゃらおかしな話だと思います。
あの頃個性だ、自主性だなどと言っていたバカ教師の皆様、もし弊ブログを読んで言い訳がございましたら、ぜひコメ頂きましたら幸いです。
ガキにやれ自主性だ、個性だというおためごかしを言い始めたのは、私の記憶が正しければ、私たちの世代(今生きていれば40歳ちょっと過ぎくらい)が第一世代となるのですが、ガキのころから家人や近所のオッサンから「ガキはわしらのやってきたこともわからんで、生意気言うな!」とキツいことを課され、「何をー!」と食らいつくことばっかりで生きてきた私は、中学生くらいのころから生意気にも「これは違う、絶対におかしい」と常に不平不満を持っていました。
特に、高校進学後の教師の多くは、「自主性」「個性」などと言いつつ、その反面山のような課題やテストを課し、出来が悪い人間をあからさまに差別するというようなことをしており、私はそうしたおためごかしに、非常に反発を覚えていました。
私が学生じゃなくなった後も、教育現場には恥も臆面もなく「自主性」だの「個性」だのという言葉が跋扈し、それが「ゆとり」という今世紀最大の悪政を呼び、日本の教育を半崩壊状態にしてしまいました。それはもう、日教組の読んだ自縄自縛なので、それはともかく。
私がガキの時分から反発していた「自主性」「個性」。これは教育の現場に必要なのか。それをガキに求めていいのか。
当時私が漠然と抱いていた不安や不平不満を、実に短い文字で端的に「違う!」と言い表した記事をごく最近発見しましたので、ここでご紹介します。
その名言をものしたのは、もと横浜ベイスターズ中継ぎ投手として活躍したものの、私と同じく口の悪さが災いし、わずか4年でクビになってしまった中野渡進さん。
のちにもつ鍋屋を経営、人気店となったものの一身上の都合により閉店。現在は会社員をしつつ野球指導に燃えているという、「奇貨居くべし」という「名人」です。経歴や人となりに関しては「球団と喧嘩してクビになった野球選手」(中野渡進著・双葉文庫)を参照してください。
中野渡さんが「野球太郎育児」(廣済堂出版)内で「中野渡進の少年野球わたり歩き」というコーナーで、「今現在、強制的に練習をやらされてばかりですが、この先、子供が自主性をつけるためにはどうすればいいのでしょうか?」という父兄の悩みに、このように答えておられます。
「子供が自主性なんて考えられるわけねえだろ。自ら激しく追い込む小学生って…逆に怖いわ。最初はやらされてなきゃわからない。ある程度強制されて、最低限のものを大人が与えて、それから自分には何が足りない、何が必要かを考えて自主性に至るんだから、まずはやらされる練習を覚えなきゃしょうがない!やらされとけ!」
私これを読んだとき、まさにその通り!と膝を大きく打ったものです。
人間として、学生として、部活で競技の入り口に立つための通過儀礼として、「強制力」は極めて重要なのです。
人間として、学生として、選手としての基礎基本を作るには、理屈抜きで「師匠の言うことを何も言わず修練する期間」が絶対に必要です。
私はこうした時期を、自分で勝手に「『1』を作る時期」と呼んでいます。
人間は大きな飛躍を遂げ、成功するときには「掛け算」で飛躍します。
しかし、その飛躍を遂げるためには、自分自身の価値を「1」あるいは「1.1」とか「1.2」にする時期が必要であるとも考えています。それこそが、物事を習得するため、自我を出さず、人の言うことを忠実に修練する時期なのです。
ここで師匠の言うことを聞かず、やれ個性だ、自主性だとほざいてやるべきことをやらなければ、礎石がグズグズの上に建物を建てるようなもので、何も習得できず、みじめな人生になることは必定でしょう。
また、いくらやってくるチャンスが大きくても、人間的な価値が「ゼロ」の人間は、そのチャンスを生かすことはできませんし、下手すればそのチャンスが来たことすら気づかないかもしれません。
掛け算と同じく、人生の掛け算も同じ。いくら大きな数を掛けても、ゼロはゼロのままなのです。
来るチャンスを逃さない人間力を形成するためには、「人から言われたことを、各レベルに応じ、自家薬籠中の物とするまで黙って頑張る」という時期を耐えて過ごすことが絶対に必要です。
これこそが人間の「1」を形成することであり、それがない人間には、以後何を教えてもダメだと思います。
その「1」を作ること・・・私的には、あいさつをして、整理整頓がきちんとできて、義務教育以上の教育をきちんと受け、先祖や父母、寺社に尊崇のまごころを持つことが最低ラインだと勝手に考えています。
それができない人間に自主性だ、個性だなどというのは、ちゃんちゃらおかしな話だと思います。
あの頃個性だ、自主性だなどと言っていたバカ教師の皆様、もし弊ブログを読んで言い訳がございましたら、ぜひコメ頂きましたら幸いです。
しかしながら私は、型にはめる教育方法が全体の底上げをしていると考えているので、違和感をおぼえました。ごく一部の天賦の才を持ったものに合わせるか、全体の底上げを図るか。
教師に平等性を求めるなら後者の方が良いと、感じます。なにせ教師には学習指導要綱という守るべき指針がある。一人の天才と引き換えに、99人の屑を製造するくらいな100人の普通人を製造する・・・。その方が良いと今は、思うのです・・・出来ない人間の僻みの類いでしょうが・・・。
『世界は、偉人達の基準で出来てる訳ではない』
by『イノセンス』
テレビに出るようなヤツは、人と変わったことを言わないと注目されないので、道理に外れた、イカレたことを言うことを生業としていますが、多くの凡人はまず、型をしっかり習得し、人として「1」にならないとダメだと思います。
隣の国のように、その基本たる「1」が間違っていたら、結局国ごと傾く。とてもいい見本です。
「自主性」は「ほったらかし」と表裏一体の言葉です。それを用いる人間には、それなりの責任が生じるはずです。しかし、私が見る限り、知る限り、「放置、放棄」以外の意味を持つ「自主性」というものに出会ったことがありません。それでは本当に困ります。
真の自主性とは、真の自己管理から成るというあたりまえのことを、教育に携わる人は再度確認してほしいと思います。
ご意見ありがとうございました。