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因みに、某アパレルメーカーとは関係ありません。バンド名の由来ではありますが。

技芸は身体と共にある(いはを)

2007-11-10 02:51:00 | アート・文化

どうも時事放談の更新が億劫になる今日この頃、いかがお過ごしですか?

さうさう、本日は私は立川談志独演会に行つてきたのです。場所はグランシップの11階コンベンションルーム。会場の規模としては鈴本と同じ位かな。

会場の音響のせゐか、家元の声が多少聞き取りづらかつたが、その分集中して耳を傾けられたとも言へます。まあ、そもそも家元の声自体そこまで通る性質のものでもありませんし、おそらく皆さん承知の上で観に来てるんでせうな。

それはさうと、直に家元の落語を聞いたのは今回が初めてで、何て言ふのか、小説でも「現代小説」と言ふべきジャンルがあると思ひますが、さういふ感じがしました。「無意識」領域を「現代小説」ではテーマにすることが多いと私は勝手にさう考へてるのですが、家元がイリュージョンといふ言葉で説明してゐるのはつまりさういふ「無意識」領域―この不穏なる領域を落語の世界において解放するといふことなのでせう。従つて、我々が寝てゐる時に見る夢の不条理な感覚、さういふものが家元の落語の骨組みと言へると思ひます。

夢の不条理は目が覚めた後で気付く。それは当然のことであるが、不条理を不条理であるとして排除することが人間の精神をある面では締め付けてゐると若しかしたら言へるのではないか、その証拠に落語などといふ馬鹿馬鹿しい噺を人は求めてゐるではないか―家元の落語の端々からかういふロジックが迸る。それはマクラにおいて家元がまさに論理的に自分の落語について語るときは勿論、噺の本筋にありながらも自由自在にその噺とは別の地点へ飛躍したり、はたまた逆に元の筋へ着地したり、または噺の本筋にその噺自体への批評・分析を挿入したり、さういつた融通無碍な動きそのものが不条理であり、しかしそれでゐて家元の噺を聞く我々はその不条理を自然と受け入れてゐる。これは何だか狐につままれてゐるぞと感じながら、つままれることが気持ち良いのである。

シュールといふのはシュールレアリズムを略した言葉だらうが、家元の落語はまさに超現実を志向しようとする。落語といふ芸にもともとさういふ要素が含まれてゐるのだらうが、家元はそれを意識的に捕まへ、そして拡大させる。今回の独演会の後半で「へっつい幽霊」が口演されたが、この演目自体が、例へば「へっつい」(=カマド)にとり憑いた幽霊だとか、その幽霊がよりによつてそのカマドに自分で塗りこんでおいたお金に未練があるだとか、幽霊を簡単に受け入れる渡世人の熊だとか、最終的に幽霊と熊がサイコロを振つて博打をするだとか、シュールの塊の様な、夢みたいな噺だ。それをリアリズムの側面から説得力を持たせるのではなく、シュールレアリズムの側面から説得力を持たせる。そもそも上記の通り噺の流れ自体がシュールなのであるから。

しかし、説得力を持つといふことはある意味ではリアルであるといふことでもあり、換言すれば、落語を聞く者にとつてはシュールレアリズムの世界がリアルなのである。パラドックスであるが、どうもさうでしか在り得ないのだから困りものなのである。

まあ、かういふシュールな世界は論理による担保が何処かに無いと成り立たないと家元は考へてゐるやうで、確かに理知的な前提を置くことで、文学や哲学に比肩する、現代を切り裂く一つの表現法へと落語を「昇華」させてはゐるが、いかんせん理屈で雁字搦めな感もある。それはそれでいいのではあるが、さういつた所が「クセ」や「臭み」になる場合もあるし、私自身さう感じることがある。(しかし、ある種のスノッブはかういふ「クセ」を求めがちで、私にもその気はあるのだが)

しかし、家元は自分の何処となくチャーミングな資質によつて「クセ」や「臭み」を帳消しにしてゐることが今回の独演会で非常に強く感じられた。これはメディアを通してでは感得出来ない要素であり、家元のファンは彼の理屈よりも、このチャーミングな面を愛してゐるのではないか。そして、この面こそが家元最大の「無意識」の側面なのかもしれない。


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