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<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
宇宙エンタメ前哨基地





大阪中之島にある国立国際美術館。
ここの建物を探すのは容易ではない。

中之島といえば、大阪の中心の一つ。
ここには大阪市役所本庁や日本銀行大阪支店、中央公会堂、市立東洋陶磁美術館や大手企業の本社が並んでいて、いかにも地価が高そうなところなのだ。
国立国際美術館はその中之島でも、どちらかというと西のはずれの方にあり、京阪電車の中之島新線が開通するまでは、お世辞にも便利な場所ではなかった。
従って中之島でも有名な地域とは異なって、少しく景観が異なる地域ではあるのだ。

で、その美術館がなぜ見つかりにくいかというと、美術館の建物よりも大阪市立科学館の建物が見かけが大きい上に、その建物が美術館の上に乗っかているからでもある。
つまり国立国際美術館は地下にある美術館なのだ。
地表にちょこっとだけ玄関口が出ている以外、他の部分は地下深く、それも広大な空間に建設されている。
広大な洞窟のような雰囲気なのだが、この美術館は私の好きな場所の一つだ。

先週の休日に、この国際美術館を訪れてきた。
仕事のストレスがピークに達しているためイライラが募り気分転換の必要があり、同じく職場でストレスが貯まりまくっている嫁さんを伴って訪問してきたのだ。
もちろん地下美術館に陰気に引きこもるためではなく、アートを鑑賞し、気分一新するための訪問だった。
なお、次週に期末テストを控えた娘は残酷にも爺ちゃんの家に残してきたのであった。

企画展示されていたのは「世界政策の方法」という空間アート。
1970年前後生まれのアーティストたちが競作した数々の空間アートは眼を見張るものがあり、気分転換どころか、気分一新、新しいものに取り組む意欲が湧いてくるぐらい、アートとしてのインパクトが強かった。

展示会は地下三階の展示室で開催されていた。
エスカレーターを降りて最初に入った空間は大西康明という人の作品で、天井から垂れ下がった無数の黒い背着剤が引き落としてできた糸が垂れ下がり、それに白い和紙のうようなものが立体的に吊り下がっているという空間造形であった。
下から見ると白い洞穴の中を歩いているような雰囲気があり、上から見ると、水墨画の雨の景色を眺めているような錯覚にさらされる。
その奥行は凄いものがあり、最初の展示から度肝がぬかれてしまったのだ。

二番目の展示室にはパラモデルという作家の作品が床、壁、天井と展示され、しかも作品は現在もなお作り続けられているという様相で、これもまた異世界の面白さが広がる空間であった。
この人達の作品はトミーのプラレールのレールを巧みにつなぎあわせ、まるで植物の蔓が壁や床に纏わりついているように見せるアートなのだが、その生物的な生暖かさは、見ていて飽きない。

「これって心斎橋の美術館にも出てたんちゃうん?」

と声を上げたのは嫁さんであった。
昨年だったか、心斎橋にある大阪市立近代美術館準備室(旧出光美術館大阪)を訪れた時、大阪にまつわる様々なアートが展示されていたのだったが、その時に無数のトミカに握り寿司のレプリカを載せたアートが展示されていたのだが、それがこのパラモデルという人たちの作品であった。
私の嫁さんはこういう「ちょっと変わったアート」が気になるらしく、しっかりと覚えていて私をビックリさせたのであった。

このように様々な空間アートが展示されていたのだが、圧巻はクワクボリュウタという作家の《10番目の感傷》という作品だ。

「影絵ですから気をつけてください」
と美術館の案内の女性に促されて入った空間はしばし真っ暗。
しかし、床面を走るLEDライトをつけた模型の機関車が走りだすと、周囲の壁の風景が一変した。
Nゲージの期間者に取り付けられたLEDライトが、機関車の走るレールの周囲に置かれた模型の人形、まち針、たわし、洗濯ばさみ、逆さまにしたゴミ箱などの影を壁に投影する。
その投影された影は、まるで大都市に点在する巨大な建築物のような迫力で展示室全体を覆うのだ。

ゆっくりと走る機関車から投影されるLEDライトの影は、実物の影そっくりで、大画面で映画を観るより、その世界に魅了される。
連続して置かれた洗濯ばさみの影は橋梁に見え。
逆さまに置かれたゴミ箱は不気味な原発。
たわしは樹木。
まち針は標識。
などなど。

展示室から出てきた観客は暫し呆然。
私も嫁さんももちろん呆然としたのであった。

このアートイベント、12月中旬まで開催されており、入場料はたったの850円/人。

はっきり言って、必見なのであった。

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たまの外食もいいもんだと思い、昨夜久しぶりに休日の夜の大阪難波に出かけると、高島屋本店前のロータリーが大変な混雑になっていた。

「なんだなんだなんだ」

と野次馬根性丸出しで、その群衆の中に入ると、なんと、大阪市長候補の大阪府知事橋下徹の選挙前日最後の街頭演説が始まるところなのであった。

それにしても物凄い群衆なのであった。
私も含めて。
しかも上空はメディアのものと思われるヘリコプターが4機ほど旋回しており、一種独特の緊張感に包まれていた。
他政党のオッサンが一人、趣味の悪い白いロールスロイスのサンルーフから身体を乗り出して演説を妨害しようと大きな音で音楽を鳴らしていたが、それも群衆から自然発生した「帰れ」コールに恐れをなして、音楽を止め橋下候補と知事候補の松井候補に「頑張ったください」の一言を残して消え去っていったのであった。

演説は応援に来ていたそのまんま東の挨拶から始まったが、こんなオッサン、逆効果ではないかといささか心配になった。
でも、聞くところによると午前中は石原東京都知事も一緒に選挙応援に回っていたというので、その全国的な期待度は小さくない。

そのまんま東の応援演説が終わると知事候補の松井一郎維新の会幹事長が演説。
もごもごした声で何を言っているのかよく聞き取れなかったのだが、大阪は上海の倍の経済力があるとか、大阪に本社を置く世界的製薬会社(武田薬品のこと、世界第5位)が関東に研究拠点を移したことへの行政の失態や、日教組や教育委員会に左右されない教育改革について語っていたと思う。

で、肝心の大阪市長候補の大阪府知事橋下徹。

その演説を聞いて驚いた。



なんと、はっきりとわかりやすく話す人なのだ、ということで驚いたのだ。

メディアへの露出が多いことで知られる橋下候補ではあるが、その話は筋が一本通っていた。
要約すると以下の通りだった。

まず、大阪が今のように衰退してしまったのは行政の責任で、明治時代に作られた組織が平成の今の時代に存在すること自体おかしいというもの。
明治時代は大阪市は明らかな大都市で、周囲の市町村はそうではなかった。だから周囲の市町村を統括して管理する府庁と市内を統括する市政が別々に必要だった。
でも、今は大阪市も堺市も、豊中市、八尾市、東大阪市、岸和田市など、どれもこれも大きな街ばかりになった。
だから市政と府政を分ける必要はない。
分けることによってメリットは何もなく、ただ既存の権益に満足したい行政を生み出すに過ぎないというのだ。

大阪は東京と役割を2分しなければならない街で、比較すべきは国内の地方都市ではなく、上海や北京、香港、シンガポール、バンコク、そしてロンドン、ニューヨークと勝負しなければならない街ということ。

大阪市単体で、堺市単体で、これらの海外の大都市経済圏と正面切って勝負できるのか、ということが、大阪都構想なのだとアピールした。

恥ずかしながら私は初めて大阪都構想の概要を知ることができたのであった。

で、次は「話し合いでは解決できないところまで大阪の、そして日本の政治は来てしまった」という主張だった。

これは度重なる民主党の失態を上げ、

「話合いで物事が解決していますか。話しあい、解決できかんければ明日協議、それでもだめなら来週、それでもだめなら来月、半年先。何かひとつでも前に進んだものがありますか。」

と主張。

「その間に社会は益々混迷を深めて何一つ前に進まない。こんな日本になってしまった。だからこれには戦争が必要です!」

「おお!過激な発言」

と衆目が注視するなか、

「明治維新、フランス革命、アメリカ独立戦争、すべて戦いが必要でした。話し合いでは解決できないことも有る」

盛んに橋下徹を叩く週刊新潮が喜びそうな主張が連続する。
耳を傾ける群衆にも、

「そんなこと言ってええんかいな」

というムードが漂ったその時、

「私も戦争をするしかありません。戦争するしか無いのです。その戦争。今日の戦争は選挙です。選挙が戦いです。」

周囲から大きな拍手が起こった。

とどのつまり、大阪市長に立候補した橋下大阪府知事は一般府民が普段思っていることを堂々と展開したにすぎず、たったこれだけのことを言うことができなかった従来の大阪府政、市政、ないし国内の政治はまったく何だったかと思わせるものがあったのだ。

市政では大阪市は数々の不透明な助成金や、予算のプールが問題になっている街でもある。
この不正な金のかなりは同和問題に注がれていることもアンタッチャブルだったのだが、地区出身の知事が主張すると迫力が違うのであった。

ともかく、そのまんま東からはじまった40分に渡る演説に感心し、しばし聞き耳を立ててしまい、終わってみると腹ぺこになった大阪なんばの夕方なのであった。








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時間は午後1時を過ぎた。
私は午後6時すぎの最終の関西行で大阪に戻る予定だったので、残すところ僅かな時間しか無い。
この付近からは那覇までは高速道路を使わずに戻るとすれば2時間少しは見ておかなければならないし、出張とはいえここは沖縄。
多少のお土産は買わなければ帰ってから顰蹙を買いそうだ。
顰蹙を買うぐらいならお土産を買うのは当然だが、そうなると観光客には定番の国際通りにも寄りたいし、せっかくの5年ぶりの沖縄だから、久しぶりに「ゆいレール」に乗って各駅ごとに車内で流れる沖縄民謡のメロディチャイムも訊いてみたい。

私はフクギの並木に立ち寄ったあと、今回の旅で最後にひとつだけ訪れてみたいと思っていたところへ自動車を走らせることにしたのだった。
その行ってみたいという場所は、古宇利島。
昨日、那覇に着陸しようと高度を下げた飛行機から偶然に見つけたサンゴ礁に囲まれる「ま~るい島」なのであった。
もちろん、飛行機に載っていた時は、その島がどこのなんという島で、どうやって行くのかも分からなかった。
那覇に着いてから地図で確認したら、なんと海洋博記念公園から、たいして遠くないことがわかったのだ。

では、なぜ私がその島に行ってみたいのか。
その理由は、その島には沖縄本島から一直線に長い橋がかかっており、その風景が旅行ガイドなどで見る見知らぬ外国のように、なんとも美しかったからでもある。
もし今回の出張で、その近くへ行くことがあれば、私は是非とも地上からこの島を見てみたいと思ったのであった。



半島をぐるっと回っている国道をゆっくりと走ると、途中、「ヤギ料理」なんていう沖縄ならではの食堂があり、「おお、立ち寄って見たい」と思ったものの、少々不気味で「大和人(やまとんちゅ、と読みます)が食べるのは無理」とも言われているので「時間がないから」というのを理由にしてパスした。
やがて小さな町を通過すると古宇利島への道標が現れ、いよいよあの長い真っ直ぐな橋と、ま~るい島を身近に目撃するワクワク感が募ってきた。

古宇利島は実際には本土とはつながっておらず、やはり大きな橋を渡って屋我地島という島を通ってからのアクセスなのであった。

きれいに舗装された道路をゆっくりと走る。
周囲には沖縄らしい緑豊かな景色と、青空が広がっている。
幾つかのカーブを曲がり、やがてなだらかな丘を超えると前方にまっすぐに伸びた古宇利島に架かる古宇利大橋が目に入った。

「これは........すっごいキレイや!」

と、沖縄に来てからというものの、他に表現方法は無いのか、と自分自身でも思うぐらい同じ感嘆符が連続する。
それにしても、この景色は本土ではなかなかお目にかかれない、というより見るのは無理。
沖縄まらではの景色なのであった。

橋を渡る直前には小さな駐車場があった。
その駐車場にはすでに多くのレンタカーがとまっていて、多くの観光客が写真をパチパチと撮っていたのだった。
考えることは皆同じなのだ。
私も自動車を駐車させ、パチパチと写真を撮ることにした。

駐車場の前は砂浜になっていた。
すでにこの砂浜の景色が絶景だ。
まっすぐに伸びた橋は、ここから見ると中央より少し手前が船の通過のためか少し高くなっていて、なんとなく琵琶湖大橋に似ている。
琵琶湖大橋と明らかに違うのは周囲の美しさと、空の青さなのであった。

駐車場の近くには観光客を当て込んだと見られるプレハブのカフェがあり、なぜか「ウニ丼」などを売っていたが、先を急ぐ渡しは島を一周すべく、古宇利大橋を渡ることにした。



橋の全長は約2km。
2005年に竣工したとのことで、ほとんど真っさら。
そして橋から眺める景色のあまりの美しさに、途中駐車して写真を写している不届き者さえいるくらいだ。

橋を渡り終えると、たくさんのカフェや土産物屋、道の駅などがあり、活況を呈していた。
ブルーシールアイスクリームの看板がアイスクリーム好きの私の目を惹きつける。
ここでも「うに丼」の看板が目につき、ここの名物がうに丼であることがよくわかった。
しかし、海鮮丼というと沖縄と言うよりも北海道という印象が私にはあるため、前回沖縄に来たときに札幌ラーメンを食べた記憶が蘇り、「なんとなく、無粋だ」と、とりあえずうに丼は考えないことにした。
でも、戻ってからインターネットで調べると、かなり美味そうなもののようで、少しく残念だ。

ともかく時間が無いので島を周回する道路をゆっくりと走ることにした。

それにしても穏やかな風景だ。
ところどこに観光客目当てのカフェがポツンと立っているもの、それ以外はほとんどさとうきび畑。
青空と、夏のような陽射し。
温かい潮風。
海の向こうの海岸で風力発電の風車がゆっくりと回っているのも、これまた美しい。

周回道路から海に向かって時々小さな道が付いているので、入ってみると、忽然と「うどん屋」があったりするのは、驚きでもあった。

海のよく見渡せる場所に自動車を止め、エンジンを切る。

浜辺に寄せる波の音。
透き通った海。

大阪に帰るのが嫌になってしまいそうな、穏やで温かい雰囲気が漂っていた。
ずっと、ぼ~っとここにいたい。
と、思ったものの時刻は午後2時を過ぎている。
そろそろ那覇に向かって走らなければ、国際通りに立ち寄ることはおろか、帰りの飛行機に乗り遅れる。
なんといっても今回は格安の「旅割45」というチケットで来ているのだ。
片道13000円という東京~大阪よりも安いエアチケットなのだ。
キャンセルや変更は効かない。

私はこの素晴らしいのんびりとした景色に暫し別れを告げ、
「次回はプライベートに、嫁さんと娘を連れてこよ」
と心に誓い、国道58号線への合流点に向けて出発したのであった。

おしまい





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海洋博記念公園からほど近いところに、沖縄ならではの風景があるということがレンタカー会社で貰った沖縄ドライブマップに書かれていた。
その場所は「備瀬のフクギ並木」といい、猛烈な台風から集落を守るために作られた沖縄ならではの防風林なのであった。
天気もいいし、もしかすると絶好の写真スポットなのではないかと思い、訪れることにした。

海洋博記念公園から自動車を走らせること僅か数分。
国道から少し脇道に入り、畑の中を抜けたところに、その並木道があった。

正直、並木道というよりも、並木トンネルといった感じの様相を呈した場所で、両側から迫るフクギ(というのかな?)の樹がトンネル状に道路を覆い、それに沿って並ぶ家屋を暴風雨から守っているのであった。

夏のような強い陽射しがフクギの枝葉から差し込み、キラキラと路面の上に絶妙な影を演出している。
素朴に奇麗だ。

「.......シャッターチャンスや!」

と心の中に叫んでは見たものの、大きな問題が立ちはだかった。
乗って来た自動車を駐車する場所が見当たらないのだ。

狭い道路の両側から並木が迫り、しかも家も建ち並んでいるので、自動車を駐車しようとする道路を塞いでしまう。
どうしても駐車するとなると誰かの家の庭につっこむか、道路の通行を妨害し、無理やり駐車するしか方法が見当たらない。
でもこの光と自然の絶妙な写真を撮影しようと思ったら、どうしても自動車を停車させなければならない。
自動車をゆっくりと走らせながら、窓から手を出し、シャッターを切ろうという方法も思いたったのだが、それはあまりに危険すぎる。
そうこう悩んでいるうちに、並木は途切れ大きな三叉路に出た。

三叉路のところには若干の空き地があり、レンタルしていたデミオ程度なら駐車できそうだし、短時間ならなんとかなると道路の隅に駐車して急ぎ、フクギ並木を急いだ。
そしてシャッターを切った。

ふと、並木とは直角に交差した路地を見ると右手に住宅の垣根が続いているのだが、その向こう、クヌギと住宅の塀のトンネルの向こうに、キラキラと輝くエメラルド色の海が見える。

「おお!ごっつう、キレイや!」

と、私は海に向かって一目散に走った。

クヌギ並木のトンネルを抜けると、そこにはトロピカルな南国の海が広がり、太陽が燦々と輝いていたのであった。

打ち寄せる波音。
人影は殆ど見えない。
青空にはところどころにポッカリと丸い白い雲が浮かんでいる。
海は限りなく透明で、底が透けて見え、泳いでる魚さえ見えそうだ。

大阪や東京での喧騒を思い出すと、同じ日本でもこうも違うものか、と違法駐車していることも暫し忘れ、その穏やかな景色に見とれてしまったのであった。

なお、近くのペンションなどに有料の駐車場があることは、ここを離れる時に気づいた。
良い子の旅行者の皆さんはちゃんと駐車場に止めてください、と一応書いておかなくてはなるまい。

つづく



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1975年といえば、いくつかの印象的な出来事や思い出が蘇る。

夏休み中だったか、夏休みが終わった頃だったか忘れてしまったが、ある日の夜、突然19歳年上の従兄が訪ねてきた。
私には父方母方双方を合わせて従兄が21人いるのだが、その従兄は最年長で私とは親子ほど年が離れているのだが、「お兄ちゃん」と呼んでいた。
ちなみに嫁さんのお父さん、つまり私の舅はこの兄ちゃんよりも一つ年下である。

この日、お兄ちゃんは私へのお土産にカシオの電卓を持て来てくれた。
6桁の加減乗除しかできない電卓だったが、当時、電卓は最新機種。
結構高価な代物だったが、なぜ私にこんなものをくれたのか今となれば忘却の彼方だ。
とはいえ、この電卓は携帯型で、サイズはなんと今日の「テレビのリモコンぐらいのコンパクト」なものなのであった。
私は初めて目にする緑色に輝く数字が表示される携帯タイプの電卓に胸がドキドキしたが、

「こんなもん、こいつに与えたら筆算も暗算もできんようなもんになったら、どうするんなら」

と父はお兄ちゃんに皮肉を言った。
もっとも、私は日頃、父のタイガー計算機を玩具にしては叱られていたので電卓は願ってもない「おもちゃ」なのであった。

1975年は我が家に初めて電卓がやってきた年なのであった。

この時、そのお兄ちゃんは晩ご飯を食べながら、
「おじさん、すごい映画を見たんじゃ」
と話しだした。
なお、お兄ちゃんは岡山生まれの広島育ち、ちょこっとだけ大阪育ちでその後、愛媛大学を出ている関係で中国地方の方言で話す。
私の父は岡山生まれで大学から大阪なのだが、未だに岡山弁で話す。
この時は大阪の自宅での会話なのであった。

「で、何を見たんじゃ」
「映画の『ジョーズ』見たんじゃ。おじさん、僕はたまに釣りをしおるんじゃが、もう船にのるんが怖おうなってしもうた」

と感想を話したのであった。

1975年はスティーブン・スピルバーグの名前が一躍有名になった「ジョーズ」が公開された年なのであった。

このように以後、社会に大きな影響を与えたものが身近に現れ始めた年でもあった。
スピルバーグは以後、未知との遭遇、レイダース、E.Tと矢継ぎ早に大ヒット作を生み出し映画の様相を劇的に変え、電卓はやがて訪れるパソコン文化の先駆けとなった。

しかし、1975年の最も大きな出来事は4月30日に起こった。
南ベトナムが消滅してベトナム戦争が終結したのであった。
当時は子供であったために、その歴史的重要性をちっとも理解していなくて「それがどうしたの?」という他人事であったが、長じてから、ベトナム戦争が第二次世界大戦の継続されたカタチであったことに気づいて愕然とすることになった。

沖縄の暖かい空のもと、様々な想像が去来する。

1945年の沖縄占領から日本そのものの敗戦。
その直後に始まったベトナムの独立闘争と分割、そして統一と、その激動の最前線に位置したのも、ここ沖縄なのであった。
フォークソングのかぐや姫の歌の中に「彼は戦場へ行った」なんて歌詞のあるものがあったと記憶するのだが、そういう歌も、ここ沖縄のような場所があったからこそ生まれた訳だ。
この1970年代。
日本各地にある米軍基地から多くの若い米国人が出征していった。
時に彼らは同世代の日本人と接し、友人、家族となった。
彼ら、命を賭してインドシナへ向かう若き米兵たちを見つめる日本の若者の心情は複雑であったことは、子供であった私には当時、想像しようもないものであった。

このように、イルカのムクちゃんをボンヤリ見つめ続けていると切りがない。
どんどんと過去を振り返ってしまうし、考え込んでしまいそうなので、これは良くない。
そろそろ植物園に立ち寄ってから海洋博記念公園を出発しようと園内を走る電気自動車バスのバス停に向かったのであった。

つづく

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「あのな~。沖縄の海洋博に行きたいねん」
「何アホなこと言うてるの。そんな遠いところへ行くお金はうちにはありません!」

とおふくろに叱られたのは1975年。
当時小学校6年生であった私は、海洋博覧会の「博覧会」という言葉に鋭く反応し、「沖縄へいきたい!」と叫んでいたのであった。
それは幼いながらも鮮明な記憶として残っていた大阪万博を彷彿させるものがあるのではないか、という期待がそう言わせたことは間違いない。
それだけ海洋博は沖縄という、つい最近、米国から日本に戻ってきたばかり最南端の未知なる県に対して興味がわくイベントであった。

とりわけ私の目を惹いたのはアクアポリスという海に浮かんだ巨大な建造物の写真だった。
まるで大阪万博の「お祭り広場」のでかい天井を海に浮かせたようなイメージは、大阪万博の太陽の塔を始めとすると各パビリオンが感じさせた近未来感と同様の雰囲気を私に感じさせていたのであった。

でも結局、海洋博には行けなかった。
本当に沖縄へ行くだけの余裕が、あの頃の我が家にはなかったのだ。

その海洋博の会場の場所に私が立つことになったのは、それからはるか36年後。
大人になった私は国営の記念公園となった海洋博跡地に自分で自動車を運転して訪れたのであった。

駐車場で自動車を降り、正面玄関に立った私は感無量であった。
ついに来た!という言葉を久しぶりに叫びたくなる、そんな一瞬であった。

それにしても、美しすぎる。
何が、というと公園とその向こうに広がる海と、その海に浮かぶ伊江島の風景が滅茶苦茶美しかったのであった。

こんな遠い所に人が来るんだろうか、と思っていたが、休日だけのことはあり大阪の万博記念公園並に大勢の人々が訪れていた。
アクアポリスは2000年にスクラップ処理されていて、もう見ることはできないが、この景色があれば文句の言いようはない。

海洋博記念公園は無料だ。
この素晴らしい景色が無料であることに「当然だ」と思う一方、「ありがたや」と思うこともできる豊かな気分にさせるのであった。

正面の入口からはなだらかな下り坂の階段が続いている。
その左手横には高齢者や身障者に配慮したと思われるエスカレーターも設置されている。
この際、税金の無駄遣い、と言うような無粋なことは指摘せずにおこう。
この素晴らしい景色をすべての人に見てもらうためには当然あってしかるべき施設だ。

なんといっても沖縄は日本の宝石なのだから。

この海洋博記念公園の最大の目玉は「美ら海水族館」という名のアクアリウム。
大阪天保山の海遊館に匹敵するという大水槽があるとのことで、本来であればこの水族館を訪れるのが本道に違いない。
少なくとも。
でも私は今朝、北に向かってドライブする自動車の車窓から左手に広がる煌く大洋を眺めているうちに、ここへは家族を絶対に連れてこなければならないと思っていたのだ。
それも強く。
だから、美ら海水族館を訪れるのは絶対に娘と嫁さんが一緒でなければならないし、初めて見る南国の水族館の感動を自分自身も娘と一緒に体験しなければならないと思ったのだ。

だから、水族館は来るべき次回訪問にまわしてしまい、私は熱帯植物園やその他施設を見て今回の旅は帰ろうと思ったのだ。

まるでミャンマーかタイか、はたまたベトナムのビーチエリアか、と思わせるような漂うような南国の空気が周囲を覆うステキな公園。
朝が早いので場所によっては人影はまばら。
というよりも、殆どの人が水族館へ向かっているのだが、私は人気の少ない方へ向いて歩いていたので、いつしか周囲は観光客の姿がちらほらで、人の姿といえば植物の世話をしている公園庭師の人たちや、掃除の人たちしか見かけなくなってしまった。

「オキちゃん劇場」

会場の地図をみると、海に近いところに「オキちゃん劇場」という名前のイベント会場がある。
何かいな?と思ってゆっくりと向かって歩いた。
なんといっても、沖縄は11月と言え、まったくの夏。
早足で歩くと暑いのであった。

で、その劇場は何のことはない、イルカショーの会場なのであった。
「イルカショーはこの夏に城崎のマリンワールドで見たばっかりやな」
とあまり興味のわかない私ではあったが、観客席に誰もいない静かな水槽に近づくと、そこは本土のイルカショーとは全く違ったトロピカルでホノボノとしたイルカの世界が広がっていたのであった。

水槽に近づく私を警戒することもなく、ぽか~んと水中を漂っているのはミナミバンドイルカの「ムク」ちゃんなのであった。
その他にも元気に泳ぐ2頭がいて合計3頭。
あまり体格が大きくないミナミバンドイルカはニコニコ笑っているような表情をしていて、かわいい。
元気な2頭はともかく、のんびり漂っている「ムク」を見ていると、なんともいえぬ心持ちになり、リラックスしてくるのであった。

ジャンプする必要もない。
調教師にキスをする必要もない。
ただただ、のんびり漂うイルカは最高の姿のように思えた。

しかも、この「ムク」ちゃん。
イルカとしては只者ではないことも分かった。
正直、私は大いに驚いてしまったのであった。
「ムク」ちゃん、なんて呼ぶのはおこがましい。
「ムク」さん、と呼ばなければならないだろう。

なぜなら、水槽前のプレートの説明によると、この「ムク」さんは、1975年の海洋博覧会以来、この水槽で活躍している大ベテランのミナミバンドイルカなのであった。

「イルカって、どのくらい生きるんやろ」

という疑問と共に、そのキャリアに対して思わず脱帽している私なのであった。

「海洋博に行きたい」

とおふくろに言って叱られた、まさにあの時すでに「ムク」はここで芸をしていたのだ。

イルカのホノボノとした姿と共に、紺碧の青空のもと、私は36年にも渡る時空をひとっ飛びしたような錯覚に囚われたのであった。

つづく



(のんびり漂う「ムク」)




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大阪道修町というと、武田薬品や塩野義製薬、大日本住友製薬といった世界的な製薬会社が本社を並べる薬の街だ。
江戸時代から大阪船場を代表するエリアなのだが、ここになんと、「明太子食べ放題ランチ」の店があるというので、さっそく取引先の部長さんと一緒に食べに行くことにした。

東西に通じる道修町の通りと南北に貫く堺筋との交差点に重要文化財にもなっている(と思う)コニシボンドの本社がある。
目的の店はそこから西に1ブロック歩いたところにあった。
こんなところにこういう洒落た食べ物屋さんができたのも、現代大阪の街なのだろうか。

大学を卒業したあと、私は今で言うフリーターをしていた。
私はそのままそこで正社員になってしまったのだが、その会社の事務所があったところがこの付近で、私にとって長年の親しみのあるエリアだ。
その会社の事務所は道修町から2つ南の淡路町というところにあったのだが、当時はこういう「明太子食べ放題」な店など当然無く、事務所の近くでご飯をたべる時は、ビルの1階にあった喫茶店でハンバーグ定食などを食べるのを常としていた。
当時こういう明太子食べ放題の店があったら、迷わず訪れていたことだろう。

さて、肝心の明太子食べ放題の店は、綺麗な料亭風の外観であったが、中は普通より綺麗めの居酒屋さんなのであった。
評判がいいのか、多くのビジネスマンやOAが次々と訪れている。

ランチのメニューはいくつかあったのだが、私は「豚のしょうが焼き定食」を注文した。
ちょっとボリュームのあるものを食べたいと思っていたのと、明太子の味に負けない濃い味を求めたことも選択理由にある。

注文は入ってすぐにあるレジで先に済まし、指定された場所に座るシステムになっていた。

豚のしょうが焼きに限らずランチのほとんどの価格が980円に設定されていた。

980円のランチといえば大阪のランチでは高額の方だ。
大阪の飲食店の件数は人口比率で日本一。
従って競争力も激しいので価格も低く抑えられている。
正直、東京の都心と大阪の都心を比較すると、同じグレードでは大阪のほうが安価だと思う。

しかしこの店のこの価格には「明太子食べ放題」が含まれることを考えると、「安い」と云わなければならないだろう。

でも、もしかすると明太子食べ放題ということは、その反動で生姜焼きがショボイのではないかという恐れがあり、それを心配する私でもあった。
運ばれて来たお盆の上を見ると、その心配は不要なものであったことがわかった。
生姜焼きも十分なボリュームがあり、それだけでも十分なガッツリとした定食になることは明らかでだった。



さて、お盆の上を見ると生姜焼きの他に味噌汁やご飯は載っているが、目的の明太子がない。
明太子がなければ、この店に来た意味が無いではないか。
「食い放題」と聞いてきただけに、もしそれがなかったら何をしにきたのか分からない。
ラーメン屋の「キムチ食べ放題」とはグレードが違うだけに問題だ。

「明太子はここですよ」

と一緒に食べに行った取引先の部長が指し示したのはどんぶり鉢と呼ぶには少し小さいが、それでも十分な大きさを持った陶器の入れ物で、明太子は、その鉢の中にたっぷりと入れられていたのだ。
そして専用の摘みで好きなだけ取ることができるようになっていた。

「おお。明太子.....たっぷりですね」

満足感いっぱいの私は熱々のご飯の上に、タップリと明太子を乗せたのは言うまでもない。



それにしてもこんなに凄い店を営業しているなんて「さすが船場の商人は違う」と感心した。
しかし、店を出てよくよく見てみると入り口には「やまや」の提灯がかかっていた。
なんとここは福岡の博多明太子の大手やまやの経営なのであった。

船場なのに、江戸時代は大阪商人の強力なライバルであった博多商人の店なのであった。



ともかく、明太子と生姜焼き、ご飯のおかわりできるとなれば、これは凄い。

「ああ、美味しかった。また行きたい!」

久しぶりに美味しく、リピートしたい店が見つかった瞬間なのであった。
ちなみに来週22日、23日は道修町の神さん「少彦神社=神農さん」のお祭り。
できればこの日にでも行きたいと思う食いしん坊な私なのであった。



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A&Wは沖縄にしかないファーストフードだ。
この会社のHPによるとA&Wは米国カリフォルニア州で1919年に開業したドライブインスタイルのレストランだったようだ。
これが沖縄へ上陸したのは米国占領下で琉球政府時代の1963年。
奇遇にも私の生まれた年。
以来アメリカ生まれのファーストフードとして日本国内では沖縄本島にだけ展開している沖縄限定のファーストフードなのだ。

店の構えは実にアメリカン。
映画「アメリカングラフィティ」のセットを模したUSJのレストランMel's Drive-inによく似た雰囲気だ。
沖縄の人はUSJへ行かなくてもアメリカングラフィティな世界を堪能できるというのは、なかなか粋である。
ドライブスルーもアメリカ式で、ガソリンスタンドの給油機のように並んだメニュープレートの前に自動車を駐車してオーダーし、乗ったまま運ばれてくるのを待つシステムになっている。
これも大阪や東京では遭遇しない形式だ。
大阪や東京ではたったひとつのオーダー窓口に長い縦列を作り出して順番を待つ仕組みになっているが、アメリカンスタイルの沖縄は、本土に比べて余裕があり羨ましい限り。
でも、よくよく考えてみると、先の戦争のツケの多くを戦後担っているわけで、その影響はA&Wのようなプラスの要素もあれば、現在もなお揉めに揉めている米軍基地の存在のようなマイナスとも何とも言えない要素も残っている訳だ。

モーニングメニューのハムチーズサンドセットを食べながら複雑な感慨に浸っていたのであった。

それにしても、マクドナルド東京上陸の7年も前に沖縄にファーストフードが登場しただけに、店の中も年配のお客さんが、しかも一人でたくさん来ているのには驚いた。
おじいちゃんが一人で新聞読みながらサンドイッチを食べている姿は本土では少ない。
私たちの世代が爺ちゃん婆ちゃんになったときは、こういう光景が日本全国に広まるのかも知れないと思うと、面白くもあり寂しくもありという感じだった。

沖縄ブレックファーストに満足し、車をさらに北に向けて走らせた。
正確には北西に向け走らせた。
沖縄本島の名護市からは半島が西にポコッと出ていて、私の目的地「海洋博記念公園」はこの西の先っぽに位置しているのだ。
ここで国道58号線から離れるのだが、名護市にも見所はたくさんあるようで、私はそのほとんどを訪れずに通過してしまったが、例えば、名護市役所庁舎だけとってみても見応えのある建築なのであった。
運転する車窓からちらっと見ただけなので、詳しくは語れないが、コンクリート梁、外壁に独特の岩を張り巡らせたようなディテールがあり、まるで琉球王朝の城郭のような雰囲気だ。
それに各所に鎮座しているシーザーの姿が実にこれ、麗しいのだ。

しかもその市庁舎の向かいには緑豊かな公園が広がり、その先はもちろんエメラルド色の海が広がっていた。
公園ではスポーツを楽しむ人々の姿がまるで、どこか外国の美しい景色を見ているような錯覚をもたらす。

「沖縄は日本の宝石だ」

と文章に書いてある小雑誌に投稿したら掲載されたことがあったけれども、まさにその宝石のような景色が目の前で展開していたのであった。

釣り人の姿でさえ、どこか輝いて見えるのであった。

つづく

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海沿いの道をドライブするのは気持ちがいい。

数年前まで仕事で和歌山もよく出掛けたので、海沿いの道を走ることが少なくなかった。
快晴の初夏。
紀伊半島の海岸線沿いを走る国道42号線をクネクネとドライブするのはなんとも気持ちのいいもので、視界に広がる太平洋の大海原はキラキラと輝き、一方、陸地の方に視線を向けると緑鮮やかな梅林、みかん畑、桃畑などがひろがり、それはもうなんともいえないホノボノのとした気持ちになるのであった。

そんな景色も田辺市まで高速道路が延びてしまったことによって、見かけることも少なくなってしまったが、今でもプライベートなドライブの時は山の中でトンネルばかりが続く高速道路は避けて、海沿いの一般道を走ることがまれにある。

沖縄本島を南北に貫く国道58号線を走る気持ちも、和歌山の南部をドライブするのと同じように清々しく新鮮なものであった。
違っているのは、朝が早いということと、ラジオから流れて来るAM放送が毎日放送ではなく琉球放送であること、そして左手に広がる大海原が太平洋ではなく東シナ海で、しかも、エメラルド色に輝いているということなのであった。

予算をケチって朝ご飯をホテルで食べなかったので、いささか腹が減って来た。
どこかで何かを食べたいが、恩納村を抜けてからはそれらしいレストランやファーストフードが見つけられない。
時折、マクドナルドの看板が目に留まったが、那覇空港に着いたときと同じように、

「ん~、ここまで来てマクドっちゅうのも、なんやな」

とつぶやく始末でなかなか決断がつかない。
かといってコンビニサンドイッチというのは、もっと洒落ていない。

そうこうしているうちに名護市に入って交通量も増えて来た。
遠くに見える名護市の町街並みもだんだんと大きくなってきた。
道路の車線が2つに増えると、多くのファミレスやショップングビルなどが並んだエリアに入った。

「大きいな~」

というのはレストランではなく、名護市の印象なのであった。

名護市、というえば私の大好物のオリオンビール本社がある街だ。
私は沖縄県の地方都市なので小さな街を想像していたのだが、大きな間違いであった。
沖縄の人に失礼なイメージをもっていたのだ。
市街地開発地区の風景は大阪や東京の近郊とたいして変わらない大きな街なのであった。
その予想外の風景にびっくりしていたのだが、やはりそこは沖縄。
沖縄にしかない存在しないものがあった。

アイスクリームのブルーシール。
ファーストフードのA&Wなどなど。

私はAll American Foodと書かれたそのA&Wに自動車を停め、ここで朝食を食べることに決めたのであった。

つづく



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翌朝、私はこんな豪華なリゾートホテルなので、しっかりと朝寝をして、できればベッドではなくてソファーに横になって読書なんかをしてみたいと思ったりしていたりなんかして、いたのだ。
昨夜のうちにフロントに確認したところによるとチェックアウトは11時までにすれば良いという。
したがって少々高いが朝食はホテルのバイキングで、それからゆっくりと過ごすのも、日頃の疲れを癒す何らかの効果かな、と思ったにだ。

ところが、翌々考えてみると、この考えは大きな間違いであることに気がついた。
せっかく沖縄まで来ているのに、ホテルのソファーでごろ寝なんぞ、どこのホテルでもできるではないか。
それにブレックファーストに2000円以上も出すというのは、十数年前にシンガポールに行った時、リッツカールトンでべら棒に高いシリアルの朝飯を食って以来の出費になる。

誤解しないようにしていただきたいのだが、リッツカールトンに泊まったのではない。
友達の家で雑魚寝をしていて、朝起きて朝食を自分たちで作るのが面倒くさいので友人のマイカーで出かけた先が、リッツカールトンなのであった。
当時友人は外資系のリサーチ会社に勤務していて、経費使い放題の身分であったため金銭感覚が狂っており、私が被害を被ったというのが事情だった。
なぜ外資系だったのかは、判然としないが、友人自身もオーストラリアンという外国人だったので、仕方がないといえば言えるのであった。

で、結局カフーリゾートでの朝食にはもうひとつ行きたくない事情があった。
このホテルには私だけではなく、仕事で一緒に来ていた取引先のエライさんたちも宿泊していたのであった。
今日はフリーなので、べつにお付き合いをする必要はないのだが、朝のレストランで顔を合わせると一緒に行動することにもなりかねず、いきたいところへ行けないことになってしまう。

私は実は、海洋博記念公園へ行きたいという願望を持っていたのであった。

ということで、思い切って朝飯も食わずに午前7時にチェックアウト。
朝食は途中で食べることにしたのであった。
きっと名護市あたりに行くとレストランぐらいあるだろうと考えたのだ。

私は空きっ腹を抱えつつも、レンタカーに飛び乗って一路、国道58号線を北に向かって出発した。
恩納村以北へ行くのも20数年振り。
前回はそれでも名護まで行かなかったので、今回は生まれて初めての場所を訪問することになる。

まるで、海外の初めての土地を御トゥれるときのように胸がドキドキしていたのであった。

つづく

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