昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

三鷹通信(251)市民大学、三つの一神教の抗争、宗教哲学の可能性

2018-02-10 12:25:28 | 三鷹通信
 昨日は合田正人明治大学文学部長の9回目の講座「三つの一神教の抗争、宗教哲学の可能性」
 いつもながら、先生の講義は該博な知識が飛び散り、浅学なボクにははなはだまとめにくい。
「宗教とは?」で始まった。
 religio(ラテン語)で語義は二つある。
 
 <religare>(再び結びつける)
 <relegare>(再び読む・自分を省みる)

 「宗教と起源」
 どの宗教も<始まり>ないし<起源>に拘泥するのは何故であろうか?
 ダニエル・シボニー(1942年モロッコで生まれ、1955年パリに移住した。数学者、哲学者、精神分析家としてフランスで活躍したユダヤ人)
 
 彼によれば、、そもそも<宗教>とは<起源>たるものと係るその仕方にほかならなかった。
 「宗教とは同一化という問いの一つのアスペクトであり、起源への関係のひとつの管理、深淵の淵に道標を立てるひとつの仕方であり、それは数々の安心な場所、制御可能な数々の力学を創設するためである」
 ・・・あたかも<深淵>を覗き込んで足のすくむような恐怖が含意されているのである。
 ・・・本質的に不安定な<起源への憎悪>であり、人間関係における<憎悪の起源>にほかならない。
 
 「三つの一神教」
 
 シボニーにとって<イスラーム教>とは<兄弟たちの宗教>にほかならず、「際限のない授乳」「輸血」にも比せられる母子の融合による<同一化>であり、息子たちへの<呼びかけ>こそが<コーラン>である。
 魅惑的な母の<巨大な身体>によって<起源>という<深淵>を塞ぐのである。
 「ジハード<聖戦>とは、この巨大な母性的身体のなかにできるだけ多くの兄弟たち、信者たちを組み込もうとする<努力>にほかならない。
 
 しかし、この<努力>は改宗の強制ではない。
 <ムスリーム>=神に服従するものという曖昧さに包まれたものだ。
 どの一神教にとっても、他の一神教には欠けたものを有している。
 例えばイスラム教にとっては、ユダヤ教もキリスト教も真の<服従>を欠いたものだ。
 キリスト教からすると、ユダヤ教は<恩寵><愛>を欠いてものだ。
 ユダヤ教からするとキリスト教は厳格な<正義>を欠いている。
 ユダヤ教、キリスト教からすると、イスラム教はそもそも<起源>に係ることさえありえない。
 このような欠如を、三つの一神教は互いに非難し合い、他の一神教はこのように非難することでも安定した<起源>を私有化しようとする。

 エルサレムの世界でも最も審査が厳しいテリアビブのベングリオン空港。
 
 嘆きの壁
 
 岩のドーム
 
 街の中で商売するもの、お祈りをするもの、どれがアラブ人かイスラエル人か、見かけだけではわからない。

 
  *<崇高なもの>を信じるのが<宗教>なら
         知ろうとするのが<哲学>か。
  *次回は、一神教を超える<宗教>の存在について探求したい。