教育基本条例下の辻谷処分を撤回させるネットワーク

憲法に反する「君が代」条例ならびに公教育の理念に反する大阪の新自由主義的教育諸条例の廃止を求めます。

控訴人側準備書面(2017.2.28提出)

2017-08-21 07:16:14 | 減給取消裁判控訴審
遅くなりましたが、減給処分取消控訴審における控訴人側準備書面を掲載します。
なお、第1準備書面は訂正等形式的なことで主張ではありませんので割愛させていただきました。

平成28年(行コ)第215号給与減額処分取消等請求控訴事件
控訴人志水博子
被控訴人大阪府

2017年2月28日

大阪高等裁判所第2民事部御中

控訴人準備書面2


控訴人訴訟代理人 弁護士 空 野 佳 弘

同            南   和 行

 標記事件についての控訴人の主張は下記の通りである。



第1 はじめに……………………………………………………………………………4
第2 西原鑑定意見書に基づく主張の補充(その1,裁量権の逸脱濫用について)………………………………………………………………………………………4
1 裁量権濫用についての判例の枠組み…………………………………………4
2 本件における減給処分を基礎づける具体的な事情が存在しないこと……7
3 比例原則違反及び判断過程の瑕疵……………………………………………8
第3 西原鑑定意見書に基づく主張の補充(その2,思想・良心の自由に対する直接的侵害)…………………………………………………………………………10
1 最高裁判例の枠組みを超える大阪府の条例の規範構造……………………10
2 大阪府国旗国歌条例における特定思想に対する意図的攻撃………………11
3 本件処分の背景としての大阪府基本条例27条2項………………………15
4 思想・良心の自由に対する直接の侵害は証拠上明白………………………18
5 小括………………………………………………………………………………19
第4 被控訴人の準備書面に対する再反論……………………………………………20
1 人事委員会の裁決についての原判決の事実誤認について…………………20
2 控訴人の卒業式参列の動機と「君が代」の起立斉唱をしなかった理由…21
(1)はじめに………………………………………………………………………21
(2)人権教育主担当として7期生(卒業生)を祝福したいという気持ち…22
(3)「君が代」の起立斉唱が大阪府の人権教育の方針に矛盾すること……24
3 「君が代」を起立斉唱できない控訴人の思想に着目した処分であること…26
(1)卒業式の意義について………………………………………………………26
(2)控訴人の正門警備の役割分担についての事実誤認………………………27
(3)控訴人は厳粛や秩序を脅かしておらず思想への処分であること………28
(4)原判決が「世界観を優先した」ことを処分の理由に挙げていること…30
第5 教員による教育の自由について(主張の補充)………………………………31
1 原判決の争点判断について……………………………………………………31
2 旭川学テ事件の理解について…………………………………………………32
3 教員の責務としての教育の自由について……………………………………34
4 憲法26条により教員の教育の自由が保障されること……………………35
第6 さいごに…………………………………………………………………………36

第1 はじめに
 本書面においては,西原鑑定意見書(甲66)に基づき,控訴人の主張の補充を行うとともに,被控訴人の主張に対する反論を必要な範囲で行い,もって原判決の誤りをさらに明確にしていきたい。

第2 西原鑑定意見書に基づく主張の補充(その1,裁量権の逸脱濫用について)
1 裁量権濫用についての判例の枠組み
 2012年1月16日最高裁判所第1小法廷判決(裁判集民事239号1頁。以下「不起立停職処分違法判決」という)および同日の最高裁判所第1小法廷判決(裁判集民事239号253頁。以下「不起立減給処分違法判決」という)においては,君が代不起立による過去1回の戒告処分歴を踏まえた減給処分(不起立減給処分違法判決)や,過去3回の処分歴を踏まえた停職処分(不起立停職処分違法判決)が処分権者の裁量権の範囲を越えるものとして違法とされた。
この二つの最高裁判決において,戒告を越えた減給・停職等の処分を選択することができる場合が限定されていることが本件との関係でも重要な意義を有する。すなわち,不起立停職処分違法判決・不起立減給処分違法判決においては,以下のような確認がなされている。
 「不起立行為等に対する懲戒において戒告を超えて減給の処分を選択することが許容されるのは,過去の非違行為による懲戒処分等の処分歴や不起立行為等の前後における態度等に鑑み,学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情が認められる場合であることを要する。」
 そして,過去の不起立行為による処分歴を理由として不起立行為に対して減給以上の処分を行うことは原則として相当性が基礎づけられるものではないとされた。この法廷意見の立場に関し,たとえば不起立減給処分違法判決に付された櫻井龍子裁判官補足意見は,こうした比較衡量過程の内容を具体的に明示する。
 「本件の不起立行為は,既に多数意見の中で説示しているように,それぞれの行為者の歴史観等に起因してやむを得ず行うものであり,その結果式典の進行が遅れるなどの支障を生じさせる態様でもなく,また行為者も式典の妨害を目的にして行うものではない。不起立の時間も短く,保護者の一部に違和感,不快感を持つものがいるとしても,その後の教育活動,学校の秩序維持等に大きく影響しているという事実が認められているわけではない。」
 ここに示されるように,職務命令が憲法19条で保障された思想・良心の自由に対する侵害を生じさせるものでないとしても,思想・良心の自由の保護領域に対する制約を生じさせるものであることが職務命令違反に対する処分量定の段階でも考慮に入るものであり,「やむを得ず」行う職務命令違反の行為という位置づけが意識されることになる。
 だからこそ,処分対象となる非違行為が重なることによって処分が重くなっていく形の加重処分が,特に君が代不起立に対しては不適切であるとされるわけである。この点に関し,同じく櫻井龍子裁判官補足意見は,次のように理由を説明する。
 「処分対象者の多くは,そのような葛藤の結果,自らの信じるところに従い不起立行為を選択したものであろう。式典のたびに不起立を繰り返すということは,その都度,葛藤を経て,自らの信条と尊厳を守るためにやむを得ず不起立を繰り返すことを選択したものと見ることができる。……毎年必ず挙行される入学式,卒業式等において不起立を行えば,次第に処分が加重され,2,3年もしないうちに戒告から減給,そして停職という形で不利益の程度が増していくことになるが,これらの職員の中には,自らの信条に忠実であればあるほど心理的に追い込まれ,上記の不利益の増大を受忍するか,自らの信条を捨てるかの選択を迫られる状態に置かれる者がいることを容易に推測できる。不起立行為それ自体が,これまで見たとおり,学校内の秩序を大きく乱すものとはいえないことに鑑みると,このように過酷な結果を職員個人にもたらす前記2(1)のような懲戒処分の加重量定は,法が予定している懲戒制度の運用の許容範囲に入るとは到底考えられず,法の許容する懲戒権の範囲を逸脱するものといわざるを得ない。」
 このように,憲法上保障された思想・良心の自由で尊重されている世界観・歴史観などに関わる信条に基づく不起立行為は,たとえば児童・生徒の権利侵害に帰着するような職務上の違法行為とは大きくその性質を異にする。職務命令違反であるという点において一定の懲戒がやむを得ない場合があり得るとしても,それが起立命令合憲判決でいう「歴史観ないし世界観それ自体を否定するもの」となることは許されない,という点が常に考慮に入れられる。下級審においてはこの点を受け,「自らの思想や信条を捨てるか,それとも教職員としての身分を捨てるかの二者択一の選択を迫られる」こととなるような事態は「日本国憲法が保障している個人としての思想及び良心の自由に対する実質的な侵害につながる」ものであるとの認定がなされている(東京高裁2015年5月28日判決・判例時報2278号21頁。後に最高裁判所第3小法廷の2016年5月31日上告棄却・上告申立不受理決定により確定)。
 この東京高裁判決は特に,加重された処分の結果が「更に同種の不起立行為を行った場合に残されている懲戒処分は免職だけであって,次は地方公務員である教員としての身分を失うおそれがあるとの警告を与えること」になるような形で処分の加重が行われる場合には,「極めて大きな心理的圧迫を加える結果になるものであるから,十分な根拠をもって慎重に行われなければならない」としている。大阪府職員基本条例において,同じ内容の職務命令に違反する行為が累計3回となった場合に免職処分が想定されている(大阪府職員基本条例27条2項)ことを考えた場合,本件において2012年入学式の場合におけるのと異なって加重された処分が選択されたことは,同種の「心理的圧迫」を生じさせるものと見ざるを得ず,そこで求められた「十分な根拠をもって慎重に行われなければならない」という条件に合致していることが必要となる。まして,同日,減給処分辞令とともに,控訴人は職員基本条例第29条2項に基づき「警告書」を受け取っている。そこには,1……戒告の懲戒処分を受けた。2……減給の懲戒処分を受けた。3このことから,職員基本条例第29条第2項の規定に基づき,今後あなたが同一の職務命令に違反する行為を繰り返した場合,地方公務員法第28条第1項第3号の規定により免職することがあることを警告します」と具体に書かれていたことを併せ考慮するならなおさらである。

2 本件における減給処分を基礎づける具体的な事情が存在しないこと
 原審判決は,本件減給処分の対象となった控訴人の行為が国歌斉唱時の不起立不斉唱というだけに留まらず,与えられた正門警備等の式場外における役割を放棄して,丸椅子を持ち込んで着席し,不起立不斉唱に及んだ点で,「規律や秩序を害する程度が相当大きいものである」としている。しかし,上記事情が直ちに不起立停職処分違法判決・不起立減給処分違法判決のいう「学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情」と評価し得るか否かについては,問題の少なくないものである。
 たとえば前述の不起立停職処分違法判決に付された櫻井龍子裁判官補足意見は,不起立が「その後の教育活動,学校の秩序維持等に大きく影響」するか否かを問う枠組を踏まえている。それを考慮した場合,卒業式の進行が特別に滞り,生徒や保護者を始めとする列席者に対して直接的な影響が生じたとする認定がまったくなされていない本件において,不起立行為の秩序侵害性は特別に大きいものであったと判断する根拠は存在しないことになる。また,丸椅子を持ち込んでの不起立についても,卒業生を送り出す式典に同席することに対する教員の教育上の利益を前提にした場合には,「本件不起立に積極的かつ意図的に及んだ」とする認定は適切ではなく,あくまで卒業式の秩序を維持するためやむを得ず丸椅子を持ち込み,同席する場に国歌斉唱があったことによりやむを得ず不起立に及んだものと同視することが適切といえる。
 いずれにしても,正門前警備の役割を終えた後に式場内に戻り,そこにおいて国歌斉唱時の不起立に至る点において,本件の処分対象は2012年4月の入学式における不起立行為と同種の行為と評価すべきものである。にもかかわらず,それが2回目であることによって減給処分へと加重されているわけであるが,前回行為と比較した場合に特別に重く処罰すべき事情は処分対象行為の性質それ自体の中には存在しない。そうである以上,本件減給処分は,「学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情」なく下されたものと評価せざるを得ない。

3 比例原則違反及び判断過程の瑕疵
 さらにそれよりも本質的な問題として,本件減給処分を選択した教育委員会の判断においては,比例原則違反が認められ,また,考慮すべき事項が考慮されていない点において判断過程における瑕疵が認められる。
 大阪府職員基本条例28条2項によれば,同じ内容の職務命令に3回違反した場合には免職となる旨が定められている。そして本件は,君が代起立斉唱命令に関する2回目の職務命令違反による処分である。大阪府職員基本条例で「標準」とされているところに従えば次には免職となるべき場面において,1回目とは異なり,それに対して処分を加重する特別な懲戒処分が下されている。先に述べた「警告書」なるものの発出もあり,これは,被処分者である控訴人において,次は免職である点をことさらに意識させるものであった。実際には控訴人は2013年3月末で定年退職となり,次の機会は想定し難いところであったが,それでも控訴人にとって処分後の残された期間が存在し,また本件減給処分が他の同種の事例を想定しての先例的意義を持つことをも考慮に入れた場合,処分権者としては,「次は免職」としての意味合いを十分に考慮に入れ,そうした意味を持つ加重処分としての条件に合致する処分選択となっているかどうかにつき,十分な検討を行うことが必要とされる。
 にもかかわらず,被控訴人大阪府教員委員会は,原審において本件減給処分が大阪府職員基本条例27条2項と無関係であり,本件に同条が適用されるものではないと主張しており,また現在もその主張を維持している(平成29年1月12日付被控訴人準備書面15頁)。そして実際,本件減給処分を決定するまでの過程において,本件減給処分が大阪府職員基本条例27条2項にいう3回目に向けた第2回目の処分としての意味合いをもつものであることを十分に考慮に入れたことを証明する証拠は何ら提出されていない。これは,処分量定の判断において考慮すべき点を考慮しないままに決定が下されたことを明らかにするものであり,当該処分には手続上の瑕疵がある。
 さらに処分の実際の重さを考えた場合にも,大阪府職員基本条例27条2項にいう3回目に向けた第2回目の処分として,第1回よりも重い処分が選択されたわけであるが,その処分量定は必然的に被処分者をして「次」を意識させるものであり,少なくとも前回よりも重い処分を選択する場合において,強度の「心理的圧迫」を生じさせるものである。繰り返し述べるが,1回目の戒告処分に加重し2回目は減給処分が発出されたわけだが,それとともに発出された「警告書」は控訴人に,「不起立」3回で免職をことさらに意識させた。そうである以上,そうした心理的圧迫をも正当化し得る「権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情」の存在が不可欠であるはずだが,第1回目の処分の対象となった行為と質的に大きく異ならない本件不起立のありように着目した場合,そうした心理的圧迫まで正当化し得るような事情が存在するとは認められない。そうだとすれば,処分対象となる行為の悪質さに比して不必要に重い意味を持つ処分が選択されたことになり,権衡を失する状態に立ち至ったものと認められるのであり,比例原則違反を認定せざるを得ない状況にある。
 以上の点を考慮すると,本件減給処分は,考慮することの必要な事項を考慮しないままに,事態の状況に比して著しく重い処分が選択されたものと認めざるを得ず,被控訴人教育委員会の裁量権の範囲を越えた処分であったと認めるのが相当である。

第3 西原鑑定意見書に基づく主張の補充(その2,思想・良心の自由に対する直接的侵害)
1 最高裁判例の枠組みを超える大阪府の条例の規範構造
 最高裁各小法廷の起立斉唱命令合憲判決は,思想・良心に基づいて斉唱参加ができない教員に対して起立斉唱を命じる職務命令が思想・良心の自由に対する直接的制約を生ぜしめるものではないとして,問題を不起立教員に対して生じていた「間接的制約」の許容性の次元に置き,必要かつ合理的な場合には一定の制限が生じることはやむを得ないとした上で,制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものと認定した。その際には,以下の考察が基礎に置かれている。
 「上記の起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず,上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。……本件職務命令は,特定の思想を持つことを強制したり,これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない。そうすると,本件職務命令は,これらの観点において,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」
 それに対して,大阪府においては条例に基づく別種の規範構造が成立している。すなわち,「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」(以下「国旗国歌条例」という)および「大阪府職員基本条例」は,君が代不起立を理由に3回の処分を受けた教員に対しては免職処分が下される旨を定めており,これら条例の制定過程における議論に鑑みても,大阪府における教員の国歌斉唱義務に関わる条例上の制度が,最高裁の起立命令合憲判決にいう「歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くもの」に該当することは疑う余地がない。
 そのため,最高裁判例において公立学校教員に対して君が代斉唱を命ずる職務命令が発せられても思想・良心の自由に対する違法な侵害は存在しないと認定した他の都道府県における状況と異なる状況が大阪府には存在しているのであり,本件については,起立命令合憲判決がそのままで先例としての意義を有するものとは認められない。むしろ,大阪府においては,憲法19条に対する直接的制約の有無を問う必要性があることになる。
しかし,原審判決においては控訴人が「君が代」斉唱時に起立斉唱できないのは,「自己の歴史観ないし世界観から生じる教育上の信念等に基づくものであると捉えることができる」と認定しながら,原審判決は,控訴人が「警告書」により,次の「不起立」においては免職があり得ることを警告されていることは全く考慮していない。

2 大阪府国旗国歌条例における特定思想に対する意図的攻撃
 大阪府職員基本条例に定められた3回目で免職という構造は,元々,純粋な人事政策的な観点から導入されたルールではなく,国旗・国歌を尊重すべきであるという信条を共有しない教職員を大阪府の組織から排除することを狙って意図的に作られたものであった。
 同じ内容の職務命令違反が3回累積したら免職という構図が大阪で浮上してくるのは,橋下徹知事(当時)に率いられた大阪維新の会が政治課題として学校における国歌強制の徹底を実現すべく立ち回り,そのための条例案を準備していた時期であった。たとえば2011年8月19日に大阪維新の会が発表した大阪府教育基本条例案39条1項が,5回の職務命令違反で免職,同じ内容の職務命令違反の場合には3回で免職という構図を採用していた(甲67)。職務命令違反に関しては,以下のような定めとなっていた。

(職務命令違反に対する処分)
第38条
1 職務命令に違反した教員等は,減給又は戒告とする。
2 過去に職務命令に違反した教員等が,職務命令に違反した場合は,停職とする。
3 前項による停職処分を行ったときは,第27条の規定にかかわらず,教員等の所属及び氏名も併せて公表する。ただし,前条に基づく不服の申立てが有効になされており,停職処分が取り消される可能性のある場合は,停職処分が確定したのちに公表を行うものとする。
4 府立学校の教員等に対して,第2項に基づく停職処分を行ったときは,府教育委員会は,分限処分に係る対応措置として,第31条第6項に基づき警告書の交付及び指導研修を実施し,必要に応じ同条第7項から第14項までに定める措置を実施しなければならない。
5 府費負担教職員については,本条の規定に沿って,別に規則で定める。

第39条
1 前条第4項で規定される指導研修が終了したのちに,5回目の職務命令違反又は同一の職務命令に対する3回目の違反を行った教員等は,直ちに分限免職とする。ただし,第37条に規定する不服の申立てが有効になされている場合は,要件に該当することが確定したのちに処分を行う。
2 前項の規定にかかわらず,懲戒免職とする事由のある場合は,懲戒免職とする。

 もとより,公立学校において職務命令違反が生じるのは当時の大阪府においても極めて例外的な場合であった。この大阪府教育基本条例案39条1項の規定は,同時期に進行していた,大阪維新の会による国歌斉唱強制の徹底を図る措置の一環としての意味を持つものだった。実際,2011年6月13日には大阪府国旗国歌条例が制定されており,公立学校の教職員の国歌斉唱は条例上の義務とされていた。大阪府教育基本条例案における同一内容の職務命令違反3回で免職という構図は,まさにこの公立学校教職員の国歌斉唱義務を実際に実効化するための制度として導入を図られていたわけである。
 この時期に橋下知事は,公立学校教員の思想・良心の自由が尊重されるものではないという立場を常に明確にしていた。たとえば讀賣新聞大阪本社版2011年5月17日夕刊10面は,以下のように報じている(甲68)。
 「大阪府の橋下徹知事は17日,入学式や卒業式の国歌斉唱時に起立しない府立学校や公立小中学校の教員を免職する処分基準を定めた条例を9月の定例府議会に提案する考えを示した。府によると,同様の条例は全国でも例がないという。知事は報道陣に,『府教育委員会が国歌は立って歌うと決めている以上,公務員に個人の自由はない。従わない教員は大阪府にはいらない』と指摘し,『繰り返し違反すれば,免職になるというルールを作り,9月議会をめどに成立を目指したい』と述べた。」
 ここに表明されているのは,国歌を歌うことを是とする思想を絶対化し,少なくとも府内の公立学校教員に対してその思想の無条件の受容を要求するとともに,その思想を受け容れることのできない者を公立学校教員として排除しようとする,明確な思想差別の意図である。引用した橋下知事の談話が明らかにしているように,この法的な強制枠組の中においては,教員の思想・良心の自由が尊重に値しないことが前提になっている。橋下知事が自らを憲法を超越した権力的な高みに立つと誤認した結果であり,公務員といえども個人として基本的人権の尊重を受けることが当然の前提となっている日本国憲法の下においてあり得ない立場である。
 後に,この教育基本条例を通じた国歌強制があまりに露骨に教職員の人権を否定している点に政治的な不都合を感じ取った大阪維新の会は,職務命令違反が累積すると免職という規定を教育基本条例案から落とし,職員基本条例の方に移していき,その際に対象を府の公務員一般に拡げていった。しかし,こうした対象の拡大は,この免職措置を通じて実現しようとしているのが国歌斉唱に思想的に参加できない教員を府の公立学校から排除することであるという目的設定を否定するものではなかった。
 こうした制定の経緯を踏まえると,大阪府国旗国歌条例における教職員に対する無条件で国歌斉唱に参加できる信条の強制と,大阪府職員基本条例27条2項における免職条項は一体として構想されたものであり,後者が前者の手段として位置づけられて成立したものであることが明らかになる。起立斉唱職務命令に繰り返し違反した控訴人に,職員基本条例によって発出された「警告書」はまさにそのことを表している。
 しかし,国歌斉唱に参加することが自らの信条に照らして不可能であるとする教員を,その思想・信条のゆえに公立学校教員としての地位から排除しようとする権力的措置は,憲法19条の思想・良心の自由に対する直接的な侵害となる。国歌斉唱に参加することが自らの信条に照らして不可能であるとする教員を,その思想・信条のゆえに公立学校教員としての地位から排除することを目的に法的な斉唱義務を組み立てることは,府政を担う政党の立場から見て好ましい思想・信条を各教員が有するかを判定するための踏み絵を踏ませるものとなっている。そうである以上,条例上の斉唱義務に基づく起立斉唱行為は,最高裁起立命令合憲判決の用語法でいえば,「その性質の点から見て」当該教員の有する「歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付く」ものであり,それを義務づける大阪府国旗国歌条例およびそれを実施するための職務命令は当該教員に対して「上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するもの」に該当することになる。
 その点において,大阪府職員基本条例27条2項は,国歌斉唱に参加することが自らの信条に照らして不可能であるとする教員に対する適用を予定している限りにおいて憲法19条に対する直接的な侵害を構成する。もとより,思想・信条のありようにわたって強制を及ぼすことは何らかの教育上の目的からして必要なものでないことは,思想・良心の自由に対する間接的制約に留めた他の都道府県における実務が十分な教育上の効果を上げていることからも明らかであり,そのような直接的な侵害が必要かつ合理的なものとして正当化される余地も存在しない。従って,大阪府職員基本条例27条2項は,国歌斉唱に参加することが自らの信条に照らして不可能であるとする教員に対する適用を予定している限りにおいて,一義的に憲法19条に反し,無効である。

3 本件処分の背景としての大阪府基本条例27条2項
 もとより,本件処分は大阪府職員基本条例27条2項が直接に適用された事例ではなく,そのため,仮に同条が憲法19条違反であったとしても,本件処分がただちに違憲無効なものとなるわけではない。
 しかし本件原審判決は,本件減給処分が大阪府国旗国歌条例の射程の範囲において下されたものであることを認め,同条例を判決に引用している。これは,本件減給処分が大阪府国旗国歌条例と大阪府職員基本条例によって作り出された思想強制システムが作動する中で生じたものであることを認めたものといえる。そうである以上,本件減給処分の法的な意味を考慮するにあたっては,当該思想強制メカニズムが憲法19条に照らして存在を許されていないことが考慮に入れられなければならない。
 具体的には,前述のとおり,本件減給処分が2回目の同内容職務命令違反を対象としていることが問題になる。もともと,君が代不起立に関わる事例においては,教員に生じる不利益の背景は一回限りの不起立行為というよりも,その不起立行為の動機あるいは原因となる世界観・歴史観・教育観といった思想・信条の側であることが少なくない。だからこそ,ある種必然的に,君が代不起立を理由とする職務命令違反は累積する傾向が強い。その点を手がかりとして公立学校から排除するための仕組みを整えようとしたのが大阪府において国旗国歌条例と職員基本条例を一体的に運用することで作り上げられた排除システムだったわけである。そして本件が,この累積する傾向に基づいて発生した2回目の国歌斉唱命令違反の処分であった。
 前記引用の2011年8月段階における教育基本条例案の38条2項では,2回目の職務命令違反に対して停職処分が下されることが想定されている。東京都で実務上確立し,そして最高裁の不起立停職処分違法判決・不起立減給処分違法判決で排斥された加重処分システムと同様の自動加重が,元々の大阪の教育基本条例案を手段とした国歌斉唱強制メカニズムの中にも組み込まれていたのである。それに対し現行の大阪府職員基本条例においては,表面的には,職務命令違反に関わる自動加重処分の枠組は明記されていない。
 しかし,実務において実際には自動加重的な発想が根底に置かれ,君が代不起立を行う教員に対して極めて強い非難あるいは排除の意図が感じ取れるような制度が運用されていることは間違いがない。本件においては,教員基本条例案で想定される停職処分と,職員基本条例をそのまま読んだ場合に想定される戒告処分の繰り返しとの中間を取って,1回目の戒告処分から1段階加重された減給処分が採用された。
 そして,同時に職員基本条例によって次は免職を警告する文書が控訴人に渡された。これ自体が,最終的に免職によって特定思想の持ち主を公立学校から排除するための仕組みが本件においても作動していることを表す証左である。
前述の東京高裁2015年5月28日判決は,信条を捨てるか教員としての職務を捨てるかの選択を突き付けられる状況における,思想・良心の自由に対する「実質的侵害」を問題にした。
 こうした選択を強いられる状況は,思想弾圧や宗教弾圧を前にして不利益を甘受するか自らの信条を放棄するかを思い悩まされる瞬間に生じる侵害状況と実質において変わるところがない。そして,本件においてこの強制的葛藤状況が侵害者である府政の意図の下に人為的に生じているのであるから,思想・良心の自由に対する侵害は,もはや実質だけでなく,その名目においても妥当することになる。
 仮に発令時の具体的な環境下において起立斉唱を求める職務命令が憲法19条違反でないとしても,その職務命令違反に対して過度に思い処分を課すことは,それ自体が独立して憲法19条違反を構成することがあり得る。職務命令と懲戒処分が一体となって,現実に公立学校教職員の一部の中に存在している世界観・歴史観・教育観などの思想・良心の内容を否定することそれ自体を目的として,あるいは否定する枠組として運用されている場合,思想・良心の自由に対する直接侵害性はいっそう明白であるといえる。
 そうした前提で考えた場合,まず,本件における控訴人の君が代起立斉唱義務を法的に支えている点で,大阪府国旗国歌条例が憲法19条に違反している可能性は大きい。少なくとも,国の学習指導要領における国旗国歌指導の意義を敷衍して公立学校教職員の具体的な義務を作り出すことを狙う教育長通達は,それが個々の教職員の法的義務の直接的な根拠とされる限りにおいて,憲法違反の評価を免れない。
 そして,その延長線上で下された本件学校において卒業式の国歌斉唱時に列席する教職員に起立斉唱を命じ,同時に式場内・式場外における任務分担を確立する職務命令も,大阪府国旗国歌条例および教育長通達の実施を担うものとして,同じく憲法違反と評価せざるを得ない。
 ただ,仮に職務命令の時点において,特定の世界観・歴史観・教育観などを否定する意味合いが確定しきれず,なおも憲法違反と判断するには十分な根拠がないとしても,大阪府職員基本条例27条2項の将来における適用を想定した2回目の職務命令違反に対する処分として1回目よりも加重された処分が選択されたことは,心の中の国旗国歌に対する教育上の考え方を理由に教員を排除することに向けたメカニズムが動き出したものと評価せざるを得ず,その時点において憲法19条違反の処分となっていることは否定すべくもない。その点において,本件減給処分は憲法に反し,有効に成立したものではないため,取り消しを免れない。

4 思想・良心の自由に対する直接の侵害は証拠上明白
 最高裁は現在までのところ,各自治体における学習指導要領の具体化手続を善意の教育目的のものと捉えるスタンスを維持し,特定思想に対する狙い撃ち的な排除構想の存在を認定しようとしてこなかった。これは,下級審段階で入手可能な証拠の範囲において思想・良心の自由を違憲な形で意図的に無視して特定思想に対する排除を追求する邪悪な意図を立証する手段が入手不可能であったことにも依存している現実である。
 しかし,大阪府の状況は異なる。上記の2011年段階における大阪府国旗国歌条例と(当初案では)大阪府教育基本条例案を通じ,教職員の思想を全面的に首長の選挙に表明された民意の方向性でもって拘束し,たとえば学校の思想的多元性を維持して子どもの権利保護に対する関心を優先させるなど,首長の方針とは相いれない世界観・歴史観・教育観を持つ者を排除しようとする政治的策動に典型的に見られるように,そこでは,教職員の基本的人権を無視した暴政が作動していた。本件に現れてくるような君が代不起立処分は,まさにその排除メカニズムが具体的に作動しているものにほかならない。これこそが,日本国憲法が19条を定めることによって防ごうとしていた権力の暴走そのものである。

5 小括
 以上のように,本件減給処分は,第一に処分権者の裁量権の範囲を逸脱し,考慮すべき事項を考慮しないまま,比例原則に反する評価を前提として,瑕疵あるものとして下された決定に基づくものであり,効力を有し得ない。さらに第二に,大阪府国旗国歌条例,大阪府職員基本条例27条2項および大阪府教育長通達によって作り上げられた大阪府の公立学校における国歌斉唱強制の枠組は,無反省の斉唱参加を是とする立場以外の信条を持つ者を教職員から排除することを狙った意図的な思想弾圧の構造として導入されたものであり,本件職務命令という具体的な法的義務づけに具体化し,また本件減給処分という形で具体的な法的効果を生んでいる点において,憲法19条に対する直接的侵害として違憲の評価を受けざるを得ないものである。
すでに旭川学テ事件最高裁判所大法廷判決(1976年5月21日民集30巻5号615頁)で示されたように,子どもの教育というプロセスは「本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして,党派的な政治的観念や利害によつて支配されるべきでない」ものと捉えられるべき存在である。これは,教育の場を構成する教職員に対して,政治的な力学に応じて観念の一元性を作り上げることが非生産的であることをも明らかにする原理である。にもかかわらず,2011年段階で動き出した公務員や教職員を思想的に統制し,支配しようとする政治的な動きは,子どもたちの健全な発達の場を深刻な形で傷つけていくものであった。ここで教育のあり方に関する深甚な議論はとりあえず措くとしても,教職員個人の思想・良心の自由が憲法19条によって保障されたものであり,政治的多数派のその時々の恣意によって好き勝手に拘束されてよいものであり得ないことは確実な法原理である。
にもかかわらず,有無を言わさず教職員の思想を捻じ曲げようとした策動の具体的な帰結が,本件減給処分である。この本質に気づいた時,大阪発で日本全体を害しようとする危険な傾向の発露であることが見えてくる。本件の処理を間違えると,21世紀の日本で憲法に保障された個人の基本的人権は,暴力的なコンフォーミズムの中で有名無実化し,空洞化する動きを積極的に追認する意味を持ちかねない,危険な岐路に我々は立たされている。
思想・良心の自由が,あらゆる基本的人権の核心に位置し,民主的政治過程そのものの基盤であることを考えれば,本件で問われているものは重い。貴裁判所によって日本国憲法の真の意味が示されるよう,期待してやまないものである。

第4 被控訴人の準備書面に対する反論
1 人事委員会の裁決についての原判決の事実誤認について
 本件入学式について控訴人が受けた戒告処分の人事委員会への不服申立について,何らの裁決もない。「人事委員会が戒告処分を承認する裁決をした」とする原判決には明らかな事実誤認がある。
 ところが被控訴人は,原判決の明らかな事実誤認を認めながらも,原判決がその理由中の判断で裁決を引用も援用もしていないから,原判決の判断には何らの影響もない事実誤認であるなどという(被控訴人準備書面,第2の1(1),24ページ上から1から6行目)。
 しかし被控訴人の主張は原判決を読み誤るものである。原判決は,控訴人が減給処分をされたことについて相当であることの理由として「同様の行動を本件入学式でも行い,本件戒告処分を受けているのに,再度職務に反して」と言うなど,本件入学式についての本件戒告処分が有効であることを前提にした判断をしている(原判決33ページ)。
 原審裁判所は,原告が本件入学式で戒告処分を受けたことを明確に判断の材料としており,そこにおいて原審裁判所が認識している戒告処分とは,すでに人事委員会で処分を承認する裁決を経た戒告処分なのである。原審裁判所は,人事委員会という中立な第三者的立場の公的機関が,入学式における本件戒告処分を承認したということを前提にするからこそ,控訴人の本件卒業式での処分について,それを維持するという判断をしたのである。
 控訴人が受けた戒告処分を人事委員会が承認する裁決をしたという事実誤認は,明らかに原判決の判断に影響を与えるものである。

2 控訴人の卒業式参列の動機と「君が代」の起立斉唱をしなかった理由
(1)はじめに
 控訴人は原審から一貫して,授業等を通じて長く関わってきた7期生の卒業を祝福することが控訴人が本件卒業式に参列した動機であり,「君が代」で起立斉唱しなかった理由はそれが控訴人の思想良心に反するだけでなく,控訴人がこれまで教員として実践してきた人権教育の内容に反することだからであるということを主張してきた。
 これについて原判決は,「原告の行動及びその経歴等に照らせば,生徒や保護者のことを第一に考えたものとは認められない」と,法廷での控訴人や証人の真摯な供述や証言に反する認定をしている。
しかし,あらためて述べるまでもなく,本件卒業式に控訴人が参列した動機は7期生の卒業の祝福のためである。控訴人は原審の本人尋問において「私にとっては7期生の卒業式に出るのは当たり前,当然のことでした」「卒業まで見届ける,そういう気持ちもありました」と供述している(原審原告本人調書,9ページ)。そして人権教育に携わってきた教員の責務として控訴人は「君が代」で起立斉唱をしなかったのである。
また控訴人と枚方なぎさ高校だけでなく東寝屋川高校でも同僚であった福井証人は,控訴人の教員としての姿勢について「価値観の押し付けをするんじゃなくて,やっぱり,そのことをやったり言ったり,いろんな問題を抱えている子の立場を一応理解して,その子がちゃんと自分のものにできるようにうまく,押し付けとかじゃなくて,話はされていたかなと思います」「停学処分とかになった生徒に対する指導の中で(中略)志水先生はそういう子にもちゃんと話をしに行ってました」と証言する(原審福井証人調書,11ページ)。これは控訴人が,何よりも生徒のことを考えて生徒のために行動する教員であったことを物語るエピソードである。
原判決は控訴人のことをよく知る証人が法廷で証言した具体的な事実については一切触れず,控訴人が過去にも「君が代」を起立斉唱せずに戒告処分を受けたという事実だけを捉えて,控訴人が教員として「生徒のことを第一に考えたと認められない」と断定する。原判決の理由付けは「君が代」の起立斉唱をすることが「生徒のことを第一に考える教員」の基準となるというも同じであり,それこそ「君が代」の起立斉唱をしない教員であるということへの偏見や思い込みで控訴人の供述や福井証人の証言の信用性を認めなかったというものである。

(2)人権教育主担当として7期生(卒業生)を祝福したいという気持ち

 本件卒業式で枚方なぎさ高校を卒業する7期生らは,本来,控訴人が担任を持つ学年であった学年であり,控訴人は教科指導の担当として3年間,7期生の高校生活に関わりを持っていた。特に控訴人は教科指導担当だけではなく,人権教育主担として,7期生らに大阪府立高校の人権教育の指針に従った人権教育を実践してきた。
 控訴人が原審の本人尋問で述べた通り,控訴人は7期生の入学時のオリエンテーションで,憲法の話をするなどした。そして,控訴人が入学時のオリエンテーションで話したことは,卒業の近くでも覚えている生徒がいるほどであった(原審原告本人調書,6ページ)。
 また控訴人は,人権教育の一環として寝屋川支援学校との交流学習を実施していたが,7期生の生徒の中には,1年次から支援学校との交流授業を楽しみにしている生徒もいた(原審原告本人調書,7ページ)。
 そのほか7期生の3年生の文化祭の舞台発表で,手話の仕草を笑いのネタにするような表現をリハーサルでした生徒に対して,控訴人は人権教育の主担当として,そのような表現は差別表現となりかねないことを,頭ごなしではなく1対1で理解できるまで話し合うことなどをした(原審原告本人調書,8ページ)。
 このように控訴人はただ教科の担当教員としてではなく,人権教育の主担当として,生徒らが自分の人権も他者の人権も等しく尊重できる意識を持つことができるような関わり方を実践してきたのである。そして,まさに本件卒業式で卒業生代表として答辞を述べた生徒のうちの一人は,控訴人が文化祭の舞台発表のことで話をした生徒であり,「なぎさで学んだことに無駄なことは何一つなかった」と答辞で言った。
 控訴人もいうように,「枚方なぎさ高校では家庭訪問は一番よくした」教員は控訴人である(原審原告本人調書7ページ)。いうまでもなく公立高校の教員にとって,生徒指導のために各家庭を訪問することは,負担の多い労務である。それでも控訴人は人権教育の主担当として,生徒指導部の教員として,生徒のためにほかのどの教員よりも家庭訪問をしたのである。
 控訴人が,7期生の卒業式に参列したいという動機は,このように7期生との間には人権教育の主担当しての現実の関わりが多くあったからである。控訴人は,何も本件減給処分を受けたことについて,取消訴訟を提起するにあたり,とってつけて「卒業生を祝福したかった」と言っているのではない。
 原判決は,「原告の行動及びその経歴等に照らせば,生徒や保護者のことを第一に考えたものとは認められない」といい,また被控訴人も原判決のその認定を正当であるという。しかし,原告の生徒との関わり,授業や学校生活での人権教育主担当としての教育内容を踏まえたら,控訴人が7期生の卒業式に参列するのは,むしろ生徒を祝福するためという以外には考えられない。

(3)「君が代」の起立斉唱が大阪府の人権教育の方針に矛盾すること
 ところで被控訴人のホームページには「大阪府人権教育プラン」が掲載されている(甲69号証)。その大阪府の人権教育プランのうち,在日外国人の教育を受ける権利についての部分を引用する。

【引用ここから】
 大阪府の人権教育は,昭和42年(1967年)に「同和教育基本方針」を策定し,「国民的課題」であり,「我が国固有の人権問題」である同和問題の解決に向けて同和教育として積極的に推進してきた。
(中略)
 また,この経験を活かし男女平等,障害者,在日外国人等様々な人権尊重の教育を推進している。教育委員会では,この様な状況を踏まえ,教育分野において人権教育を総合的に推進するための基本的な考え方及び具体的施策の推進方向を明らかにするため,この度「人権教育基本方針」及び「人権教育推進プラン」を策定した。
 「人権教育基本方針」は,人権についての正しい理解を図り,子ども,同和問題,男女平等,障害者,在日外国人に係る人権問題をはじめ,様々な人権問題の解決を目指した教育を人権教育として総合的に推進する基本的な考え方を示している。
(中略)
 このうち,「教育を受ける権利の保障」については,同和問題,男女平等,障害者,在日外国人に係る人権問題をはじめ,様々な人権問題の状況に即して,「同和教育推進プラン」など個別の施策プラン,指針等に基づき,固有の課題解決に向けた具体的施策を総合的に推進するものとする。
【引用ここまで】

 つまり大阪府の人権教育プランでは,在日外国人の教育を受ける権利については,その保障を個別の人権課題として捉え,その課題解決のための施策の推進を具体的に取り組むこととしているのである。
 また,大阪府は公立学校で多くの外国籍の生徒らが,自らの本名を名乗れず,日本風の通名を名乗ることを社会から強制されている(本人の選択であってもそれは社会で差別されないための便法である場合が殆どである)実情について,人権教育プランに基づいて,本名を名乗れる環境作りを意識したプリントを生徒と保護者向けに配布している(甲70号証)
 このように大阪府立高校では,つまり被控訴人が設置する公立高校では,外国籍の生徒ほか日本以外にルーツがある生との人権を尊重し,国籍やルーツに関わりなく等しく個人の価値が尊重されることを実践する取り組みを人権教育として行っていたのである。現に,控訴人も,人権教育推進委員会委員長として第7期生合格者説明会において,このプリントの趣旨を合格者ならびにその保護者に説明している。
 ところが,本件卒業式において,教職員に「君が代」の起立斉唱を強制する根拠となった2012(平成24)年1月17日の被控訴人教育長の通達(甲2号証)は,「君が代」の起立斉唱の目的が「日本人としての自覚を養い」「国を愛する心を育てる」ことを明記し,さらに,大阪府国旗国歌強制条例も,「我が国と郷土を愛する意識の高揚に資する」ことが「君が代」の起立斉唱の目的であると規定する。
 このような本件教育長通達や大阪府国旗国歌強制条例による「君が代」の起立斉唱の意味づけは,教育課程の一環である卒業式において,突如としてすべての生徒に「日本人としての自覚を養わ」せ,「国を愛する心を育てる」ことを強制するものであり,在日韓国朝鮮人の生徒ほか日本国籍ではない生徒あるいは日本以外の外国にルーツがある生徒も多数在籍していることを全く無視するものである。
 このような意味づけのもとで「君が代」の起立斉唱をすることは,在日外国人の生徒の,卒業式という教育を受ける権利を明らかに阻害するものであり,大阪府人権教育プランの内容にも矛盾することである。
 そして,控訴人は枚方なぎさ高校において,その人権教育の主担当だった。その控訴人にとって,本件教育長通達や大阪府国旗国歌強制条例により意味づけられた「君が代」の起立斉唱を卒業式ですることは,単に控訴人個人の思想良心に反するということに留まらず,大阪府の人権教育プランに従って行ってきた教育実践に矛盾した行動を生徒らに示すことであり,まさに教員としての責務への違背であった。だからこそ控訴人は「君が代」の起立斉唱をしないという行動以外に選択肢はなかったのである。

3 「君が代」を起立斉唱できない控訴人の思想に着目した処分であること
(1)卒業式の意義について
 原判決では,「役割分担表に」は,「いずれの役割についてもそれを果たした後に入学式への参列を認める旨の記載は存在しない」とする。しかし,そもそも教育課程の一貫として行われる入学式や卒業式に教員が参列するのはあまりにも自明のことである。
 卒業式・入学式を,教員に「参列を認める」か否かの問題であるととらえる原判決の見識を疑う。授業するにあたって,校長の許可を得よというのと同種の発想である。そもそも,国旗国歌条例ができる前は,式,特に入学式への参列は管理職から多くの教員に呼びかけられていたほどである。このことは本件戒告処分の人事委員会での証人尋問でも教頭であった覚道証人は「できる限り参列してくださいということは言うていました」と証言している(甲27号証,覚道人事委員会調書23ページ)。
 2012年1月17日に本件教育長通達がどのような意味を有するものであるかについては,前記2で主張したとおりであるが,教育行政の意図は,「君が代」を歌えない教員は式場外役割分担を命じ,式場から排除するためであり,それはすでに引用した西原意見書でも明らかである。そこから考えれば,原判決のいう「参列を認める記載」をすれば,当初の目的,つまり「君が代」を歌えない教員を排除することができなくなるわけである。
 また,そうでなくとも,仮に役割分担表に,一律に役割を「果たした後に入学式(卒業式)への参列を認める」旨の記載をすることも,個別に同一の記載をすることも,教育課程への不当な介入になる。教員が入学式・卒業式に参列するにあたり,教育行政や校長の許可を得てからでないと参列できないというなら,それこそが不当な介入そのものとなる。
 入学式や卒業式が学習指導要領で特別活動と規定されている以上,繰り返すが,それは教育課程の一貫なのである。授業と同一のものである。つまり,原判決の趣旨は,教師が授業に赴くに管理職の許可が必要だというも等しい。

(2)控訴人の正門警備の役割分担についての事実誤認
 また,原判決では控訴人の態様を,「正門警備の役割を独自の判断で放棄した上で」「本来の職務(正門警備)に従事することもなく,式場内に居座った上で」国歌斉唱時には起立しなかったのである」と判断する。かつ,控訴人,福井証人の正門警備の役割についての証言の信用性を否認するが,いずれも憶測による事実誤認である。
 まず,原判決が言及する「正門警備は不測の事態に備えるもの」ということについては,入学式や卒業式の「正門警備」という役割分担は,文化祭や体育祭の「正門警備」とはまったく性質が異なる。
 卒業式も入学式も校門が開かれている時間は短く,他校の生徒の出入りもない。そして正門警備という役割については,事前の確認事項等一切の打ち合わせもなく,時間分担もなく,トランシーバー等連絡機器も持たず,正門警備は不測の事態に備えるものではなかった。不測の事態が発生した時は,生活指導部室に連絡する校内マニュアルがあり,それに基づいて生活指導部室に連絡することに意思統一されていた。「正門警備」の教員が,入学式もしくは卒業式終了まで正門に居続ける事実は一切なかった。そのような学校の現場での事実を全く考慮せず,原審での控訴人の供述と福井証人の証言を信用できないとする原判決は裁判所としてなすべき公平な事実認定の放棄である。
 正門警備の役割が終了していたかについても同じである。開始時間も終了時間も何も記載はなく,打ち合わせもなかった。それぞれ適宜場を離れてしているのが実態である。現に,人事委員会における本件戒告処分の不服申立に置いて,被控訴人の証人として出頭した覚道教頭すら,大阪府国旗国歌強制条例より前は,適宜,役割終了後は,卒業式に参加することを促していた事実を認めている(甲27号証,覚道人事委員会調書23ページ)。

(3)控訴人は厳粛さや秩序を脅かしておらず思想への処分であること
 控訴人が「君が代」の起立斉唱をしなかったことが,本件卒業式の厳粛さや秩序を何ら脅かしていないことは,控訴人が原審の訴状の段階から一貫して主張している事実である。そしてそのことについて,被控訴人も実質的には争っていない。
 もし「君が代」の起立斉唱が原判決あるいは被控訴人がいうような,価値中立的な慣例上の儀礼的所作なのであれば,それを「すること」も「しないこと」ももとより卒業式の厳粛さや秩序を脅かすものではない。被控訴人は,原審において客観的に何らの厳粛さや秩序が脅かされていなくても,控訴人が「君が代」の起立斉唱をしないことで,多くの参加者の内心が動揺したかのような主張をしたが,それこそ「君が代」の起立斉唱が慣例上の儀礼的所作ではないと言うも同じである。
 慣例上の儀礼的な所作というのは,担任紹介のときのお辞儀の角度が浅かったか深かったか,白いネクタイを着用していたか黒いネクタイを着用していたか,来賓が花形のリボンを胸に着けたか腰元に着けたか,卒業式の当日は生徒に「おはよう」ではなく「おめでとう」と声かけをするのかということである。それをしたかしないかは,慣例上の儀礼的所作をしたかしないかということ以上の意味はないから,そのしたしないが卒業式の厳粛さや秩序を脅かすことなどそもそも考えられないのである。卒業式の厳粛さや秩序を脅かすというのは,慣例上の儀礼的な所作を超えて,積極的な表現活動をするといったことなのである。
 ところが被控訴人は,「君が代」の起立斉唱は単なる慣例所の儀礼的所作であると言いながら,控訴人が単なる慣例上の儀礼的な所作である「君が代」を歌えないということに,ことさら着目し,「君が代」の起立斉唱を歌えない教員でありながら卒業式に参列したという,控訴人の思想と教員としての教育に関わる当然の行動を,不良行為であるとして処分した。それはまさに控訴人の思想に対する処分であり,さらには,教育課程の一環である卒業式に参列するという教員としての当然の職務の実践に対する否定である。
 原審で被告(被控訴人)が提出した森校長の報告書に添付された本件卒業式当日の覚道教頭作成の事実確認書(乙2号証,6枚目)には,管理職である覚道教頭が,慣例所の儀礼的所作としての「君が代」の起立斉唱をしたかしないかではなく,「君が代」を歌えない思想を有している控訴人をとにかく卒業式から排除することに注力し,控訴人の動静を図っていた事実がうかがえる。

【乙2号証6枚目 覚道教頭作成の事実確認書 引用ここから】
「卒業式の当日に,志水教諭が式場内に入ってくることが予想されたので,生徒入場の少し前から入り口を教頭席から見ていたが,生徒が入場し終わっても志水教諭が現れないので,入ってこないのかなと思っていたら,事務長から,「座っていますよ。」と言われて,見ていたはずなのに,いつ入ったのかなと不思議に思った。見落としたかもと思った」
【乙2号証6枚目 覚道教頭作成の事実確認書 引用ここまで】

 覚道教頭は「志水教諭が入ってくることが予想された」「見ていたはずなのに,いつ入ったのかな」というような,ある意味正直なほどの報告こそ,控訴人の処分が「君が代」の起立斉唱をできないという思想に着目したものであり,さらには正門警備の役割分担も控訴人を卒業式から排除する意図でされたものであることを示すものである。
 いっぽうで甲20号証の動画報告書のとおり,本件卒業式での教員席には,座席が指定されていたにも関わらず,出席していない「職務命令違反」の教員が複数いることが確認できる。ところが教頭はそれらについては気付くこともなく,また報告書をあげることもなく,そしてそれらの教員の処分を求めることもしていない。つまり,控訴人にだけ注目して,控訴人を特に監視していたという結果が本件減給処分なのである。
 控訴人は「君が代」は歌えないと言っていたことから式場内から出され,決して「正門警備」の必要性から控訴人は持ち場に戻るよう指示されたわけでもない。そして「君が代」の起立斉唱をしなかったことにより卒業式の秩序を害したから処分されたわけでもない。むしろ,不起立教員のあぶり出しが目的とする一連の職務命令と監視のもとで処分を受けたのである。そのことは,すでに提出している校長会のマニュアル,西原意見書で言及されている大阪府国旗国歌強制条例制定における知事(当時)の発言からも明らかである。

(4)原判決が「世界観を優先した」ことを処分の理由に挙げていること
 原判決は卒業式が教育の一環であることを無視し,教育の一環である卒業式に教員である控訴人が参加することを否定されたことすら,適切な役割分担であるかのようにいう。しかし,前記(2)で述べた通り,控訴人に対する正門警備の役割分担は,控訴人の思想に着目してされた差別的な役割分担であった。
 しかしそれでも控訴人は,正門警備の役割分担を果たし,前記1の通り卒業生に対する真摯な祝福の気持ちから卒業式に参列した。ただ,控訴人は自身の思想・良心に従い,これまでの人権教育の教育実践に従い,教員の責務として「君が代」の起立斉唱をしなかった。
 ところが原判決は,控訴人が「君が代」を起立斉唱したことが本件卒業式の秩序や静粛を害することなど一切なかったことに争いがないにも関わらず,「君が代」の起立斉唱ができないという思想に着目してされた控訴人に対する減給処分について,それを卒業式の厳粛さや秩序を害するものとしてそれが正当であると是認した。これは明らかな事実誤認である。

第5 教員による教育の自由について(主張の補充)
1 原判決の争点判断について
原判決は,第5 当裁判所の判断 争点3 憲法23条・26条違反について,次のように,下記旭川学テ最高裁判決のごく一部を引用し,それを根拠として「教育長通達が,児童・生徒に対して誤った知識や一方的な観念を植え付け,児童・生徒の自由かつ独立した人格形成を妨げるかのような内容の教育を施すことを教員に強制するものとはいえず,教員の教育の自由に対する介入であるとは認められない」と判断する。しかし,これは旭川学テ最高裁判決の主旨を見誤った一面的な判断である。
本件教育長通達が大阪府人権教育方針に反することは先にも述べた。しかし,それにとどまらず,本件教育長通達は,教師の教育の自由を侵害し,憲法26条で保障された教育の権利を奪うという点で不当な支配にあたる。

2 旭川学テ事件の理解について
まず,旭川学テ最高裁判決が,教師の教育の自由についてどう認めているかであるが,原判決が引用する「普通教育において,教師に完全な教授の理由を認めることができない」は,「完全な教授の自由」を否定しているに過ぎない。いうまでもなく,同判決は,その前段で,「教員にも一定の範囲における教授の自由が認められる」ことを明言している。同判決で何よりも特筆しなければならないのは,教師の「一定範囲における教授の自由」を認めた点である。同判決が憲法26条との関連で教師の教育の自由をどのようなものと位置付け,公教育に対して何を戒めたか,そのことから控訴人が本件教育長通達ならびに本件職務命令に従うわけにはいかなかったことの正当性を明らかにする。
憲法26条で保障される子どもの教育を受ける権利を充足するには,国や地方教育委員会のような公権力による教育内容への介入を限界付けなければならない。同判決は,国に関しては,「憲法上は,あるいは子ども自身の利益の擁護のため,あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため,必要かつ相当と認められる範囲において,教育内容についてもこれを決定する権能を有する」と判示しつつも,続けて,次に引用するとおり,国による教育内容への介入の性質に着目し,その限界付けを行っている。

【旭川学テ最高裁判決 引用ここから】
「もとより,政党政治の下で多数決原理によってされる国政上の意思決定は,さまざまな政治的要因によって左右されるものであるから,本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして,党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは,教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし,殊に個人の基本的自由を認め,その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては,子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入,例えば,誤った知識や一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことを強制するようなことは,憲法26条,13条の規定からも許されない。」
【旭川学テ最高裁判決 引用ここまで】


国家が無制約に教育内容に介入でき,可塑性の高い子どもたちを学校教育制度の中に囲い込み,時の政権にとって都合のいい情報のみを教え込むことができるならば,もはや子どもたちに思想・良心の自由や表現の自由などの精神的自由を憲法で保障しても無意味である。国家は,たとえ教育制度を整備・運営する権限行使の一環として教育内容に介入できるとしても,同時に,公権力による教育内容への介入を限界付ける仕組みも,教育制度の内部に組み込む必要がある。
同判決では,そうした公権力による教育内容への介入を限界付ける仕組みとして,教師の教育の自由が,位置付けられている。先に引用したところによれば,国家は,憲法上,教育内容との関係において,「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入」を禁止されるわけであるが,その禁止される国家的介入の具体として挙げられているのが,「誤った知識や一方的な観念を子供に植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなこと」である。
同判決は,教師の教育の自由の内容として,教師は,一方的な観念の教授を強制されないことに加えて,教育内容・方法の決定・実施に関するある程度の裁量をも有するとも述べている。公権力による教育内容・方法への介入は,教師の教育の自由によって限界付けられている。同判決が公権力による教育内容への介入を限界付けなければならないと考えた理由は,「本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして,党派的な政治的観念や利害によって支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険」が公権力による教育内容上の介入には常に存在するからである。

3 教員の責務としての教育の自由について
国家は,学校教育制度の作り方次第では,そこに囲い込んだ子どもたちを,一方的に自らに都合の良いメッセージに晒し続けることが可能であり,その誘惑に駆られやすいことを常に警戒しなければならない。そうすると,そうした国家の都合では動かない,教育の論理を貫きうる存在こそが,公権力による教育内容介入への防波堤として相応しい。それが教師である。なぜなら,教師は教育を自らの責務として引き受けた専門職であり,その職責をかけて教育の論理以外では行動しないことが期待されるからである。このことは,裁判官が公正な裁判を自らの責務として引き受けた専門職であり,その職責にかけて,時の政府の意向等に左右されず,法の論理を貫き通すことが期待されるのと同じである。専門職は,その職務遂行においては自らの専門領域の論理以外では動かされないところに特長を有するのである。
そして,専門職は,その職権行使に際して一定の範囲で自律性を保障されなければ,自らの専門領域外の論理の介入を排除できず,職責を果たしえないことになってしまう。それゆえ,「すべての裁判官は,その良心に従ひ独立してその職権を行ひ,この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)のと基本的には同じ理由で,教師にも,教育内容・方法の決定・実施に関して独立して判断するという意味での裁量が認められなければならない。そうした専門職としての職権行使の自律性を持つ教師から教育を受けることこそが,子どもにとっては自らの教育の権利であるという考え方である。
 旭川学テ最高裁判決は,「子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ,その個性に応じて行わなければならないと言う本質的要請に照らし,教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならない」と述べている。学校教育が,個々の子どもの教育おける権利を充足するものであり得るためには,その学校という場面においても,個々の子どもの教育的なニーズが適切に把握され,充足される条件が整えられなければならない。
 この条件整備によって不可欠な要素が,専門職である教師の裁量である。なぜなら,教師は,「直接の人格的接触」によって,子どもから,その教育的ニーズを受容し,それに応答する関係性を構築し,その子どもとの関係性から具体的な教育実践を導き出すことを職務とする専門職だからである。教師の教育の自由の名の下においても,公権力による教育内容への介入の内在的限界を踏み越えるような教師の行為が正当化されることはない。
大阪の人権教育が理念として来たところは,まさに,多様な子どもの個々それぞれの人権を尊重することにあった。教師は,たとえ公務員たる地位にあろうとも,教育行政機関などによって,特定の一方的な観念を無批判に受け入れさせるような教育の実施を命じられたとしても,憲法上,それを拒否する権限が認められているのである。
また,教師は,特定の一方的な観念を無批判に受け入れさせるような教育の実施を命じられた場合に,それを拒否する権限を有するだけでなく,そもそもそうした行為を禁止されている。教師の教育の自由は,公権力による教育内容への介入と同じく,子どもの教育における権利との関係で限界付けられているのである。教師は,子どもに一方的な観念を教え込むことや子どもの思想・良心の内容を基準に評価する事は憲法上禁止される。

4 憲法26条により教員の教育の自由が保障されること
旭川学テ最高裁判決が指摘するように,個人に思想・良心の自由や信教の自由を保障する憲法の下においては,国家は,学校教育制度を通じて,子どもたちに,特定の一方的な観念をも無批判に受け入れさせるように教え込み,自律的な思考能力を奪うことを禁止される。こうした教育の実施は,教育行政機関の命令によろうとも,もしくは教師自身の判断によろうとも,憲法26条が保障する子どもの教育を受ける権利を侵害するものである。同判決は,公権力による権限濫用に対する防波堤として,教師の教育の自由を位置付けている。教師の教育の自由は,公権力による教育内容への介入を限界付ける制度上の仕組みの一部として,教育内容・方法の決定・実施に関する教師の権限の独立性を一定程度確保することを狙いとされた観念なのである。
以上から考えれば,本件教育長通達は,大阪府人権教育方針を引き,それに反することを主張するまでもなく,公教育が普遍的に保障するところの基本的人権を尊重した教育行政から逸脱し,まさに旭川学テ判決が戒めるところの「一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すこと」を,「子どもとの間の直接の人格的接触を通じて」,子どもの教育を行う教師に強制するものである。これは,憲法26条,13条の規定からも許されない。よって,控訴人は,教育長通達に従う必要がないばかりか,旭川学テ最高裁判決が示すところの教師の教育の自由により,それを拒否する権限を与えられていると解すべきである。

第6 さいごに
 控訴人は,枚方なぎさ高校の校長,教頭と,職場の人間関係としては信頼関係を結び,校長は控訴人の人権教育の取り組みを高く評価していた(甲38号証)。だから校長は,控訴人の人格を知っているからこそ,控訴人が卒業式に参列したいという真摯な思いの実現をするために,「今,ここで「君が代」を歌うといえば卒業式に入れる役割にできる」と控訴人が卒業式に参列する具体的方法すら提案した(甲23号証)。
 しかし,けっきょく校長すら,統合された権力機構である教育行政の中で,本件教育長通達と大阪府国旗国歌強制条例に従い,そして公聴会で配布されたマニュアルの通り,「君が代」を起立斉唱できない個々の教員の思いや生徒との関わりに関係なく,「君が代」の起立斉唱ができないという外縁的な事実から控訴人を卒業式から排除し,そしてさらには「君が代」の起立斉唱をしない事実についての処分を推し進めたのである。これは「君が代」を起立斉唱するかしないかということを「踏み絵」として教員を思想で選別することにほかならない。卒業式において「君が代」の起立斉唱が「踏み絵」として機能していることの危惧は,大阪府立高校の生徒も認識していることである(甲71号証)。
 原審裁判所の裁判官がしたことこそ,被控訴人の学校現場で行われている管理職の裁量判断放棄と同じである。原審裁判所は,学校教員である控訴人が「君が代」の起立斉唱をしなかった教員であるという事実の沿革だけを捉えて,なぜ控訴人が「君が代」の起立斉唱をしなかったのか,控訴人が卒業式になぜ参列したのか,控訴人が教員として生徒らにどのような関わりを持ってきたのか,処分の前提となる諸処の事実についてはまったく考慮をしていない。
原判決は,証拠を精査しない思い込みによる杜撰な事実認定のもとで,控訴人に対する減給処分を維持する判断をした。このような杜撰な原審裁判所の判断は,証拠に基づいて虚心坦懐に事実を認定し,その事実に意味づけをし,価値中立的に法律を解釈し,事実と法律の条文を結びつけるという司法権の本質的作用の放棄である。
 控訴審裁判所に対しては,司法権の本質に立ち戻り,関わりの深い生徒らの卒業式を祝福するためにただ卒業式に参列したというだけの控訴人に対して,そして被控訴人(大阪府)の人権教育プランに従って人権教育を実践してきた教員として矛盾のない行動をした控訴人に対して,それでも減給処分という重い処分をしなければならないのか,公正公平な証拠に基づく判断を求める。

以上

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