集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
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霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(第3回・ハワイ日系人野球の曙)

2016-10-14 20:03:53 | 周防野球列伝
 第3回の今回は、重労働と並び、オッチャンのアイデンティティーを構築したと思われる、ハワイ日系人野球についてお話しします。

 ハワイの日系人社会で初めて野球チームができたのは、明治29(1896)年。
 日本人牧師の奥村多喜衛が、自身の経営する寄宿舎の学生などを集めて結成した「朝日野球団」が、ハワイ日系人野球チームの嚆矢となります。
 この朝日野球団は徐々に実力をつけ、明治38(1905)年には、地元のリーグ(リーグ名不詳)で優勝を遂げるまでになっています。

 朝日野球団が優勝した同年、日本からハワイに、珍客が現れます。
 早稲田大学野球部がアメリカ遠征の往路、ハワイに立ち寄ったのです。

 早大野球部は遠征前年の明治37(1904)年、当時日本の高等学校(←現在の大学に相当)野球最高峰のチームであった一高(現・東京大学)、学習院、慶應義塾の各野球部を撃破。安部磯雄部長はこの機を逃さず、勝利のご褒美として、大隈重信総長にアメリカ野球遠征を直訴。それがかなっての渡米でした。
 時は日露戦争の真っただ中。早大チームの日本出発の3週間後には日本海海戦が起きるという、実に剣呑な社会情勢でしたが、筋金入りの社会主義者であった安部部長は一切意に介せず、遠征を断行しました。

 早大野球部はフネが薪水補給のため、ホノルルに24時間錨泊した機を生かし、ハワイに上陸。練習のみを行いました。
 なぜ練習のみかといえば、当時の日系人社会には、朝日野球団を含め、早大の相手になるようなチームがなかったから、とされています。
 「ハワイ文化芸能100年史」には、当時上陸して練習したメンバーが紹介されています(「100年史」には苗字のみ記載。名前は周防平民珍山調べ)。

 安部(磯雄)部長、橋戸(信。注・正規の監督ではない)、投手河野(安通志)、捕手山脇(正治)、一塁泉谷(裕勝)、二塁押川(清)、三塁陶山(素一)、左翼鈴木(豊)、中堅小原(益遠)、右翼獅子内(謹一郎)、そのほか森本(繁雄)、立原(下の名前不詳)

 野球好事家が見ると「オオっ!」というメンバーがずらっと揃っています。
 特筆すべきはピッチャーの河野安通志(こうのあつし)。
 石川県出身。この直後に行われたアメリカ本土での試合には、なんと26試合すべてに先発完投。「アイアン・コーノ」と称賛され、この遠征ではワインドアップ投法や、緩急をつけたピッチングをマスターするなど、日本に近代的投球術を初めて伝えた達人。
 この河野安通志、オッチャンとはその後、早大・後楽園イーグルスと、人生の岐路で再び・三度とあいまみえ、オッチャンの人生に多大な影響を及ぼします。
 他に特筆すべきは、セカンドの押川清。
 愛媛県出身。ピッチャー河野の1年先輩で、河野とは後年、日本運動協会や後楽園イーグルスの設立などを通じ、生涯の盟友となります。
 押川の弟は、日本の空想科学小説の先駆けとなった「海底軍艦」を著した作家・押川春浪(1876~1914、本名方存(まさあり))。ほかにも柔術の名人で、海外異種格闘技戦無敗の「コンデ・コマ」、ブラジリアン柔術の開祖ともなった前田光世の友人でもあったという、いろいろと懐の深かった方。
 押川も河野と同様、陰に陽に、オッチャンの人生に深く影響を及ぼしてきます。
 この「杉田屋守伝」のキーパーソンとなるふたりが、オッチャン生誕の3年前、日本本土から初めてやってきた野球チームとしてハワイに足跡を示しているということは、何かの因縁を感じます。

 早大チームの遠征成績は7勝19敗と振るいませんでしたが、様々な近代的野球術を輸入し、また、後年日本の野球応援の礎ともなる「カレッジエール」という応援スタイルを輸入するなど、爾後の日本野球発展に大きく寄与した、日本野球のエポックとなる遠征でした。

 その後早慶戦は人気沸騰。明治39年には、第1戦に勝った慶応の学生が、大隈重信邸を取り囲んでバンザイを連呼。翌第2戦に早稲田が勝つと、今度は早大の学生が福沢諭吉邸を取り囲んで万歳を連呼…といった不穏な事情があり、以後、早慶の直接対決は大正14年まで禁止となってしまいました。
 直接対決ができない早慶両校は競ってアメリカ遠征を実施。日本の野球レベルはどんどん高まっていきました。

 オッチャンが生まれた明治41(1908)年には、慶応義塾野球部が来布。このときはアメリカ本土遠征の途中練習とかではなく、ハワイに、試合のためだけに来ています。
 対戦成績は7勝7敗1分。対戦相手は日系人チームだけではないですが、「試合の相手がいない」早大の遠征からわずか3年、それでもハワイの日系人野球は確実に、そして急速に進化を遂げていたのです。

 その後の日系人野球について少しふれておきますと、「ホノルル野球リーグ」というセミプロのリーグができたのが、オッチャンが日本に出発するころである大正9(1920)年。
 異なる人種がそれぞれに持ったチームで試合をしていましたが、大正14(1925)年、リーグは分裂。
 日系人チーム「朝日軍」は、ワンダラーズ・ブレーブス・オールフィリピンズ・ハワイアンズ・チャイニーズとともにリーグを形成。リーグ分裂元年の大正14年と翌15年にはリーグ優勝を果たし、日本への遠征も行っています。
 このときの優秀選手は、黎明の日本職業野球にも大きな足跡を残しますが、その話はまた後日ということで・・・

 これとは別に大正12(1923)年には、日系人だけのリーグ「日本人ジュニア野球リーグ」が発足。翌年「ホノルル日本人野球リーグ」と改組された同リーグには、西部青年会・パラマ青年会・モリイイ青年会・カリヒ交友会・吾妻野球団・日本野球団・ワイヒア野球団が参加。激しくしのぎを削りました。

 オッチャンが幼少時代を送った1908~1920年にかけては、このように、日系人社会の中の野球熱がボコボコと湧き上がる、まさにカオスの時代でした。
 当時日系人の中で大人気であった野球は、オッチャンのなかで大きな存在となったであろうことは、想像に難くありません。

【第3回 参考文献】
 「ハワイ文化芸能100年史」East West Journal Corporation, 1985(日本ハワイ移民資料館蔵書)
 「東京六大学野球連盟発足90周年シリーズ6 早稲田大学野球部」ベースボールマガジン社
 「幻の東京カッブス」小川勝 毎日新聞社
 フリー百科事典ウィキペディア「押川春浪」の項目


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Unknown (老骨武道オヤジ)
2016-10-15 12:53:01
苦労して書き込まれているのに何のコメントもしないのは失礼・・よって武道屋からみた野球屋に対する感想をひとこと・・数年前、野球解説者がさも自慢げに「野球は格闘技だ!」と実況中継でほざきましたが、私はそれを武道屋に対する冒とくと憤慨しました。確かにかって老母の若かれし頃の知人が石のような硬球を当てられ命を落としましたが、野球はピッチャーがボールを投げなければプレイが始まりません。しかし武道の勝負は使い手の双方がいつ何時必殺の技を仕掛けるかまったく分からない状態で行われるものであり、その「真剣勝負」ゆえの心身修行、常人にない強者を養成するものです。以上、武道屋の自己満足のコメントで今回はごまかしておきましょうチャンチャン!!
お気遣いありがとうございます (周防平民珍山)
2016-10-16 20:37:23
 老骨武道オヤジさま、お気遣い頂き本当にありがとうございます!おそらく誰もついていけていないことは重々承知してはいるのですが「やむに已まれぬ大和魂(吉田松陰先生)」てな気持ちで、一生懸命調べております。そしてここ以外に発表の場がないので…通常営業を楽しみにしている方には本当に申し訳なく思っておりますm(__)m
 よく球技の解説者などが「●●は格闘技だ!」という話については、私もいつも、苦々しく思っております。もとから人と戦う競技と、ボーンヘッドで人と強くコンタクトすることは、根本的な違いがあります。そのあたりは今回の通常営業版のお話で少しだけ書かせていただきました。お喜び頂ければ幸いです。

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