湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネの地域学習活動・就労支援活動の実践試行を書き溜めていきます。

5/10 ミュシャ展に行って(虚無の闇と向かい合う)

2017-05-11 05:10:24 | 地震津波災害ボランティア

2017/05/10 記
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門前仲町の**さんと半年ぶりに会う。鍛え上げの中小企業主である。富岡八幡宮・深川不動尊ではなく神田明神の祭が近いというので慌しい地元人だ。生業を支えてもらっている方だが、引退したが町内会の役員をされていたが、今も防災に熱心で、実は仕事の話の裏で、東京下町の防火・高齢者防災対策の具体例を聞き出してきた。その中身については後日。

東京の母の主治医の診察は1ヶ月に1回程度な「はらのだが、今回は、私のチェック・ミスだが、私にとっては幸いだった。**さんとの話が長かったために、国立新美術館の「ミュシャ展」は、駆け足だった。当日券を買い求める方の列が30m近くUの字に並んでおり、絵に接近することは出来ても、携帯で絵を撮影する方が多く、落ち着いてみることが困難だった。

しかし「原故郷のスラヴ民族」の眼差しが入場早々出迎えてくれるとは、先制攻撃を受けたように驚いた。不思議な様式とコラージュの壁画「スラヴ叙事詩」は、すべて煙に霞んでいた。絵の具の劣化ではなく、「思念と虚無の闇を覘き込む眼差し」に、まとう幻想効果なのだった。ひとつのまとまりの絵が象徴的に何かを表明する絵ではなく、コラージュの断片の交響詩、響きあう絵画だったのだ。

日本の歌舞伎には、「●●」と言ったら「○○」を表すという暗黙の了解が観客との間にあって、「ミュシャ」の絵にもそれが強い。スラヴ民族の歴史のそれではなく、背景は思念または神の領域。舞台のスポットライトにあたる俳優の演技に周囲の出来事が服のボタンのように、事象を留めている。絵の登場人物は決して対話していない。「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」の焚き火を囲んで踊るサークルも、共感を謳い上げる輪ではなく、そのような形にさせられている孤立する個の熱を失った輪ですらある。

誰も他者に無関心であり、その眼差しは閉じている。「原故郷のスラヴ民族」の眼差しもそうだが、正面を向いていながらギャラリーを観てはいない。眼差しは脳裏に向けられている。絵は背景の慣習的なテーマの掲示であり、中間層の遠い夢の断片のような出来事の著述。手前下層のトリックスター配置の様式は、宗教絵画のそれのように、理念的であり、誰も見ていない眼差しの不気味さに、絵の前に投げ出されたような孤独感を押し付けられる。硬い様式と虚無の闇の絵画だ。

思うのだが、私が立ち向かっているのは、戦争を残酷と悲惨で描くのではなく、人の実存と空疎にちろちろと燃える置き火の炎を見出す力が失われることではないか。その置き火のなかにひとがいる。教育屋の仕事がそこにある。

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珍しく母と合流できたが、すでに仲間内で食事した母と、腹がわめく私との折り合い悪く帰宅したのだった。毎年のことだが、5月は指導に使う教科書を買い直す時期。両抱えある書を入れた袋を抱えて帰宅した。作業する夜明け、さっそく両腿がこむら返りを起こしてのたうち回っている。困ったもので…。

夜間傾聴:ひとり(ひとのこむら返りを笑う奴である。)

(校正1回目済み)

 

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