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静岡県焼津市の故久保山愛吉さんのお墓参りに行ってきました

2007年05月17日 | まち歩き
先日、静岡県の焼津市を訪れる機会があったことから、故久保山愛吉さんを偲んで第五福竜丸の資料などが展示してある焼津市歴史民俗資料館と久保山愛吉さんのお墓がある弘徳院にお参りしてきました。
お墓は虚空蔵山(当目山)の麓、弘徳院のまさに崖にへばりつくようなところにありました。足場の狭い階段を少し登らなければお墓の前にはいけません。人ひとり通れるかというような墓前で手を合わせました。

久保山愛吉さんといえば、1954年3月1日に太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁において、アメリカが行った水爆実験により「死の灰」をあびて被ばくして死去した遠洋マグロ漁船第五福竜丸の乗組員です。第五福竜丸には、当時23人の乗組員が乗っていましたが、被爆したことを知った乗組員は無線を封鎖して母港の焼津へと向かいます。途中から原爆症が発症し苦しみながらの帰還だったそうですが、無線で助けはよべません。そうすれば傍受したアメリカ軍に撃沈されるからです。
焼津に帰港後、乗組員は東京大学附属病院などに入院し、検査・治療にあたりましたが、そのうち無線長の久保山愛吉さんだけが治療のかいなく、半年後の9月23日に「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」と言い残して亡くなりました。捕ってきたマグロなどは放射能に汚染され廃棄されました。
こうした様子や資料は、焼津市歴史民俗資料館の一角の展示コーナーに展示されています。

被爆して帰港した第五福竜丸は、その後、国(文部省)に買い取られ、東京水産大学で残留放射能の測定調査が継続的に実施された後に、1956年5月に安全性が確認されたため、改装されて「はやぶさ丸」となり、東京水産大学の練習船として使われたということです。1967年3月には「はやぶさ丸」は廃船処分となり民間業者に払い下げられ、エンジンが取り外されて、船体は東京・夢の島に放置されました。1968年、放置されていた「はやぶさ丸」の船体の保存運動が起こり、1970年に船名も「第五福竜丸」に戻され、1976年6月、東京・江東区の夢の島公園に「展示館」が完成され、現在もそこに展示されています。

広島・長崎につづく3度目の原水爆の被害に、国民的な原水爆反対の声が巻き起こり、その運動は、現在も3月1日を「ビキニデー」として続けられています。3月1日、全国から集まった反核・平和を願う人々は、立ち降りた焼津の駅前から久保山愛吉さんの眠る弘徳院まで「ノーモアビキニ、ノーモア第五福竜丸」を合言葉にパレードを行っています。また、焼津市では毎年6月30日に市民集会を開き、平和への決意を新たにしているとのことでした。

●焼津市歴史民俗資料館
静岡県焼津市三ケ名1550焼津市文化センター内
TEL054-629-6847 
http://www.city.yaizu.shizuoka.jp/bunkazai/bunka_soto.html
<入館料>無料
<開館時間>午前9:00~午後5:00
<休館日>月曜日

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