St. John of the Crossの生き方に憧れて

受洗後、最初に買ったカトリックの本が「愛への道」。相応しい生き方をしてない。彼に倣う生き方が出来るよう心がけたいです。

日記

2014-12-03 02:37:00 | Weblog
1 goo blogの記事”ニ・ュ。ハ」ア」ー。ソ」イ」ケ。ヒ”が自身の参照2位に入っている。別にdadaではない。種明かしすると、OCNさんの”Blog Cafe”からの変換が上手くいかなかったのだ。ただ、OCNさんのブログは廃止。同じgooのOCNさんからの引越しブログ“Sard_Cafe“ではMTに落とし成功しているので、“どうしても”という方はそちらを見て欲しい。ただし、残念ながら写真は越して来てない。

2 今回詩の変更のみ。
写真は、11/22(土)東京・11/23(日)駒ヶ根・11/27(土)天竜峡・11/29(土)浜松。
東京は「詩と思想研究会」、駒ヶ根は教会の委員会、天竜峡は介護ボラ、浜松は「学と楽」。2週間、様々な場所に顔を出し、それなりに多忙だった。
この間、“European Literature”(西脇順三郎)「万葉集(上)」「俳句鑑賞歳時記」(山本健吉)「医学部への物理」「数学問題精講」「ハイレベル理系数学」「数学‘14・10月号」「日本物理学会誌’14・11月号」“Growing up with Jazz”(Stokes)“King Solomon‘s Ring”(Lorenz)「天使のいる星で」(鈴木重子)「中国語で短編小説を読もう!」「一冊目の中国語」「簡明実用漢語課本」[行動経済学入門](真壁昭夫)「ドストエフスキー作家の日記(上)」「芭蕉入門」(幸田露伴)「詩の原理」(萩原朔太郎)「ヨブ記講演」(内村鑑三)「教皇ヨハネ・パウロ2世の詩」「万葉の秀歌」(松尾聡)「現代詩の鑑賞4」(明治書院)“Pomes Penyeach”(Joyce)「楊貴妃」(大野実之介)「聖性の詩人フランチェスコ」(ボナール)「テレジアの詩」(幼きイエスの聖テレジア)「文芸批評論」(T.S.エリオット)「現代世界アジア詩集」“Mrs.Dalloway”(Woolf)「応用エレクトロニクス」(霜田光一他)“mathematics:Frontiers & Perspectives”「エムペードクレス」(ヘルダーリン)「カフカ全集7・日記」「日本文学鑑賞辞典古典編」(吉田精一編)など。

Lispマシンに関し。「コンピュータ・アーキテクチャ」(坂村健)からの引用。名著なので是非買っていただきたい。p.39からが、「3章Lispマシンのアーキテクチャ」。そこの「3.3アプローチの方法~3.6超革新的アプローチ」を読んでいただきたい。3.3にアプローチが4つ纏められていて、3.4~3.6に詳しく述べられている。3.4の表題から、
“①基本的に計算機を速くする ②高級言語マシンの一つと考える ③パーソナル化(VLSI化) ④まったく別のメカニズムを考える ”
3.4従来型アプローチとして、
“ CONSマイクロプロセッサーを使い、CDRコードを使うもの。CHAOSネットで個々のLispマシンを接続する。
 MBALMマシン。MBALコードなるリスト処理用の機械語に翻訳し、MBALMコードがB1726でインタプリートされる。
 FLATS。ECLを使って製作したもの。シンボルサーチ方式にハッシング方式を採用し、これをハードウェアで実現している。“
などが挙げられている。3.5~3.6は省略する。

3 「パッテン発生学」(西村書店)から再生に関し引用は次回に回す。

4 去年3月に「詩と思想」新人投稿欄に投稿するも採られなかった詩のシリーズがあります。第2回を何回かに分けて掲載します。選考に落ちてますから当然一定のレベルには達していません。第2回目。

“<冬の期待> あっ、あそこのビルは?雨も降り出した。このまま走り続けようかしら。それとも引き返す?どっちも同じって気づいた時にはもう天辺来てた。/炉端がいい?弁当?炉端なら暖簾の店、弁当ならコンビニ。でも、あの天辺意外と高いのねえ。展望レストランって訳にもいかないし。まあ、地味な食堂でも見つけて都会の雰囲気でも。/ああそうそう、お母さんに電話しなくちゃ。天辺って、意外とこう物ないものね。(この稿未完)”

天辺とは実は江ノ島。カトリックの教会があります。そこから街を抜け丘へ登ると公園があります。何となく飯田天竜峡を彷彿とさせるので、そこに舞台を設えました。語り口は女性。演歌を作詞し小沢亜貴子さんに贈った経験があってというか、そもそも彼女への作詞から出発し詩に転じる。詩からシナリオ・短歌へと広げる。演歌なので女性口調。堪える女性。その延長。落とし所は分かっている。日夏先生すみません!

5 “Hamiltonの四次元数”に関し、同じ名前の章が、「数(下)」(エビングハウス他、シュプリンガー)のKoecherとRemmertによる第7章にある。そこからの紹介。名著。読む読まないに関係なく買って一家に一冊備えておくべき書。是非!p.220から。第2回。

“Hamiltonの企ては、最初は成功しない。彼は実数対の場合と同様、通常の規則が引き続き成り立つような-すなわち、彼は永続原理を置いた-3つ組の乗法を求めている。彼は、i^2=j^2=-1 のもとで α+βi+γj と置き、”可換であるように計算して“最も簡単な2乗の場合を考察する。 
(α+βi+γj)^2=α^2-β^2-γ^2
+2iαβ+2jαγ+2ijβγ
Cの場合のように、乗法の値に対する試金石は、積規則であり、これによれば、積の長さは長さの積と一致すべきとなっている(ここで、α+βi+γjはユークリッド的長さ√(α^2+β^2+γ^2)を持つ)上の式の右辺における1、i,jの係数の2乗の和は、計算すると、
(α^2-β^2-γ^2)^2+(2αβ)^2+(2αγ)^2
=(α^2+β^2+γ^2)^2
となる。そこでHamiltonは、ij=0と置けば間違いなく積規則が満たされることを確認している。だがこれは彼の気に入らない。そこで彼は、上の式の右辺には、2ijではなく、実は(!)ij+jiがあることに気づいたのである。これは、零とならなければならない。すななち、ij=-ji。こうして彼は可換律を犠牲にすることを余儀なくされたのだった。“

6 “窓辺さえ淡き光彩影満ちて”
これも「何だかなあ」という句だが。「~さえ~」の句が2つ続く。

7 “1939:The principle of solidarity,also articulated in terms of ”friendship“ or ”social charity“,is a direct demand of human and Christian brotherhood.”
 (from “Catechism of the Catholic Church”)
 
8 “1939: Positive signs in the contemporary world are the growing awareness of the solidarity of the poor among themselves,their efforts to support one another,and their public demonstrations on the social scene which,without recourse to violence,present their own needs and rights in the face of the inefficiency or corruption of the public authorities.By virtue of her own evangelical duty the Church feels called to take her stand beside the poor,to discern the justice of their requests,and to help satisfy them,without losing sight of the good of groups in the context of the common good.”
(from ”The Companion of the Catechism of the Catholic Chruch“)
 
9 降誕節第1水曜日福音朗読より。マタイによる第15章から。

“そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。”
-(すべての民に約束された宴が、今、この山で開かれる。ここで供される「良い肉と古い酒」とは、キリストご自身の御体と御血のこと。)

†主のお恵みが。
†主に讃美と感謝。

2014年12月3日
                       乗倉寿明記す

日記

2014-11-19 14:30:27 | Weblog
1 goo blogの記事”ニ・ュ。ハ」ア」ー。ソ」イ」ケ。ヒ”が自身の参照2位に入っている。別にdadaではない。種明かしすると、OCNさんの”Blog Cafe”からの変換が上手くいかなかったのだ。OCNさん後継ブログでは成功したので、“どうしても”という方はそちらを見て欲しい。

2 カテキズムの変更のみ。写真は、11/9(日)の松本と11/16(日)の名古屋。アメブロと併せて1週間ブログ更新なしは初めて?ただ、先週はocnさんからの引越しに大童。gooへの引越し、手順通りで上手くいかず。結局、MTデータに落としそれをアップする。“goo”と“はてな”。緊急避難にホッと一息。そういう訳で更新出来ず。もう一つの理由が先週は詩を作ってた。3編。「詩と思想」新人投稿欄に投稿する。今週は、“コスモス”・“コスモス”2歌会・“赤石”・“かばん”に。短歌。今後順番から言うと俳句。少しシナリオを始めようかとも。多忙なので記事はこの位で。目立った更新なしで。先々週読んだのは、「芸術の思想」(矢内原伊作)「グアバの香り」(マルケス)「歌合集」(萩谷朴他)「連歌論集俳論集」(木藤才蔵他)「本居宣長全集第3・6巻」(筑摩書房)「日本の名著本居宣長」(中央公論)、「コーチング」(落合博道)「教育の論点」(文藝春秋)「萩原朔太郎雑志」(富士川英郎)「新基礎化学」(小塩弦也)「現代物理学小事典」(小野周)「トポバイオロジー」(エーデルマン)「ヴァージニアウルフある作家の日記」「労働経済学」(中馬宏之他)“The Geometry and Physics of Knots”“K-Theory”“Geometry of Yang-Mills Fields”(3冊Atiyah)“Mathematics:Frontiers and Perspectives”「百首異見」(香川景樹)、「俳句鑑賞歳時記」(山本健吉)「百年の孤独を歩く」(田村さと子)「戦後代表詩選続」(鮎川信夫他)「詩と思想10月号」“Nixon and Kissinger”(Dallek)“T.S.Eliot Complete”(faber&faber)「にっぽん脚本家クロニクル」(桂千穂)「My Bestよくわかる地理」(中村和郎)「万葉集(上)」「萩原朔太郎詩集」「サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇」(ワイルド)を読み散らかす。先週・今週の読んだ本について報告は次回。多忙!

エンジニアだった頃の想い出。その6。アーキテクチャ。ハードからOS、アプリケーションまで、コンピュータの設計に関わる各層の中で、一番面白いのがアーキテクチャだとは良く聞く。矢張り面白いんだろうなと思いながら、未だ実感出来ないでいる。結局、本物の専門家にはなれなかったのだと思う。「アセンブラプログラミング詳説IBMシステム/360・370(上下)」(ストラブル)「コンピュータ・アーキテクチャの設計」(マイヤーズ)「コンピュータの構成と設計(ⅠⅡ)」(ヒル/ピーターソン)「第5世代コンピュータの計画・文化」(広瀬・渕)「TRONを創る」(坂村健)「コンピュータ・アーキテクチャ」(坂村健)「コンピュータ・アーキテクチャ」(へネシー&パターソン)“IBM Personal XT・AT・System/2 Technical References”(IBM)“Introduction to Computer Architecture”(Stone)、周辺含めてリストしたが、一応一通り読んではいる。その中、例えば、坂村健氏の本では、第2章でアラン・ケイのアーキテクチャ、第3章はLispマシン、第4・5章非ノイマン型、第6章スーパーコンピュータ、第7・8章VLSIなどとなっており、「はじめに」には、(p.から)

“現在(‘84)重要と思われるトピックの多くは、80年代初頭までさかのぼって勉強すれば十分なものが多い。つまり、80年代初期から中期を根気よく勉強すれば、おのずと現代コンピュータの基礎を勉強したことになり、ひいては90年代のシステムを見通せるようになる。本書はそのような意味で80年代初期のコンピュータ・テクノロジーの整理を行ったものとも言える。”

とあるように‘80年代の雰囲気といったものを感じさせる。一方、へネシー&パターソンは、1990年刊。「序」には、(p.より)

“各クラス別の最も代表的なコンピュータを利用し、分析と比較のための基準を確立した。そのコンピュータとは、メインフレームのIBM360,ミニコンピュータのDEC VAX、マイクロコンピュータのIntel80x86である。この基準に従い、より単純なパイプライン・プロセッサ、あよび、並列プロセッサの将来を提示している。これらの新技術は、教育上有用でかつ実現性も高い、著者らが設計したプロセッサDLXタイプのマシンとして示されている。”

とあるが、“今後の方向”の章では、SIMD型・MIMD型コンピュータ、Sequent社のSymmetryマイクロプロセッサなどの紹介がある。付録には、彼らがその“生みの親”であるRISCアーキテクチャに関するサーベイも載っている。アラン・ケイ、Lispマシン、非ノイマン型、VLSI、VAX,80x86,RISCといった言葉が懐かしい。それらの全盛時代にごく些細ではあるが、関われたことは技術者冥利に尽きる。当時、ハード・ハードで、“出来る限りハードに置き換えて”という流れだった気がする。“OSの一定部分も何れハード化されるのでは?”と思っていたわたくしにとって、RICSは将に大きな驚きだった。Workstation。また、出版社の共立で思い出すのが、「bit」というコンピュータ専門誌。小日向にも行ったことがあり、一入思い入れが強い。「インターフェース」とともに2冊、毎月定期購読し勉強したものだ。今、へネシー&パターソンも、書棚にSinger/Bergの2冊本「遺伝子とゲノム(上下)」とともに並んでいる。久しく紐解いてない。機会を見つけて両方読みたいと思ってはいるのだが。上に挙げた言葉一つ一つに、“当時ああだった、こうだった”の思いがある。例えばVAX。パスワードに使ったのが、“サードガール”という漫画の作者の名前。30年経ってここに書いても何ら意味がないが、主人公を課の事務係りの女の子に準えていた。現実は掠りもしなかったが、VAXに“エンターする”ことが密かな恋の告白になっていたのだ。“恋”で思うのだが、“恋愛適正年齢”って何歳くらいまで?と思う。DVD「新約聖書」ばかり見ていた所為もあって、そういう出し方になるかも知れないが、キリストが十字架に架けられた36歳くらいまででは?“36歳を越えたら恋愛も慎みを持って、ある一線まででは?”と思う。“44歳で・・・”って歌を読んだけど、”真似出来ないなあ”と感じてしまう。

マグダラのマリアについて。教会では7月22日を“マグダラのマリア”の記念日に定めています。関連して「毎日のミサの友」「毎日の福音」から抜粋します。なお、マグダラのマリアの取り成しを願う祈りを探したのですが、見つかりません。「マグダラのマリア様、・・・」と祈るか、叙唱の“聖人”「聖なる父、全能永遠の神、聖人を通して示されたあなたの栄光をたたえ、・・・」に従って祈ればいいと思います。

“キリストに従う人たちの一人で、キリストが十字架上で亡くなられたときそばに立ち、三日目の朝早く、復活したイエスと最初に出会った。マグダラのマリアへの崇敬は、特に十二世紀から西方教会に広まった。”
“マグダラのマリアは、「肉に従って」復活のイエスを見ようとしたとき、「イエスだとは分からなかった」。しかし、イエスの「マリア」という呼びかけで、彼女はすべてを理解する。彼女が深く「キリスト」と結ばれていたからである。”
“墓の外に立って泣いていたマグダラのマリアに復活した主が現れる。彼女は復活の喜びを最初に告げる者、使徒たちへの使徒となる。それは彼女のイエスに対するひたむきな愛があったから。”
“マリアにとってイエスは「わたしの主」、「わたしのいのち」でした。女性として信じ、愛し、嘆きに沈むマリアに、イエスは近づき、「マリア」と呼ばれます。イエスはわたしたち一人ひとりを、それぞれの状況、ありのままの状態においてお呼びになります。”

第一朗読は2コリンチャンス第5章。詩篇は第63章、福音朗読はヨハネによる第20章を見てください。もう一つの第一朗読・雅歌からのみ引用します。

“[おとめは歌う。]夜ごと、ふしどに恋いしたう人を求めても/求めても、見つかりません。/起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。//求めても、あの人は見つかりません。/わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」/彼らに分かれるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。”

4 去年3月に「詩と思想」新人投稿欄に投稿するも採られなかった詩のシリーズがあります。第2回を何回かに分けて掲載します。選考に落ちてますから一定のレベルには達してません。

“<冬の期待> あっ、あそこのビルは?雨も降り出した。このまま走り続けようかしら。それとも引き返す?どっちも同じって気づいた時にはもう天辺来てた。/(この稿未完)”

天辺とは実は江ノ島。カトリックの教会があります。そこから街を抜け丘へ登ると公園があります。何となく飯田天竜峡を彷彿とさせるので、そこに舞台を設えました。語り口は女性です。日夏先生すみません!

5 “Hamiltonの四次元数”に関し、同じ名前の章が、「数(下)」(エビングハウス他、シュプリンガー)のKoecherとRemmertによる第7章にある。そこからの紹介。名著。読む読まないに関係なく買って一家に一冊備えておくべき書。是非!p.219から。第1回。

“1.複素数x+iyの計算を、順序つき実数対(x,y)に関する操作として正当化した。これは、複素数の和、とりわけR^2上の積の幾何学的な解明が-超複素数(=多元数)の創造か何かによって-われわれの直観の空間R^3においても類似物をもてるのではないか、という問いに対するHamiltonの出発点だった。Hamiltonは、長年の間実数の3つの組に対して良い性質をもった乗法を発見しようと望んでいた。・・・自分の息子にあてて次のように書いている「毎朝朝食に下りてくるとき、お前はよく尋ねたものだった。”ねえ、お父さん、3つ組は掛けられるの?“それにはいつも、悲しく首を横にふりながら、”いや、足したり引いたりできるだけなんだよ“と答えねばならないのだった。」今日では、C=R^2⊂R^3の対(α、β)の乗法を拡張する3つ組(α、β、γ)の空間R^3での乗法が存在しないことを明確にすることはやさしい。すなはち、R^3での標準基底をe=(1,0,0)、i=(0,1,0)、j=(0、0、1)と記すと、ij=ρe+σi+τjと書かねばならない。このことから、i^2=-e,i(ij)=(ij)j=-jとしてみると、-j=ρi-σe+τij=ρi-σe+τ(e+i+j)=(τρ-σ)e+(τσ+ρ)i+τ^2jが出てくるが(e,i,jの一次独立性から)、τ^2=-1、すなはちτはRに属さない。”

6 “木漏れ日の秋の夕日に黒ジョッキ”
これも「何だかなあ」という句だが。背景が。名古屋歌会で「旅先必ずジョッキで生」が話題に上る。

7 “1939:The principle of solidarity,also articulated in terms of ”friendship“ or ”social charity“,is a direct demand of human and Christian brotherhood.”
 (from “Catechism of the Catholic Church”)
 
8 “1939: Positive signs in the contemporary world are the growing awareness of the solidarity of the poor among themselves,their efforts to support one another,and their public demonstrations on the social scene which,without recourse to violence,present their own needs and rights in the face of the inefficiency or corruption of the public authorities.By virtue of her own evangelical duty the Church feels called to take her stand beside the poor,to discern the justice of their requests,and to help satisfy them,without losing sight of the good of groups in the context of the common good.”
(from ”The Companion of the Catechism of the Catholic Chruch“)
 
9 年間第33水曜福音朗読より。ルカによる第19章から。

“「言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打つ殺せ。」”
-(愛は手をこまねいて見ていられない。愛は失敗を恐れない。愛は恐れを締め出す。)

†主のお恵みが。
†主に讃美と感謝。

2014年11月19日
                       乗倉寿明記す

日記

2014-10-30 13:23:44 | Weblog
1 goo blogの記事”ニ・ュ。ハ」ア」ー。ソ」イ」ケ。ヒ”が自身の参照2位に入っている。別にdadaではない。種明かしすると、OCNさんの”Blog Cafe”からの変換が上手くいかなかったのだ。OCNさん後継ブログでは成功したので、“どうしても”という方はそちらを見て欲しい。

2 詩の変更のみ。写真は、10/25(土)の東京。東京に行く。1月以来の神楽坂。「詩と思想」の月一研究会だ。あれからもう一年になる。そう思いつつ参加する。今、一年の総括準備を始めてもいい時期。が、年初「納得のいく詩を作る」の課題は何処へやら、漫然と今年も終わりつつある。「神よ、我をして善き詩句の一編を作らせ給え」との願いも無駄。取り組みが粗いから。勉強の絶対量が足りない。先週は先週で俳句を作る。30作り、うち5句を角川に投稿。駄句でしかない。金曜は午前マックへ。東京でも一番に新宿のマックにだったが。日曜は集会祭儀の後、リン庁で勉強。昨日は、ココスで夜勉強。そんな訳で、先週水曜から昨日にかけて、仕事関連の他、 “Introduction to Quantum Fields on a Lattice”(Smit)“Noncommutative Geometry and Number Theory”(Consani et.al)「俳句鑑賞歳時記」(山本健吉)「百年の孤独を歩く」(田村さと子)「西洋哲学史Ⅰ」(ラッセル)「チューホフ全集10・11」「戯曲作法」(小山内薫)「遠野物語」(柳田国男)「現代詩の鑑賞4」(明治書院)「ロビンの生活」(ラック)「戦後代表詩選」(鮎川信夫他)「素粒子物理」(戸塚洋二)「無機化学」(齊藤太郎)「代数函数論」(岩澤健吉)「ハイレベル理系数学」(河合出版)「現代文」(数研出版)「古文」(数研出版)「詩と思想10月号」「医学部への物理」(駿台文庫)などを読む。“Quantum Fields”と小山内、チューホフの11巻は読み終える。朝起きぬけと夜寝る際に読むマルケスについての論評が愉しみ。火曜から次の詩を書き始める。壁テニスと散歩で体調を整え、散歩しながら文学書を読む。昨日は夜、再びマックへ。10時から2時近く迄粘る。「万葉集(上)」「萩原朔太郎詩集」「サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇」(ワイルド)“Introduction to  on a Lattice”Smit)を読む。2時から4時まで詩の推敲。未だ熟さず。

エンジニアだった頃の想い出その5。OS。パソコン設計部門で残業時間に皆で勉強したのがハーバーマンの「オペレーティングシステムの基礎」だ。矢張り培風館。同じ培風館からは、ピーターソン/シルバーシャッツの「オペレーティングシステムの概念(上下)」も出ている。下巻では確かUnixを特集してたような気がする。ライクだったかな。3冊とも諏訪のファミレスで既に読みきっていたので、勉強会には最初の方だけ参加した。何か目新しいことがあるか確認したかったからである。当時、IBMではDOSの次世代アーキテクチャとしてOS/2を大々的に宣伝していた。「新しいシステムはIBM技術の粋を集めた。これでクローンの追随はなくなる」と。現場にいて毎日伝わってくるニュースにワクワクしていた。次長さんが週の前半はサンノゼ、後半は塩尻という時代。次長さんの報告を心待ちにしていた。わたしは専ら「OS/2システム・アーキテクチャ」(レットウイン;アスキー)を読んだ。寮の近くにファミレスは無かったので寮で読む。朝読み始め、西日の壁に当たるまで読み耽ったのが懐かしい。その後、OSについては折を見て購入しては読んだ。既にエンジニアから離れていたので、“嗜んだ”というのが正確かも知れない。美味な料理と美麗な景観。いい設計に必須は坂村健氏の言葉。設計哲学に必携の名著がそれに加わる。2冊の他「UNIX4.3BSDの設計と実装」(レフラー他;丸善)「Unixカーネルの設計」(バッハ;共立)「オペレーティングシステム」(スウイッツア;サイエンス社)「OSの基礎と応用」(タネンバウム;トッパン)“Distributed Operating Systems;”“Operating System:Design and Implementation”(Tanenbaum;Prentice Hall)。特にBSDとタネンバウムの3冊はよく読んだ。こうして綴って来て、はたと頭の中、ある詩句が渦巻く。

“いろいろな家に住み何年もが過ぎたが、イチジクの木はどこにもなかった。/アオイマメ、ズッキーニ、パセリ、サトウダイコンはあった。/「一本植えなさいよ」と母が言っても、父は決して言うことをきかなかった。/彼は庭の手入れに気乗りせず、水をやるのも忘れ/オクラを育ち放題にした。/「あのひとはとんでもない夢想家よ。どんなにたくさんのことに/手を出して、やり遂げなかったか知ってるでしょう。」”

「父とイチジクの木」(ナノミ・シハブ・ナイ;「アメリカ現代詩101人集」(ライト;沢崎順之助他訳;思潮社)の一節だ。よかったら購入して読んでいただければ幸いに思う。自分的には、せっかくの美味な料理と美麗な景観、設計哲学に必携の名著の数々も単なる夢想に終わっては埒も開かない。

マグダラのマリアについて。教会では7月22日を“マグダラのマリア”の記念日に定めています。関連して「毎日のミサの友」「毎日の福音」から抜粋します。なお、マグダラのマリアの取り成しを願う祈りを探したのですが、見つかりません。「マグダラのマリア様、・・・」と祈るか、叙唱の“聖人”「聖なる父、全能永遠の神、聖人を通して示されたあなたの栄光をたたえ、・・・」に従って祈ればいいと思います。

“キリストに従う人たちの一人で、キリストが十字架上で亡くなられたときそばに立ち、三日目の朝早く、復活したイエスと最初に出会った。マグダラのマリアへの崇敬は、特に十二世紀から西方教会に広まった。”
“マグダラのマリアは、「肉に従って」復活のイエスを見ようとしたとき、「イエスだとは分からなかった」。しかし、イエスの「マリア」という呼びかけで、彼女はすべてを理解する。彼女が深く「キリスト」と結ばれていたからである。”
“墓の外に立って泣いていたマグダラのマリアに復活した主が現れる。彼女は復活の喜びを最初に告げる者、使徒たちへの使徒となる。それは彼女のイエスに対するひたむきな愛があったから。”
“マリアにとってイエスは「わたしの主」、「わたしのいのち」でした。女性として信じ、愛し、嘆きに沈むマリアに、イエスは近づき、「マリア」と呼ばれます。イエスはわたしたち一人ひとりを、それぞれの状況、ありのままの状態においてお呼びになります。”

第一朗読は2コリンチャンス第5章。詩篇は第63章、福音朗読はヨハネによる第20章を見てください。もう一つの第一朗読・雅歌からのみ引用します。

“[おとめは歌う。]夜ごと、ふしどに恋いしたう人を求めても/求めても、見つかりません。/起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。//求めても、あの人は見つかりません。/わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」/彼らに分かれるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。”

4 去年3月に「詩と思想」新人投稿欄に投稿するも採られなかった詩のシリーズがあります。第2回を何回かに分けて掲載します。選考に落ちてますから一定のレベルには達してません。

“<冬の期待> あっ、あそこのビルは?雨も降り出した。このまま走り続けようかしら。それとも引き返す?どっちも同じって気づいた時にはもう天辺来てた。/(この稿未完)”

天辺とは実は江ノ島。カトリックの教会があります。そこから街を抜け丘へ登ると公園があります。何となく飯田天竜峡を彷彿とさせるので、そこに舞台を設えました。語り口は女性です。日夏先生すみません!

5 “Hamiltonの四次元数”に関し、同じ名前の章が、「数(下)」(エビングハウス他、シュプリンガー)のKoecherとRemmertによる第7章にある。そこからの紹介。名著。読む読まないに関係なく買って一家に一冊備えておくべき書。是非!p.219から。第1回。

“1.複素数x+iyの計算を、順序つき実数対(x,y)に関する操作として正当化した。これは、複素数の和、とりわけR^2上の積の幾何学的な解明が-超複素数(=多元数)の創造か何かによって-われわれの直観の空間R^3においても類似物をもてるのではないか、という問いに対するHamiltonの出発点だった。Hamiltonは、長年の間実数の3つの組に対して良い性質をもった乗法を発見しようと望んでいた。・・・自分の息子にあてて次のように書いている「毎朝朝食に下りてくるとき、お前はよく尋ねたものだった。”ねえ、お父さん、3つ組は掛けられるの?“それにはいつも、悲しく首を横にふりながら、”いや、足したり引いたりできるだけなんだよ“と答えねばならないのだった。」今日では、C=R^2⊂R^3の対(α、β)の乗法を拡張する3つ組(α、β、γ)の空間R^3での乗法が存在しないことを明確にすることはやさしい。すなはち、R^3での標準基底をe=(1,0,0)、i=(0,1,0)、j=(0、0、1)と記すと、ij=ρe+σi+τjと書かねばならない。このことから、i^2=-e,i(ij)=(ij)j=-jとしてみると、-j=ρi-σe+τij=ρi-σe+τ(e+i+j)=(τρ-σ)e+(τσ+ρ)i+τ^2jが出てくるが(e,i,jの一次独立性から)、τ^2=-1、すなはちτはRに属さない。”

6 “喫緊に老いゆく秋と我が想い”
連続で「何だかなあ」という俳句、自作だが。

7 “1939:The principle of solidarity,also articulated in terms of ”friendship“ or ”social charity“,is a direct demand of human and Christian brotherhood.”
 (from “Catechism of the Catholic Church”)
 
8 “1939: The exercise of solidarity within each society is valid when its members recognize one another as persons.Those who are more influential,because they have a greater share of goods and common services,should feel responsible for the weaker and be ready to share with them all they possess.Those who are weaker,for their part,in the same spirit of solidarity,should not adopt a purely passive attitude or one that is destructive of the social fablic,but,while claiming their legitimate rihts,should do what they can for the good of all.The intermediate groups,in their turn,should do selfishly insist on their particular interests,but respect the interests of otehrs.
(from ”The Companion of the Catechism of the Catholic Chruch“)
 
9 年間第30金曜日福音朗読より。ルカによる第13章から。

“「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」”
-(イエスは御父の御心を行い、十字架の上で死ぬ。だが、それで終わるのではない。復活して昇天しても、常に信じる者たちと共に歩み続けられる。)

†主のお恵みが。
†主に讃美と感謝。

2014年10月30日
                       乗倉寿明記す

日記

2014-10-22 13:04:30 | Weblog
1 goo blogの記事”ニ・ュ。ハ」ア」ー。ソ」イ」ケ。ヒ”が自身の参照2位に入っている。別にdadaではない。種明かしすると、OCNさんの”Blog Cafe”からの変換が上手くいかなかったのだ。OCNさん後継ブログでは成功したので、“どうしても”という方はそちらを見て欲しい。

2 数学の変更のみ。写真は10/16(木)の飯田。信大真壁先生の経済講演会があって、その折。あと、10/19(日)の名古屋。飯田6:30発の高速バスで栄へ。9:30からと18:00からの2回、布池教会のミサに与る。午後は、1:00からコスモス短歌会愛知支部会に参加。最終21:30のバスで帰飯する。土曜は上郷マック。昼間の(!)2時頃迄本を読んで勉強。夕方寝て、夜中に短歌を作る。月曜は午前・午後と仕事に入る前、コスモス、コスモス松本・名古屋両歌会、かばんの計4ヶ所の為、投稿歌を推敲する。歌自体は20程既に作ってあった。推敲し作品に仕上げる。金曜から昨日火曜にかけて読んだ本のリスト。仕事関係の他、「現代の短歌」(高野公彦)「行動経済学入門」(真壁昭夫)「現代ファイナンス論」(マートン)“An Introduction to the Mathematics of Finance Derivatives”(Neftci)“Aspects of Mathematical Finance”(Yor)“Introduction to Quantum Fields on a Lattice”(Smit)「現代名詩選(上中)」(新潮文庫)「俳句鑑賞歳時記」(山本健吉)「現代名歌選」(久保田正文)「新古今和歌集」(佐々木信綱)「詩の自覚の歴史」(山本健吉)「角川短歌賞受賞作品集」(角川学芸出版)「謎ときガルシア=マルケス」(木村榮一)「アメリカ」(カフカ)「チェーホフ全集(Ⅱ)」(ちくま文庫)「写生説の研究」(北住敏夫)「隔離の里」(宮下忠子)「自由と繁栄の弧」(麻生太郎)「経済発展の理論(上)」(シュムペーター)。「謎ときガルシア=マルケス」は読み終わる。依然ラテンアメリカ文学がマイブーム。2冊、“An Introduction to the Mathematics of Finance Derivatives” “Introduction to Quantum Fields on a Lattice”を比較文学。もう一組「確率場の数学」(今村勤)「確率微分方程式」(長井英生)も併せ読もうかと思う。

エンジニアだった頃の想い出その3。入社2ヶ月のとき、“職場事故を防止する為の安全標語”を考え、寄せ書きすることになっていた。余りにお馬鹿なことをやったものだが、早速大阪万博のとき流行った岡本太郎さんのフレーズ「芸術は爆発だ」をもじり、「安全は爆発だ」と書き捨てた。しばらく「安全が爆発するノリクラ君」が2~3ヶ月わたしのキャッチになった。ところで、当時読んでいた本、印象深いのはミンスキーの「計算機の数学的理論」。マクラック=ピットから始め、閾値の調整で論理回路迄進む記述は衝撃的。名著中の名著。ミンスキーは長くM.I.Tのメディアラボのトップだった人で、“Perceptron”の著者でもある。この本によってニューラルネットの限界が明らかになった。才気煥発な人で、火星人の役で映画に出たり、“Turing Man”という小説も書いている。3冊とも書棚にあった。一通りは読む。

マグダラのマリアについて。教会では7月22日を“マグダラのマリア”の記念日に定めています。関連して「毎日のミサの友」「毎日の福音」から抜粋します。なお、マグダラのマリアの取り成しを願う祈りを探したのですが、見つかりません。「マグダラのマリア様、・・・」と祈るか、叙唱の“聖人”「聖なる父、全能永遠の神、聖人を通して示されたあなたの栄光をたたえ、・・・」に従って祈ればいいと思います。

“キリストに従う人たちの一人で、キリストが十字架上で亡くなられたときそばに立ち、三日目の朝早く、復活したイエスと最初に出会った。マグダラのマリアへの崇敬は、特に十二世紀から西方教会に広まった。”
“マグダラのマリアは、「肉に従って」復活のイエスを見ようとしたとき、「イエスだとは分からなかった」。しかし、イエスの「マリア」という呼びかけで、彼女はすべてを理解する。彼女が深く「キリスト」と結ばれていたからである。”
“墓の外に立って泣いていたマグダラのマリアに復活した主が現れる。彼女は復活の喜びを最初に告げる者、使徒たちへの使徒となる。それは彼女のイエスに対するひたむきな愛があったから。”
“マリアにとってイエスは「わたしの主」、「わたしのいのち」でした。女性として信じ、愛し、嘆きに沈むマリアに、イエスは近づき、「マリア」と呼ばれます。イエスはわたしたち一人ひとりを、それぞれの状況、ありのままの状態においてお呼びになります。”

第一朗読は2コリンチャンス第5章。詩篇は第63章、福音朗読はヨハネによる第20章を見てください。もう一つの第一朗読・雅歌からのみ引用します。

“[おとめは歌う。]夜ごと、ふしどに恋いしたう人を求めても/求めても、見つかりません。/起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。//求めても、あの人は見つかりません。/わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」/彼らに分かれるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。”

4 半年程前に「現代詩手帖」に投稿したけど採られることのなかった詩の紹介。7回目、多分。段々と書き足していきます。一定のレベルに達しない詩ではありますが・・・。

“「昼」 白い小さな指先から 零れ落ちる サラサラした細かい砂 アポロニウスの円筒形 破損した硝子 //振り子細工のように 時を刻んで来た その機械はもう鳴らない //何千もの部品からなる 精密なゼンマイ装置 淀みのない時を刻み 傷みの欠けた歴史を繰り返す 空間の歪み そして 抜けるように広い青空//補正しようにも 補正しようのない 鋭い悔恨 戦禍にも その村は焼け落ちず・・・ 空間が そして 後に時間が後退して 仄かな祈りが・・・//空に白雲が立ち籠め 木々の緑 その影は 日差しを遮り 小さなバルコニーには 混沌が形成されていた 空港に出て 半島を半時計周りに巡って また読み止しの本に戻った// 「ステファニーが フランスに旅をして お菓子屋になる為に パリで勉強する やがて 大人のする恋をした そして 振られ・・・」//お座なりに投げ出された鞄から 星が銀河のように溢れ出て 空間を限りない光で満たした//次第に遠のいて行く テールランプ 棒状に浮かぶ雲たち 庇には もう東の月が出ている 周到に準備された 文月のような それでもう 終末に近いことが分かる//しなければならなかったことを 後悔して 記憶に残る糸を 辿ってみる 階段を駆け上る//そして 過ぎ去った時間の中 人間は人魚であった 住み慣れた街を捨て 逸れた恋人が タクシーで テールランプを追うように 記憶の微かなうねりを そのままに捉える//人間は嘗て海にあった 朝焼けは意外と簡単で 独り下宿の六畳間で 立ち尽くしていたが 調べなき夕暮れに 東風が出てきた 珈琲を飲み 貿易風についいて 若干議論する//「必然」と染められた旗が 風に運ばれ「憮然」と翻る それが自然の真情だったのかと 轍にぬかるんで 夏の午後 身動きが取れなくなった//白い幽霊が 下北に出て 蒼い白鳥が 係累を払いながら 露に噎せ入って 水底に沈められたのは 何の象徴だったのか//水路を流れる 淡い鴇色の風景 結末は未だ知らない 春も未だ来ない 体育館から人が出て 五島の方へ旅立つ ぞろぞろと 黒子のあった辺りを結ぶ 嵌められた絵のような 水晶の球ばかり 一瞬のざわめき//エテルニタスの様に 風船が 瞬間 大空に駆け登って来た 良心のないエゴイズム 緑なす高原を そして谷川を 列車は 二時間遅れて 終点迄向かう むか伏す夢//アウレーニアとフリージアは もう歌わない夢 だから 歌わなくても それはそれでいい もう夏だ
(掲載完了)

一応完成。次から如何しよう?困っている。詩自体は、何処で終わっても何ら変わらないどうでもいい文章。響いてこない。最後息切れしたか、西脇詩のパクリ。寂しい風が吹く。雲が切れる。月が覗く。狐目をした女が通りかかる。旗竿が風に靡き、如何しようもない倦怠を運び来る。奥沢に幽霊が出る。奥多摩に静寂が戻る。何時かきちんと推敲したい。という訳で私はこれで。

5 “Hamiltonの四次元数”に関し、同じ名前の章が、「数(下)」(エビングハウス他、シュプリンガー)のKoecherとRemmertによる第7章にある。そこからの紹介。名著。読む読まないに関係なく買って一家に一冊備えておくべき書。是非!p.219から。第1回。

“1.複素数x+iyの計算を、順序つき実数対(x,y)に関する操作として正当化した。これは、複素数の和、とりわけR^2上の積の幾何学的な解明が-超複素数(=多元数)の創造か何かによって-われわれの直観の空間R^3においても類似物をもてるのではないか、という問いに対するHamiltonの出発点だった。Hamiltonは、長年の間実数の3つの組に対して良い性質をもった乗法を発見しようと望んでいた。・・・自分の息子にあてて次のように書いている「毎朝朝食に下りてくるとき、お前はよく尋ねたものだった。”ねえ、お父さん、3つ組は掛けられるの?“それにはいつも、悲しく首を横にふりながら、”いや、足したり引いたりできるだけなんだよ“と答えねばならないのだった。」今日では、C=R^2⊂R^3の対(α、β)の乗法を拡張する3つ組(α、β、γ)の空間R^3での乗法が存在しないことを明確にすることはやさしい。すなはち、R^3での標準基底をe=(1,0,0)、i=(0,1,0)、j=(0、0、1)と記すと、ij=ρe+σi+τjと書かねばならない。このことから、i^2=-e,i(ij)=(ij)j=-jとしてみると、-j=ρi-σe+τij=ρi-σe+τ(e+i+j)=(τρ-σ)e+(τσ+ρ)i+τ^2jが出てくるが(e,i,jの一次独立性から)、τ^2=-1、すなはちτはRに属さない。”

6 “西空に靡きて白し羊雲”
少し前の自作俳句。

7 “1939:The principle of solidarity,also articulated in terms of ”friendship“ or ”social charity“,is a direct demand of human and Christian brotherhood.”
 (from “Catechism of the Catholic Church”)
 
8 “1939: The exercise of solidarity within each society is valid when its members recognize one another as persons.Those who are more influential,because they have a greater share of goods and common services,should feel responsible for the weaker and be ready to share with them all they possess.Those who are weaker,for their part,in the same spirit of solidarity,should not adopt a purely passive attitude or one that is destructive of the social fablic,but,while claiming their legitimate rihts,should do what they can for the good of all.The intermediate groups,in their turn,should do selfishly insist on their particular interests,but respect the interests of otehrs.
(from ”The Companion of the Catechism of the Catholic Chruch“)
 
9 年間第29水曜日福音朗読より。ルカによる第12章から。

“「家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」”
-(「主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔いしれている管理人。」それは豊かな国に住んでいる私たちではないだろうか。)

†主のお恵みが。
†主に讃美と感謝。

2014年10月22日
                       乗倉寿明記す

日記

2014-10-15 01:25:20 | Weblog
1 goo blogの記事”ニ・ュ。ハ」ア」ー。ソ」イ」ケ。ヒ”が自身の参照2位に入っている。別にdadaではない。種明かしすると、OCNさんの”Blog Cafe”からの変換が上手くいかなかったのだ。OCNさん後継ブログでは成功したので、“どうしても”という方はそちらを見て欲しい。

2 多忙につき、カテキズムの変更は飛ばす。変更なし。近況のみ変更。写真は10/12(日)の松本。日曜日、一番で出発、電車で往復。ミサとコスモス短歌会。何時もの通り、飯田教会で最終電車の時間まで祈り帰ってくる。3回目の松本行きだが、初めて自分の居た広丘の会社を車窓に眺める。インテルさんのような特徴的な正面玄関はそのまま。が、大きく増築され、昔の面影ではない。石川セリを聞きながら臨んだ入社試験、当日の様子を昨日のように思い出す。が、もう30年が経過している。「エンジニアの世界は人間活動の中で最も幸せなエルドラド。一生その世界に生きることが出来たら。」若き日の夢は遥か昔。不思議な縁で、その後3倍の時間同じ中信に生活する。が、その技能職も昔。奇遇というべきか、昨日は弟と甥がやってくる。甥はエンジニア。これからの人生、身内や若い人達に夢を託すしかない。或いは、文章で表現する。という訳で早速の第1回目。入社して早々に社内旅行行き先のアンケート。当時、筑波に科学万博があった。が、旅の日程は期間よりずっと後。わたくしはアンケートに「筑波科学万博跡地見学」と書く。直属の上司が旅行の委員だったが、匿名のそのアンケートに受けていただけた。わたくしは、密かに「それ書いたのわたしなんだけど・・・」と心の中、ほくそ笑んでいた。

3 英語音読。ここ2・3日のわたしの中のブームだ。先々週土曜日に上郷マックで何気なく音読したのを切っ掛けに、土曜弁天橋ファミマ・日曜電車の行き帰りと音読。可也の時間音読に過ごす。対象は限られていて、詩と小説。「高校教育で英語の小説を読ませよう」と一昨年の英語教育学会で啖呵を切った以上、自分で実行しないと。4冊がメイン。ジョイスを除き大部な1冊全集。“T.S.Eliot The Complete”“Edgar Allan Poe The Complete”“Oscar Wilde The Complete”“Poems and Exiles”(Joyce9)。松本行きなどで読んだのは「高村光太郎」(伊藤信吉)「層・圏・トポス」(竹内外史)「現代物理小事典」(小野周)「現代の短歌」(高野公彦)「戦後代表詩選(正・続)」(鮎川信夫他)。昨日は台風の雨の中、夜、サティー横のカレー屋で勉強。土曜日は松川でミサ、日曜は松本。松川でのミサ後のお茶会。信者さんが短歌・川柳を始めて、という話が。信仰を歌に出来ればいいと思っているが、中々上手くいかない。最近、塚本短歌もどきしか出来ない。停滞気味。神父様が「夢日記」の話。わたくしは三島の「豊穣の海4部作」を連想し、感冒の如く三島を読みたくなる。土・月と詩を作り「詩と思想」に送る。余りいい出来ではない。一方は夜中2時に仕上げ、「繋船ホテルの朝の歌」にインスパイアされた方は昼の2時。共に100点中20点。満足いくものではない。適当な時期に取り上げてみたい。

マグダラのマリアについて。教会では7月22日を“マグダラのマリア”の記念日に定めています。関連して「毎日のミサの友」「毎日の福音」から抜粋します。なお、マグダラのマリアの取り成しを願う祈りを探したのですが、見つかりません。「マグダラのマリア様、・・・」と祈るか、叙唱の“聖人”「聖なる父、全能永遠の神、聖人を通して示されたあなたの栄光をたたえ、・・・」に従って祈ればいいと思います。

“キリストに従う人たちの一人で、キリストが十字架上で亡くなられたときそばに立ち、三日目の朝早く、復活したイエスと最初に出会った。マグダラのマリアへの崇敬は、特に十二世紀から西方教会に広まった。”
“マグダラのマリアは、「肉に従って」復活のイエスを見ようとしたとき、「イエスだとは分からなかった」。しかし、イエスの「マリア」という呼びかけで、彼女はすべてを理解する。彼女が深く「キリスト」と結ばれていたからである。”
“墓の外に立って泣いていたマグダラのマリアに復活した主が現れる。彼女は復活の喜びを最初に告げる者、使徒たちへの使徒となる。それは彼女のイエスに対するひたむきな愛があったから。”
“マリアにとってイエスは「わたしの主」、「わたしのいのち」でした。女性として信じ、愛し、嘆きに沈むマリアに、イエスは近づき、「マリア」と呼ばれます。イエスはわたしたち一人ひとりを、それぞれの状況、ありのままの状態においてお呼びになります。”

第一朗読は2コリンチャンス第5章。詩篇は第63章、福音朗読はヨハネによる第20章を見てください。もう一つの第一朗読・雅歌からのみ引用します。

“[おとめは歌う。]夜ごと、ふしどに恋いしたう人を求めても/求めても、見つかりません。/起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。//求めても、あの人は見つかりません。/わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」/彼らに分かれるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。”

4 半年程前に「現代詩手帖」に投稿したけど採られることのなかった詩の紹介。7回目、多分。段々と書き足していきます。一定のレベルに達しない詩ではありますが・・・。

“「昼」 白い小さな指先から 零れ落ちる サラサラした細かい砂 アポロニウスの円筒形 破損した硝子 //振り子細工のように 時を刻んで来た その機械はもう鳴らない //何千もの部品からなる 精密なゼンマイ装置 淀みのない時を刻み 傷みの欠けた歴史を繰り返す 空間の歪み そして 抜けるように広い青空//補正しようにも 補正しようのない 鋭い悔恨 戦禍にも その村は焼け落ちず・・・ 空間が そして 後に時間が後退して 仄かな祈りが・・・//空に白雲が立ち籠め 木々の緑 その影は 日差しを遮り 小さなバルコニーには 混沌が形成されていた 空港に出て 半島を半時計周りに巡って また読み止しの本に戻った// 「ステファニーが フランスに旅をして お菓子屋になる為に パリで勉強する やがて 大人のする恋をした そして 振られ・・・」//お座なりに投げ出された鞄から 星が銀河のように溢れ出て 空間を限りない光で満たした//次第に遠のいて行く テールランプ 棒状に浮かぶ雲たち 庇には もう東の月が出ている 周到に準備された 文月のような それでもう 終末に近いことが分かる//しなければならなかったことを 後悔して 記憶に残る糸を 辿ってみる 階段を駆け上る//そして 過ぎ去った時間の中 人間は人魚であった 住み慣れた街を捨て 逸れた恋人が タクシーで テールランプを追うように 記憶の微かなうねりを そのままに捉える//人間は嘗て海にあった 朝焼けは意外と簡単で 独り下宿の六畳間で 立ち尽くしていたが 調べなき夕暮れに 東風が出てきた 珈琲を飲み 貿易風についいて 若干議論する//「必然」と染められた旗が 風に運ばれ「憮然」と翻る それが自然の真情だったのかと 轍にぬかるんで 夏の午後 身動きが取れなくなった//白い幽霊が 下北に出て 蒼い白鳥が 係累を払いながら 露に噎せ入って 水底に沈められたのは 何の象徴だったのか//水路を流れる 淡い鴇色の風景 結末は未だ知らない 春も未だ来ない 体育館から人が出て 五島の方へ旅立つ ぞろぞろと 黒子のあった辺りを結ぶ 嵌められた絵のような 水晶の球ばかり 一瞬のざわめき//エテルニタスの様に 風船が 瞬間 大空に駆け登って来た 良心のないエゴイズム 緑なす高原を そして谷川を 列車は 二時間遅れて 終点迄向かう むか伏す夢//アウレーニアとフリージアは もう歌わない夢 だから 歌わなくても それはそれでいい もう夏だ
(掲載完了)

一応完成。次から如何しよう?困っている。詩自体は、何処で終わっても何ら変わらないどうでもいい文章。響いてこない。最後息切れしたか、西脇詩のパクリ。寂しい風が吹く。雲が切れる。月が覗く。狐目をした女が通りかかる。旗竿が風に靡き、如何しようもない倦怠を運び来る。奥沢に幽霊が出る。奥多摩に静寂が戻る。何時かきちんと推敲したい。という訳で私はこれで。

5 From “Introduction to Quantum Computation and Informatios”(Hoi-Kwong Lo et.al.;World Scientific)の“Quantum Computaion with Nuclear Magnetic Resonance”(I.L.Chuang)より、p.316
“We shall use the fact that for σ±≡(σx±iσy)/2,e^(σz)σ±e^(-σz)=e^(±2ξ)σ±.Let the state of the system be |ψ(t)>,and define the rotating frame state |χ(t)>=e^(iωtσz/2)|ψ(t)>,such that the Schrodinger equation for the system,ih∂t|ψ(t)>=H|ψ(t)>、can be expressed as ih∂t|χ(t)>=δ[e^(-iωtz)+e^(iωt)}/2][{e^(iωt)σ+}+{e^(-iωt)σ-}]≒δ/2・σx|χ(t)> where the high frequency terms were dropped (the rotaing wave appoximation).This has the solution |χ(t)>=e^(iδtσx/2)|χ(0)> δt represents the integrated power of the applied resonant RF field.|χ(0)> is a two-component spinor,and the effect of e^(iωtσz/2) is just a rotation of the state about the x^ axis by the angle δt。
量子コンピュータの代表的な教科書からの第6回。“コンピューティングにハミルトンの四元数を使う”に関連し。

6 “泰山木鮎に預けて白き花”
自作俳句。泰山木が白い花を付けるか不明。今月号「かばん」に評されていたが、ディテールのいい加減な点は否めない。多忙は理由にならない。「神は細部に宿る。」

7 “1939:The principle of solidarity,also articulated in terms of ”friendship“ or ”social charity“,is a direct demand of human and Christian brotherhood.”
 (from “Catechism of the Catholic Church”)
 
8 “1939: These attitudes and “structures of sin” are only conquered -presupposing the help of divine grace-by a diametrically opposed attitude;a commitment to the good of one‘s heighbor with the readiness,in the gospel sense,to “lose oneself” for the sake of the other instead of exploiting him,and to “serve him” instead of oppressing him for one’s own advantage.
(from ”The Companion of the Catechism of the Catholic Chruch“)
 
9 年間第28月曜日福音朗読より。ルカによる第11章から。

“「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。」”
-(神の御言葉、神の知恵、神の力であるイエス・キリストは、ご自分を受け入れ、その名を信じる人には神の子となる資格を与えてくださる。)

†主のお恵みが。
†主に讃美と感謝。

2014年10月15日
                       乗倉寿明記す