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想像の共同体

2005年11月16日 | 民主主義と人権問題
天皇と言うのも一つのフィクションですよね。
私は、これは日本に限らずですが、国民国家以前の体制に対して「国家統一」であるとか言う言葉を当てはめてしまうから正しい歴史観が養われていかないのだと思います。国民国家以前の「国家」と言うのはいうなればやくざの勢力範囲のことです。民衆への行政サービス機関ではなくただただ強盗団のボス争いですよね。

ステートを「国家」と訳したわけですが、この「国家」と言う言葉自体が漢語としては別の意味を持つそうです、「朝家」とか「公家」とかと同義なのだそうで朝廷とか王朝または天子と言う意味だそうです。(遊牧民から見た世界史、杉山正明)

もちろん現代はそうした意味では使っていないのだから、漢語の意味がどうだから云々というはおかしい、と言うのも確かでしょうが、でもやはり漢字というものから受ける印象と言うのは深層心理的な影響は大きいと思いますよね。司馬遼太郎の対談本などを読んでも明治期の日本人と中国人の国家論がかみ合わないのはこの国家観の違いだ、などと書いてあった記憶があります。中国で国家とは朝廷つまり清朝のことだったわけですね。

国民国家も所詮「想像の共同体」といわれる様に一つのフィクションですが、近代になっても、そのフィクションの根拠を強盗団の親分に求めるのはある意味滑稽な感じです(^^;、と言うかそういう国家観から離れないと民主主義が達成できるはずもないです。

ですから、戦国覇権を国家統一事業であるとか、思考錯誤掲示板でもQuesoさんが指摘しておられるように、幕府=鎖国、維新政府=開国というような単純構造化させ、なぜかはしらねど日本国家と言うものを連続的な史観で見ようとするバイアスが日本人の歴史教育にはかかっていて少しばかり科学的とは言い難いと思います。

*コメントは思考錯誤掲示板まで