碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

走り雨にぬれながら2

2017-06-17 | 日記風雑感
バスの通る広い道から左折れて少し斜面を上がるとお寺の塀が見えた。ここなら、バス停に近いというか、むしろお寺のためにバス停があるような距離で、バスが停まるのが分るほどだ。境内に入ると、枝を広げた大きな菩提樹が何本もあり、その木陰にはいると少し涼しく感じられる。鶏が走り回り、犬が涼しい場所をえらんで横になって寝そべっている。我々が通っても見向きもせずに熟睡中だ。リスが菩提樹の枝をはしり、小鳥がさえずっている。ここはバス停の待合室にいるよりかはるかに居心地はいいし、境内を歩くだけで功徳を授かったような気分にもなれそうに思えた。小坊主が3人ほど出迎えてくれて、珍しそうに珍客をみる眼がか輝いている。僧侶と何か二言三言話して、私を紹介するような言葉を言ったあと、
「私は私の部屋へ行きますが、あなたは自由になさってください。」
と言うのでワイをして僧侶に了解したことを伝えると、僧侶は小坊主達と連れだって去って行った。ほっとした。へたに世話をやかれるとかえって恐縮してしまうので、ほっておいてもらうほうがありがたかった。知らないお寺に来たのも、これも何かの縁なのだろう。境内を歩き始めると、タイのお寺はどこでも似たような造りになっていて、豪華な金ぴかの装飾を施した本堂の中にはこれまた金ぴかの仏像が安置されている。仏の顔はあまり個性がないのはどうしてだろうといつも感じているが、きっとそれをよしとする何かがあるのだろう。決してタイの仏師が怠慢なわけではないと思う。それが証拠に、僧侶の像は実にリアルに作ってある。実際に仏陀を見たものはいないのだからしかたがないだろうという理由もあるが、タイの人にとっては仏陀はもはや象徴であり、抽象であり理念に他ならない、決してリアリズムで見ているわけではない。だから、誰かに似ているような顔はむしろ間違いで、個性の領域を超越して何者でもない、無個性な一つのアイコンでなくてはいけないのだろう。イスラムでは像が禁止されている。具体性より抽象性、体系的なものの考え方をするとだんだんそういう風になっていくのかもしれない。以前、スコータイの遺跡へ行ったことがあった。ここに残された仏像は個性的だ。少なくとも人間の感情を表現している。造られた当時タイではまだ仏教が人に付いたものだったことが読み取れるのです。にこやかな表情は愛嬌がある。感情に訴えるものがある。日本の半跏思惟像と比べると、実にチャーミングだと思うのです。半跏思惟像をみて癒される人はあまりいないと思うのですが、スコータイの仏像は癒される。決して女性像ではないのですが、中性的なゲイではないかと想像するほどで、ひょっとすると当時の王様はゲイ好みだったのではないか・・・そう考えるとタイのゲイ天国は長い伝統の上にあるかもしれない。そんなことを思いながら、本堂の周りを右回りに回ってみると、奥にはレンガ積のストゥーパがありその奥はもうジャングルだった。











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