未来へ/梅ヶ渕不動堂保存会 公式ブログ

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梅ヶ渕不動堂の由来

2016-10-05 08:20:58 | 梅ヶ渕不動堂の歴史

梅ヶ渕不動堂は境内にある「清浄の滝」への自然崇拝から始まったと考えられています。古来より霊験新たかな、この地は鹿児島、屈指の名刹といえます。

梅ヶ渕不動堂の創建は鎌倉時代1317年といわれています。江戸時代に書かれた「三国名勝図会」(1843年編)によると、この堂に古鐘があり鐘には正和六年(1317年)大願主 平守恒、并伽陀氏女と書かれてあった。と紹介しています。古来より伊敷の不動堂として親しまれ、毎月28日(不動明王縁日)には殊に参詣が多かったようです。

*梅ヶ渕不動堂の所在地は昭和25年(1950年)10月1日、鹿児島市に編入合併するまでは伊敷村でした。当時は「伊敷の不動堂」と呼ばれ、親しまれていました。

室町時代に島津氏第7代 当主 島津元久公が福昌寺を建立(1394年)しました。その末寺として文明八年(1476年)覺照山妙谷寺を、梅ヶ渕不動堂に建立しました。開山は福昌寺9世柱山守楝和尚です。ご本尊は釈迦如来。天文元年(1532年)には福昌寺11世天佑和尚が不動堂に自作の木仏像や石仏像を安置し再興しました。

*福昌寺は応永元年(1394年)島津氏第7代 当主 島津元久公が石屋真梁を開山とし玉竜山 福昌寺を建立。その後、島津本宗家の菩提寺となる寺です。「三国名勝図会」によると大伽藍を備えた南九州屈指の大寺であり最盛期には1500人の僧侶がいたといいます。現在は廃寺。

永禄十二年頃(1569年頃)戦国時代の大名であった島津家16代当主 島津義久公の命により梅ヶ渕不動堂にあった妙谷寺を下伊敷に移転造営されました。天正元年(1573年)には福昌寺16世 喜冠和尚が、梅ヶ渕不動堂に妙谷寺末寺として不動院を建立し自作の不動明王像を安置しました。

江戸時代には天保十年(1839年)不動院 住持僧 白珠が、その傷んだ仏像を一体、修繕し安置した。とあります。(以上「三国名勝図会」より)。

嘉永二年(1849年)には玉江橋が架設されました。(甲突川に架かる五石橋の一つで現在は石橋記念公園に移設) 梅ヶ渕不動堂に、お参りする人のために造ったともいわれています。

慶応四年(1868年)神仏分離令により薩摩藩では廃仏毀釈を徹底的に断行し仏像や寺院を取り壊しました。薩摩藩では数年間一つの寺院も無く一人の僧侶も見られなくなったといいます。
ここ梅ヶ渕不動堂も例外ではなく建物や仏像は全て取り壊されました。しかし、当時の管理者が事前に持ち運べる仏像は密かに隠しました。また滝の左手上に安置されてある波切不動明王像と観世音菩薩像には多くの枝木を被せ石仏を隠し廃仏毀釈を逃れることができました。




鹿児島では江戸時代以前の仏像は希少で、今なお現存する貴重な仏像です。



南洲寺(鹿児島市 南林寺23-22)に木彫の不動明王像(県指定有形文化財)が安置されていますが、もとは梅ヶ渕不動堂にあったものです。
(作者は不詳、平安時代後期の作と云われる)

明治二年頃(1869年頃)有川矢九郎氏が官(県庁)に申し出、当時は官の所有地であった梅ヶ渕不動堂を購入し別邸を建てました。

*有川矢九郎は天保二年(1831年)生まれ。薩摩藩士。薩英戦争では談合役(参謀役)として活躍しました。後、薩摩藩軍船「胡蝶丸」「三邦丸」の艦長を務め幕末の志士たちと交流。戊辰戦争では軍船掛(船奉行)として藩軍兵を輸送。後、実業家としても成功する。

*現在は、有川矢九郎氏から所有者が変わりました。梅ヶ渕不動堂は現在の地主さまの、ご好意とご配慮により一般の方々に解放されています。
「ご参拝の、お客さまには、お怪我などなさいませぬよう自己責任にて、ご参拝いただきますよう、よろしくお願いします。」

平成五年(1993年)八月豪雨(8.6水害)により梅ヶ渕不動堂では土石流が発生し明治期に建てられた、お堂や有川矢九郎氏 別邸、仏像などを飲み込んで壊滅的な被害があり、梅ヶ渕不動堂は閉鎖されました。

数年後、梅ヶ渕不動堂を復興しようと集まられたボランティアの方々の力で、みなさまが参拝できるようになりました。

監修:梅ヶ渕不動堂 保存会




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