昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

昭和のマロの考察(28)医療(3)

2010-08-31 06:09:44 | 昭和のマロの考察
 <診療過誤>にならないのか?。
 

 *第一は不可抗力によって起こった診療過誤。
 例えば麻酔剤で甲の人には何の反応もないのに、乙には急激な反応を起こして死亡したというような場合で、これは患者の個体差に原因するもので、現在の医学ではこの個体差を解明する方法が極めて難しいから、この場合は不可抗力による診療過誤ということになります。

 *第二は準不可抗力によるもので、例えば医師の購入した薬のレッテルが貼り間違えられていて、過って投薬した場合や、診療当時、効能があると学会でも一般でも信じられ、後で思わぬ弊害が出たというような医学の進歩の谷間で起こった場合です。

 *第三は、医師がベストを尽くさなかったことによる診療過誤で、例えば、医師が検査を怠ったため腐った血液を輸血してしまったり、検査設備が不全で、充分な検査もやらずに胃癌を見過ごした場合です。

 法律上、診療行為というのは、医師が患者またはその家族の依頼を受けて診療を行うことを指し、民法に規定されている契約の一種に当てはまるわけです。
 したがって、患者が医師に診療を依頼し、医師がこれを引き受けて、診療を開始した時から、双方に権利義務の関係が生じ、民法第644条の『受任者ハ委任ノ本旨ニ従ヒ善良ナル管理者ノ注意ヲ以テ委任事務ヲ処理スル義務ヲ負フ』という規定が適用されるのです。

 つまり、委任を受けた医師は、病気を治すという目的に向かって、<善良なる管理者の注意>という言葉は、診療行為に関する場合、普通一般の常識ある医師の医学上、当然なすべき注意という意味に解釈されていて、この医師が当然なすべき注意を払って診療を実施しなかった場合は、注意義務の怠慢ということで、法律的な責任を問われることになるのです。
 (山崎豊子<白い巨塔>から) 


 ところが、<診療過誤>を疑う患者の立場は、あきらかに専門的な面で弱い。

 実際身近に起こったケースで、専門家とのやり取りの中から見てみたい。

 ─続く─

昭和のマロの考察(27)医療(2)

2010-08-30 06:08:51 | 昭和のマロの考察
 やはり同じ麻雀仲間のより若い先輩は自覚症状はなかったが、ドックで動脈瘤が発見された。
 手術したほうがいいだろうということで彼は慎重に医者を選び、心臓手術では超有名なS病院を選んだ。
 手術を前に彼は楽観していた。
 事前の麻雀大会では40人を超す参加者の中で優勝をはたしたほどだった。
 手術のため入院する前の日も「暇でしょうがないんだ。つきあってくれよ」と言われて麻雀をやる気楽さだった。

 それが、やはり手術は成功と聞いて安心していたが、大先輩の半身不随どころか、まったくの寝たきりで面会もかなわないという。
 何日か経過して奥さんからお見舞いの許可が出て、仲間といっしょに出かけたが、すでに別な病院へ転院されていて、同様に身動きの出来ない何人かのお年寄りの患者たちと転がされるように寝かされていた。

 ベッドに横たわっていたが、黒目が上に吊り上った半眼状態で言葉も出ない。
「お元気ですか?」と声をかけたが、「おーっ」と声を発したようだが、声にならない。
 ・・・やったデカイぞ!おどろくな!・・・と、麻雀で驚かされた豪快な面影はどこにもない。

「これじゃあ手術した意味ないよな・・・」
 帰りがけにご自宅の奥さんにお会いしたが、「ほんとうはお会いいただかないほうがよかったんですが、お医者さんがたまには刺激を与えたほうがいいとおっしゃるものですから・・・」と言っていた。
 ぼくらは胸ふさがれる思いで無言だった。

 手術は成功したのだが、手術滓が脳に飛んで植物人間になってしまったのだ。
 彼はそのまま半年を経ずして亡くなった。
 大先輩も歩けないまま2年の療養生活の末亡くなった。

 ・・・診療過誤にはならないのだろうか?・・・

 二つの先輩のケースにぼくは思った。

 ─続く─

昭和のマロの考察(26)医療(1)

2010-08-29 06:43:38 | 昭和のマロの考察
「大変なんです。足がまったく動かないんです・・・」
 三週間前、心臓の大動脈の手術をして無事成功したと聞いていた先輩の奥さんからふたたび電話が入った。

 手術直後の電話では「さすが著名な先生だけあって、実際に手術する場面を家族に見せながら執刀するんですよ。自信がおありになるんでしょうね」と弾んだ声で無事手術は成功したことを伝えてきたのに。

 86歳という高齢だから手術後はしばらく動けないのは当然だが、リハビリをしても足が動かせるようにならない恐れがあるという。
 執刀した先生ではなく、内科の先生の話では手術の際に血管に異物が混入し、脊椎の部分に引っかかっているためらしい。

 我々は東京の郊外にある三鷹市で大学の同窓会仲間と40人ばかりの麻雀グループを結成、毎月大会を開催している。

 この大先輩は会発足当初からのメンバーで、わざわざ神奈川県の鎌倉から出向いてくる。麻雀が何よりもの生きがいで、都内の事務所にも麻雀ルームを持ち、プライベートゲームも3日と置かずに楽しんでいる。
 自宅から駅までバイクで通っているが、事故を起こしたり、階段で転んで怪我をしたと言いながらも、次の日にはケロリとした顔で現れる。

 大学時代にアイスホッケーや、空手で鍛えた頑強な身体の持ち主で、みんなから不死身の大先輩として尊敬されている。
 そんな彼が時々胸苦しさを覚え、病院で検査したところ心臓の大動脈瘤が発見され、いつ破裂しても不思議がない状態だと診断された。
 しかし、その病院では手術しか方法がないが高齢のため手術できないと断られた。
 たまたま、別な病院のアメリカで経験を積んだ著名な医師が手術を引き受けてくれた。

 検査の結果、他には全く懸念するところはないので高齢だが十分手術に耐えられるという。インターネットで調べてみるとこの医師は赫々たる履歴の持ち主だ。
 82歳が今までの患者の最高齢だが、今回成功すれば記録になると意欲満々だと言っていたそうだ。

 手術することが決まって、大先輩は我々に会うごとに「これが最後だからな」と言った。しかし、心の中では「またお前たちをかわいがってやるからな」という不死身の気持ちだったはずだ。
 しかし、手術した結果は長生きできても寝たきりになる恐れがあるという。
「うわごとで<リーチ>とか<ロン>とかおっしゃっていますが、これってお好きな麻雀用語ですか?」と看護婦さんから言われたそうだ。
 それほど好きな麻雀もできなくなる。

 こんなことになるなら、どうせ残り少ない人生だ、手術をせずにリスクは抱えたままの人生を選んだほうがよかったのではと我々は仲間とつぶやきあった。
 手術自体は成功したので、手術滓が脊椎という下半身の運動機能を左右する箇所に引っかかったのは運が悪かったと、ひと言で片づけることが出来るかもしれない。

 しかし、まだ70歳前の同じ仲間が同様のケースで今度は手術滓が脳に飛び火して、より重大な症状を引き起こすということが起きた。

 ─続く─

昭和のマロの考察(25)裁判(5)

2010-08-27 05:28:52 | 昭和のマロの考察
 <勝てば花輪、負ければ吊るし首>

 <裁判>といっても、我々が期待するような冷静に公正に裁かれるとは限らない。

 東京裁判もニュールンベルグ裁判も<裁くのは文明で裁かれるのは野蛮である>という壮烈な激語で幕が切って落とされたのだが、日と回数がかさねられるにつれて次第に竜頭蛇尾となっていき、やがて、東でも西でも、誰も振り向かないようなものになってしまった。

 それは勝ったものが負けたものを裁くという性格を日に日にさらけだしていくしかないものであることがわかってきたし、すでに、はじまった米ソの対立の冷戦という新事態に、カケヒキを束縛されているものであることが、わかってきたからであった。
 つまり<法>が<政>から独立しきれないでいる点ではどうやらこれも、変われば変わるほどいよいよおなじだという定則の例外ではないらしいと感じられるためであった。
 
 たとえばハーグ条約は戦争手段の選択・行使にあたっては無差別、無制限であってはならないとしているが、東で南京虐殺を裁こうするものが同時にヒロシマをやっており、 

 西で強制収容所を裁こうとするものが無防備都市のドレスデン猛爆をやっていて、

 しかも結局はそれらについては何も訴追、断罪されることがなかった。
 非戦闘員の無差別殺戮ということなら罪はおなじであるはずにもかかわらずである。

  勝てば花輪、負ければ吊るし首。
 両裁判ともこの古代からの鉄則を超克できなかったばかりか、むしろ進行中にいよいよその様相を深めただけであった。
 高く飛躍しようとしたためにいよいよ深く沈んでしまったことではこの二つの裁判は<裁き>ではなくて<情熱>であり、ドタバタ茶番と化すしかなかったのである。   
 (開高健<ああ。二十五年>より)

 日米戦争の末期、コーデル・ハルは「日本をアジア開放に殉じた国と思わせてはならない」とルーズベルトに言った。
 大統領はそれを占領政策の柱にした。それが(War Guilty Information Program) 
 日本は侵略戦争を仕掛け、アジアを戦場と化し、残虐非道を働いた。
 そう日本人にも吹き込んだ。・・・
 東京裁判ではハルの狙い通りに日本は私利私欲に走った侵略国家に仕立てられ東條英機ら7人は平和と人道に対する罪で死刑に処せられた。
(高山正之・帝京大学教授)


 ─続く─

 

昭和のマロの考察(24)裁判(4)

2010-08-26 07:00:10 | 昭和のマロの考察
 アメリカの裁判について述べてきたが、いかにも日本的な裁きとして<三方一両損>というのがある。
 大工が落とした財布を左官が拾い、両人が受け取らないので大岡越前守が1両足して両人に2両ずつ与えるというもの。

 3人それぞれ1両を損して円満に事を納めるという、落語からきている。

 これはたとえば、ベニスの商人のように法律をうまく適用するという<法解釈>の問題ではない。
 この訴訟において行われたのは<法による正義の実現>ではない。では<道徳>が適用されたのか? それも違う。・・・
 しかし、逆に言えばこの場合大岡越前守は、<何か>を正しいと考え、それに基づいて<自分も1両出す>という結論を導いたことは間違いない。
 その<何か>という<すじみち>こそまさに<道理>なのだ。
 では、道理とは具体的には何を実現するものなのだろうか。
 ここで先の<道理で>という副詞の定義を思い出して頂きたい。
 <そうなる、またそうである道理がわかって納得するさま>と、ある。
 <納得>これが問題だ。

 この言葉こそ、実は<和>や<言霊>や<ケガレ>などにも匹敵する、日本をそして日本人を理解するためのキーワードなのでる。・・・
 三者とも<理解>して<丸く収まる>ことこそ、日本人の理想なのである。・・・
 <大岡裁き>とは結局法律(およびその解釈)では充分に完遂できない<納得の実現>を何らかの手段によって達成した<裁き>ということもできるだろう。
 その<納得の実現>に至る正しい<すじみち>こそ<道理>と呼ばれるものものなのである。(井沢元彦<逆説の日本史>より)


 ─続く─

昭和のマロの考察(23)裁判(3)

2010-08-25 07:11:34 | 昭和のマロの考察
 最近タイガーウッズが離婚を発表した。

 昨年11月以来不倫問題で騒がれ、4月にマスターズで復帰したもののゴルフの成績は散々で、特に世界のトッププレーヤーを集めたブリジストンゴルフでは80人中、78位の大惨敗を喫している。
 メンタルな要素の強いゲームで周囲の目を意識しながら成績をあげるのは、いくら技術があってもムリだということなのだろう。
 はたして、離婚が成立して彼は吹っ切れるだろうか。

 不倫といえば、アメリカの大統領、ビル・クリントンのジッパーゲートを思い浮かべる。

 この件ではすでに<言葉・コミュニケーション>の考察の中で2回触れた。
 今回は法律という側面からアメリカのジャーナリスト、クリストファー・フォスターの見解を取り上げてみる。

 ジッパーゲート(クリントン大統領不倫事件)が致命傷にならない4つの理由。

 ①推定無罪の原則がすべてのアメリカ国民に浸透していること。
 この原則はアメリカ司法制度の根幹をなすものであり、すべての国民が持つ基本的な権利です。
 そのためクリントン大統領が、いかに多くの疑惑報道にさらされたとしても、それが<疑惑>であるかぎり、彼は無罪だと推定されるのです。

 ②不倫は真の犯罪だとは考えられてはいないことです。
 アメリカは法律万能主義の社会のため、ある行為が成文法に照らして違法であるかないかについて、明確な区別をします。
 そのような観点に立つならば、不倫はアメリカの国民の多くにとって倫理的な問題ではあるものの、罰金を取られたり、懲役を科せられたりするような違法行為ではなく、大きな問題とはされません。

 ③アメリカ国民が生活の私的な部分と公的な部分を明確に区別していることです。 
 大統領がたて不倫をしていたとしても、それが私的な生活、つまり、彼と彼の家族の問題であり、彼の自由を束縛してはいけないとアメリカ人の多くは考えます。私生活における彼の行動をとやかくはいいません。

 ④メディアの報道に国民が辟易していること。
 クリントンの大統領出馬以来、メディアは彼のスキャンダルを報じ続けてきました。
 しかし、多くのアメリカ国民はその報道を根拠不十分の魔女狩りのようなものだと見ています。
 そのため大統領はその被害者とみなされ支持を集める一方で、メディアへの反感は高まっているのです。


 ─続く─

昭和のマロの考察(22)裁判(2)

2010-08-24 06:20:02 | 昭和のマロの考察
 <陪審制度>
 
 日本の刑事訴訟法は<真相究明型>を基本にした訴訟観であり、<犯人必罰型>ともいわれる。
 真実はどこかに必ずあり、努力すれば到達できるという考え方だ。
 一方、米国は<問題解決型>の訴訟観といえる。
 陪審制度は主催者である国民が判断すれば、それでいいという考え方だ。
「木が沈んで、石が浮かぶような結果になる」という批判があるが、「浮かぶものを木とし、沈むものを石とすればよい」といわれる。
 真相究明が大切なのは言うまでもないが、それが被告の人権や国民全体の利益に反してまで認められるということではない。(森井章関西大学法学部教授)


 <暗黒裁判>

 藤岡信勝教授は論断する。
「朝鮮人慰安婦強制連行説に異を唱えること自体が、非人間的な行為として糾弾の対象とされるのである」
 

 たとえば奥野誠亮元法務大臣が「慰安婦は商行為ではないか」というごく当たり前のことを述べたのに対する朝日新聞の報道は、「本当に<商行為>であったのかどうかという事実の検証ではなく、そういうことを言うこと自体をアジアの女性を侮辱するものだとして断罪するシロモノである」すなわち「その被疑者のために弁護するのは、けしからん」というものであるから、これは弁護士なき裁判、つまり暗黒裁判である。
 (小室直樹<日本国民に告ぐ>より)


 ─続く─

昭和のマロの考察(21)裁判(1)

2010-08-23 05:28:41 | 昭和のマロの考察
 父が亡くなって、遺産の問題が生じた。
 たいした遺産があるわけでもないので、母が全額を相続することに何の異存もなかった。すでに他家に嫁いでいる妹がふたりいたが、彼女たちも同じ意見だった。
 父は祖父が亡くなった時、その遺産相続を放棄して長兄にその権利を譲った。
 山持ちの祖父だったので、母はそのお人好しを詰った。

 そんなせいもあったのか、母は我々子どもたちに気遣って、父の遺言書を正式に裁判所で開くと言い出した。そこまでする必要はないと言ったのだが、結局かたくなな母の意向に従って我々は家庭裁判所へ出向いた。

 我々に対面した裁判官は、度の強い眼鏡をかけた陰気な顔の男だった。
 いきなりぼくの方を向いて言った。
「その手を解きなさい!」
 ぼくは少ない額の遺産が露呈されるはずかしさに憮然として手を組んでいたのだ。
 実際とは逆に、事あらば異を唱えようと待ち構えている風に取られたようだ。
 ぼくは思わず赤面した。

 当時、OJシンプソン事件がテレビをにぎわしていた。

 弁護士がシンプソンの尋問にあたった警官の態度を問題にした。
「あなたはアフリカン・アメリカンのことをニガーと言ったことはありませんね」
「NO]
「ここに証人があなたがニガーと言ったと言ってもそれはウソですね?」
「YES]
 そう言わしといて、その警官がニガーと言っている録音テープをバーンとバラす。 
 そうして問題を、そんな嘘つきの警官の調書が信用できるわけがないでしょうという風にすりかえて、素人の陪審員たちをたぶらかす。
 全員一致でシンプソンは無罪と表決してしまう。

 密室の閉ざされた陪審員たちの中で声のでかいやつの意見にまとめられていくのが目に見えるようだ。
 世論も、殺人の事実よりも、白人対黒人という図式にこの事件は変化してしまった。


 ─続く─

昭和のマロの考察(20)官僚(7)

2010-08-22 05:47:29 | 昭和のマロの考察
 <ロシアの官僚>

 ロシアの革命家であり思想家でもあるレフ・トロッキーが<裏切られた革命>の中で言っている。

 大衆にとって無名の存在であったスターリンが完璧な戦略計画をいだいて舞台裏から突如として出てきたなどと考えたら素朴であろう。
 

 否、スターリンが自分の道をさがしあてるまえに官僚が自身を探しあてたのである。
 かれらはみなそれぞれの地位にあって「我は国家なり!」と考えている。
 だれもが容易にスターリンの中に自分を見いだす。
 しかしスターリンも官僚ひとりびとりに自分の精神の片鱗を発見する。


 <ナチス・ドイツの官僚>

 村上春樹は<海辺のカフカ>の中で、官僚の無責任は想像力のないところからきている、と言っている。

 アイヒマンという名前はナチの戦犯としてぼんやりと記憶していたが、とくに興味があったわけじゃない。
 たまたまその本が目をひいたから手にとっただけだ。ぼくはそこでその金属縁の眼鏡をかけた髪の薄い親衛隊中佐が、どれくらいすぐれた実務家であったかという事実を知ることになる。

 彼は戦争が始まって間もなく、ナチの幹部からユダヤ人の最終処理──要するに大量殺戮──という課題を与えられ、それをどのようにおこなえばいいのかを具体的に検討する。そしてプランをつくる。その行いが正しいか正しくないかという疑問は、彼の意識にはほとんど浮かばない。
 彼の頭にあるのは、短期間にどれだけローコストでユダヤ人を処理できるかということだけだ。・・・
 計画は実行に移され、ほぼ計算通の効果を発揮する。・・・しかし彼が罪悪感を感じとることはない。

 エルサレムの法廷の防弾ガラス張りの被告席にあって、自分がどうしてこんな大がかりな裁判にかけられ、世界の注目を浴びることになったのか、アイヒマンは首をひねっているように見える。

 自分はひとりの技術者として、与えられた課題にたいしてもっとも適切な解答を提出しただけなのだ。
 世界中のすべての官僚がやっているのとまったく同じことじゃないか。
 どうして自分だけがこのように責められなくちゃならないのか。・・・
 
 すべては想像力の問題なのだ。
 僕らの責任は想像力の中から始まる。
 イエーツが書いている「夢の中から責任は始まる」まさにそのとおり、逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。
 このアイヒマンの例に見られるように。


 ─続く─

昭和のマロの考察(19)官僚(6)

2010-08-21 05:48:53 | 昭和のマロの考察
 <パリのお役人>

 <その1>
 ルーブル美術館で白昼、展示してあった19世紀の画家コローの<セーブル街道>が盗まれた。

 オルレアンの美術館でも、その3日前の昼間、印象派の画家シスレーの<水辺の庭園>が消えた。

 批判されたパリ警察の責任者は、うそぶいた。

「本件に関し、私はなすべきことは完全に果たしている。現在なされている非難に私は関心がなく、無視している」(天声人語1998年)


 <その2>
 <自動改札機>日本より20年は早かったと思います。・・・
 
 それを飛び越えていく人がいっぱいいました。
 でも不思議なことに、駅員はそれを見ていてもだまっています。
 どうして?と疑問に思っていました。
 聞くところによれば、彼らは切符を売る人、注意する係りではない、とか。
 だから、別にそれを取り締まるコントローラーという人々がいて、メトロ中をたまに巡回しています。その人に見つかると、何倍かの罰金を取られるそうです。
 個人主義・自主性・自己管理なのでしょうか。

 私の友達がメトロで財布をすられてしまい、すぐ駅員に届け出たら、彼らは驚いた顔をして「すられるほうが悪い。自分のハンドバッグぐらい自分でまもりなさい」と相手にしてくれなかったそうです。
 (佐野杏希子・パリは琥珀色より)

 (パリのメトロは市交通公団だから厳密には役人とは言えないかもしれないが)

 ─続く─