昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

小説「社長、ちょっと待って下さい!」(22)入社の頃(10)

2017-07-13 03:03:08 | 社長、ちょっと待ってください!
 気づくと、営業部員の出払った部屋に和文タイピストのキイを叩く音がカタカタと響いている。
 三上ゆかりもどこかへ出かけたのかいない。
 そのうちタイピストが消えたのにも気づかなかった。
 ・・・お昼だ・・・
 すでに12時半を過ぎていた。
  
 昼食時、この辺りは最近出来たばかりで評判の牛丼の吉野家も、ラーメンが売りの中華料理店も、周辺のビルからあふれ出る会社員で鯛焼き状態になる。       
 順番を待つ客が駅前で人気の鯛焼きスタンドの鯛焼きの餡のように店からはみ出ている。
 ボクは漠然と外へ出た。
 ラーメン屋の餡の一員になるのも気が進まないので、会社のすぐ近くにある”武蔵庵”という蕎麦屋のつっかかるように抵抗する格子戸を力任せに開けた。
 じめっとした空気がどっとしなだれかかってくる。
 調理場から漂ってくる湯気や、客の吐き出すニンニク臭い息や、手垢が長年に亘って壁に堆積し、茶の斑に変色している。
 土気色の「カレーライスあります」という短冊が斜めになって、かろうじて壁に貼りついている。
 
 ここら辺りをS不動産が密かに買い集めているという噂がある。
 古い商店や住宅を地上げして、高層ビルの建築を画策しているというのだ。
 少しは小奇麗にして若者をひきつけようという気がさらさらないところを見ると、とうぜんこのそば屋も対象になっているのだろう。
 抵抗する格子戸を無理やり開けて入ると、楊枝を口にした4,5人の年寄りたちの視線がいっせいに飛んできた。
 整理がつき次第、もう間もなくこの地を引き上げる連中が、いずれ同じように消滅するこの蕎麦屋で名残を惜しんでのんびりと昼のひと時を過ごしているのだ。
 
 ボクは一瞬身の置き所のない気分に陥った。
 そしてこの場に同化することに抵抗を感じた。
 しかし、引き戸を閉じてしまった今、脱出する勇気もなかった。
 ぐるっと見回して、隅の四人掛けのテーブルに身を沈めるべき空席が目に入った。

 ひとり占めしているのはしわの多いライオンのような顔をしたおやじだった。
 コップ酒を前に悠然と座っている。
「おおっ!」
 ためらっているボクに目を留めると呻くような声を出した。
「キミ、最近渡辺商会に入ったんだろ? なんて名前だい!」
 いきなり見知らぬ男から声をかけられて、ボクは思わずたじろいだ。

 ─続く─



ジャンル:
小説
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 小説「社長、ちょっと待って... | トップ | 小説「社長、ちょっと待って... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL