平ねぎ数理工学研究所ブログ

意志は固く頭は柔らかく

回復の見込みのない患者に対する延命治療の是非について

2010-06-30 21:35:18 | その他

 平成8年10月20日、姉が死んだ。乳がんだった。亡くなる10日前は元気だった。見舞に行くと、状態が良いことを饒舌に語った。「ひょっとすると治るかもしれない」と明るい顔で話した。姉は最後まで望みを捨てていなかった。ところが、それから3日後の夜、容態が急変した。激痛に悶え、つぎの朝ついに意識が戻らなくなった。
 その日の午後、私たちは病室に集まり医師の治療を見ていた。医師は分厚いゴム風船のような器具を使って延命治療を行っていた。ゴム風船を押すと肺に酸素が送られ血圧が上昇する。止めると降下する。医師は、押したり止めたりを数回繰り返したのち、私たちに、もはや回復の見込みがないこと、何もしなければ死んでしまうこと、人工呼吸器をつければ一週間程度は生きながらえることを告げ、人工呼吸器を装着するか否かの判断を迫った。皆沈黙した。最初に母が口を開いた。「もういいです。もう十分です。ありがとうございました」。姉と同じ宗教に入信している叔母が母に同調し、「人工呼吸器はつけないでください。楽にしてやってください」と言った。母と叔母の意見に反対するものはいなかった。
 私はいけないと思った。姉は何も言えないのだ。姉が自分の口から「もういいです」と言っていないのに、周囲が姉の死を決めてはいけないと思った。何か言わなければならない。このまま何も言わなければ姉は殺されてしまう。そのとき咄嗟に「人工呼吸器をつけてください」という言葉が口をついて出た。叔母が気色ばんだ調子で、「あんた、何を言うの。これ以上苦しめてどうするの」と私に向って声をあらげた。次に弟が「周りが大変じゃないか」と本音を吐露した。これは医師を含め病室に集まっている者の大半の本音だろうと思った。だが、弟に同意する者はいなかった。「それでは人工呼吸器をつけるということでよいですか?」。医師が念を押すように言った。「しかたないな」。誰かが呟いた。その声が場の空気を支配した。「では人工呼吸器をつけることにします」。医師は事務的にそう言うと、看護婦に人工呼吸器の装着を指示し、病室から出て行った。
 医師が出ていくと、叔母が、「あんた、勝手なことを言って。これからどうするつもりなの?」と私を責めた。「わしが責任を取る」。私がこういうと、叔母は「責任を取るってどういうことか、意味を理解して言っているの?」と嘲るように言った。そのとおりだ。私はどうすることが責任を取ることになるのか解かっていなかった。先のことは何も考えていなかった。「長期戦になるから、ここはひとまず引きあげよう」。誰かが提案し、そこで解散となった。帰る途中、いろいろなことを考えた。まだ時間はある。時間があればなんとかなる。いや何とかして見せる。私は姉の命を預かったような気がして少し昂奮していた。
 その日は何事もなく過ぎた。次の日の夕方、仕事を終えて姉を見舞った。人工呼吸器は規則正しく肺に酸素を送り続けていた。血圧は正常値を維持していた。心拍は強いリズムを刻んでいた。尿の出が相変わらず悪かったが、それ以外はすべて順調だった。母は、ベッドのとなりに腰掛けていて、姉を見守っていた。「今日はどう?」というと、「ああ、来たの?」と小さく呟き、「特に変わったことはない」と答えた。死を宣告された患者にとって、変化がないことは好ましいことだ。顔は腫れあがっているもののピンク色に染まって、見た目は健常者と変わらない。脚にも浮腫が見られるが触ると温かい。姉は力強く生きている。私は嬉しくなった。
 姉は余命数日の病人には見えなかった。顔に苦悶の色は見られず、穏やかな寝顔だった。血圧も心拍も正常値を示している。すべては順調だ。このままいけば意識が戻るかもしれない。意識が戻ったら姉は何と言うだろうか。私はベッドの脇で、そのようなことをぼんやりと考えていた。そのとき母が独り言を語るようにボソボソと話を始めた。「姉を苦しめているのはお前だ。あの時、治療を打ち切ることに反対したのはお前だけだ。一人でも反対したら、延命治療をしなければならないきまりになっている。人工呼吸器をつけてくれと言わなければ、この子は楽になれたのだ。余計なことをしたために、この子はいつまでも苦しまなければならない」。声は小さかったが、はっきりとこう言った。母がこのようなことを言うとは思ってもみなかった。私には正しいことをしたという確信があった。だが、「姉を苦しめているのはお前だ」の一言で確信が揺らぎ始めた。私の判断は独りよがりだったのだろうか。私が姉を苦しめているのだろうか。だとすれば私はどうすれば良いのだろう。いまさら呼吸器を外すことはできない。「姉ちゃん、今苦しいのか。あの時、治療をやめればよかったのか」。私は脚をさすりながら姉に尋ねた。姉は何も答えてくれなかった。
 人工呼吸器を装着してから1週間目の土曜日、その日は朝から病院にいた。姉の容態は変化ないように見えた。「今日も安定しているな」と、ふと人工呼吸器に目をやると、計器に表示されている数値が前日よりも増えているように思えた。何を表す数値か判らないが、120を超えていた。昨日は60前後ではなかったか。看護婦にそのことを伝えると、「気のせいですよ。心配ないですよ」と笑って答えた。気のせいなら良いけれど、少し嫌な感じが残った。夕方まで病院にいて変わりがないことを確認し帰宅した。翌日の午前3時頃、姉が亡くなったという知らせが入った。急いで駆けつけると、母が「さっき亡くなったばかりだ」と言った。身体はまだ温かかった。姉は医師の予告どおり、延命治療を始めて1週間後に死んだ。
 姉が亡くなってから13年が過ぎた。私はあの1週間の出来事を昨日のように思い出すことができる。あの1週間、私は姉とともに生きた。生きるということと、死ぬということを、あの時ほど真剣に考えたことはなかった。私が下した判断は正しかったのだろうか、間違っていたのだろうか。私には判らない。しかし、正否は別にして、人工呼吸器をつけますか?と訊かれれば、何度訊かれても「つけて下さい」と私は答えるだろう。人はいつか必ず死ななければならない。ただ長引かせるだけの生であったとしても、長引くことに意味があると信じるからだ。この世に生を受けるのは奇跡だ。この奇跡を大切にしたい。できるだけ長くこの世にいて、燃え尽きるように死んで行くべきだ。私はそのように思っている。


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17 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
自分の時にも (魔法使い)
2010-07-06 04:00:54
 おじゃまします。厳粛な話ですので、冷やかしではありません。

身内に対してはできるとしても、自分の時にもつけてくれと遺言できるかとなると微妙なところかなと思いますが、平ねぎさんはどう考えていますか?板は主語がないので判断がつきませんん。
Unknown (魔法使い)
2010-07-06 04:05:42
続き
ああ、そうか、返事ができたら付けてくださいということなんですね。
Unknown (平ねぎ)
2010-07-06 06:11:14
人工呼吸器を付けてくれといったのは、二つの理由からです。
①治療を打ち切ることについて、姉の承諾を得ていない。
②「楽にしてやってください」と簡単に言うけれど、死んで楽になったという人の話を聞いたことがない。

>身内に対してはできるとしても、自分の時にもつけてくれと遺言できるかとなると微妙なところかなと思いますが

質問の意図がわかりません。
失礼な質問をしようとしているのは判ります。
Unknown (平ねぎ)
2010-07-06 08:36:58
>続き
>ああ、そうか、返事ができたら付けてくださいということなんですね。

「付けて下さい」の対象は姉です。
私が同じ状態になれば、同様のことを希望します。
Unknown (平ねぎ)
2010-07-06 08:48:52
私には、
「身内は苦しめてもいいが、自分が苦しむのは嫌だ」
という発想は浮かびません。
Unknown (Unknown)
2010-07-07 03:26:46
なるほど、平ねぎさんの言う通りにも取れますね。言葉足らずでした。
私が言いたかったこと
身内に対してできるということの意味は「自分以外の命を本人の承諾も得ずに奪うのはいやだから、人工呼吸器をつけておいてくれ」という意味です。
自分の時にも言えるかということの意味は「自分の命は自分で決めるので、いらない、あるいはもう十分生きたから取り外してくれという選択肢もありうる」ということです。
 苦しまないようにしてほしい場合は、人工呼吸器をはずすのではなく、苦痛を和らげる薬をはじめとする終末医療をお願いするということです。
 多分私が死ぬ時はこちらを選択するだろうなと思います。
 
Unknown (魔法使い)
2010-07-07 03:34:20
ただ、少しは苦しまないと死ぬという実感が本人つまり私に湧かず、あまりにも軽い死というか、「嘘ッソー!ほんとにおれ死んでしまうんだろうか?」という思いで死んでしまうのもどうかと思うので、多少は痛い思いも必要だと思います。
ただ、痛みが優先してその痛みから逃れたいために死を選ぶのは嫌なので、やっぱり、私は終末医療を選びたいと思います。
Unknown (平ねぎ)
2010-07-07 23:17:25
>私が言いたかったこと

良く解かりました。
誤解していたようです。

私は無宗教なので、あの世があるのか無いのかよくわかりません。
あの世があることを固く信じている人は、さっさと次のステージに行きたいと思うでしょう。
私は確信が持てないので、どうせ死ななければならないのなら、出来るだけ長くこの世に居て、最後の最後まで粘って、もはやこれ以上どうすることもできなくなって死んで行きたいと願っています。生に執着するのではなく、奇跡の所産である生を大切にしたいと思うからです。それから、自分の命は自分の所有物ではないと思っています。
またこんな時間に起きてしまった (魔法使い)
2010-07-08 03:16:32
自分の命は自分だけのものではないというのならわかりますが・・・。
 少しは看病したいと思う家族の気持ちを汲むなら、多少の痛みはがまんせねばならんとか、
でも、私はそこそこ自分主義なので、そんな思いが何日もつやらわかりません。
「もうそろそろいいだろう?」ぐらいは云いそうです。
主義に例えてみると (魔法使い)
2010-07-08 03:22:48
つまるところ「生きるも死ぬも頑張らない」のが私の主義で、「死ぬも生きるも燃え尽きて」という完全燃焼主義が平ねぎさんかな??

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