玉川上水みどりといきもの会議

玉川上水の自然を生物多様性の観点でとらえ、そのよりよいあり方を模索し、発信します

何を見つけたか

2017-02-10 05:28:24 | 生きもの調べ
  玉川上水での一年足らずの観察会と調査で何がわかったでしょうか。短い期間だからわかったことは知れていますが、それでも時間を有効に使って、かなり集中的に調べることができたと思います。生きものそのものについては前の章に書いたので、ここでは私にとって大切であった発見にしぼって書いてみたいと思います。
 調べるということは、調べることによってそれまで知らなかったことを知るということですから、新情報を得るということです。私は長いあいだ生態学を研究してきましたから、何がわかっていて何がわかっていないか、ある程度わかります。だから、すでに知られていることよりも、まだ知られていないことのほうを調べたいと思います。とはいえ、希少な動植物がいるわけではない玉川上水で調べるのですから、もともとそこに無理があるわけです。
 でも問題はその「新しい」ことです。もしそれを「タヌキの分類学」とか「形態学」などとするのであれば、新しい発見はないでしょう。いや、あるのかもしれませんが、私にできることではありません。しかし、私はこれまで研究をする中で、生きものリンク(つながり)という視点を注ぐと、新しい発見がたくさん、というよりいくらでもあることを学びました。
 その良い例はタヌキの食べものです。私は若い頃、シカの食性を知らないといけなくなりました。図鑑類を見ると「シカは木や草の葉を食べる」とあまりにも当たり前のことしか書いてなくてがっかりしました。そこで自分で勉強し、開発して糞分析を試みましたが、わかったのは北日本のシカにとってササが重要だということでした。それ以前にそのことを指摘した人はいませんでした。正確にいえば、シカがササを食べることは推測はされていたのですが、定量的に明らかにした人はいなかったのです。わかってしまえば当たり前のことですが、そのことでその後シカとササの関係について研究が大きく進みました。
 タヌキの食性を調べたときも同様でした。タヌキについてはいくつかの論文があったので読みましたが、頻度法という方法を使っていたのと、植物の種子がまとめてあり、識別された植物名が少ないので、あまり役に立ちませんでした。そこで自分で調べてみると、タヌキは果実をよく食べ、しかも里山的な植物をよく食べることなどがわかりました。事例を増やし、その後公表された論文などを集めてみると、場所により違いが大きいことがわかりました。要するに「タヌキの食性はこういうものだ」という一般論はあまり意味がなく、個々の場所でていねいに調べるしかないということです。
 実際、津田塾大学のタヌキの食性を調べてみると、これまで知られているタヌキの食性と共通することと、違うことがありました。そしてそのことは90年前に植林された津田塾大学のキャンパスにある林の特徴を反映したものでした。
 タヌキの食性をタヌキの性質のひとつとして捉えるのではなく、食べられる植物の側からも考えると、食べるという行為を通じてタヌキとほかの生きものがつながっていることがわかります。つまり視点を変えて見れば、同じことが違って見えるということです。
 そうすると、タヌキは果実を食べているつもりなのですが、植物から見れば、果肉を提供して種子を散布させているということが理解されます。そういう見方をすると、実際タヌキのタメフン場にムクノキやエノキの実生(みしょう)があることに気づきました。
 そして、果実(多肉果実)がそのような機能を発揮させようとしているという目で見ると、さまざまな果実が直径5ミリメートルから1センチメートルくらいで、カラフルであることの意味も「これは鳥に食べてもらうためだ」と理解できました。そう思って秋の玉川上水を歩くと、低木類が自分をアピールしているように見えたから不思議です。
 同じ現象を見方を変えたら違って見えるというのは、ただの観点の違いであって、事実そのものは違うわけではないという意見はありえることです。でも私はそうではないと思います。違う見方をする、あるいはできるということは生物のことを理解する上でははなはだ重要なことです。私が尊敬するカナダのデビッド・スズキさんは、著書の中でプルーストのことばを紹介しています。

 真の発見の旅とは、新たな土地を見つけることではなく、新たな目で見ることだ。(スズキ、「いのちの中にある地球」、2010)

 玉川上水の生きもの調査のもうひとつのハイライトは糞虫だったと思います。私は糞虫をトラップで採集し、室内で飼育し、糞を野外に置いて分解のようすを観察するという毎日を続けました。そのとき、この東京郊外の町に糞虫がたくさんいるのに、それを調べようとする人は誰もいない、それどころか糞虫がいることそのものを知る人さえいないということを感じました。動物の糞に集まる不潔な昆虫など興味をもたないのは当然かもしれません。しかし、糞虫が生態系で重要な役割をもっており、それを調べることは複雑な生き物のつながりを知ることの興味深い世界を知ることにつながります。
 社会動物学という学問分野を確率して生物学の流れに大きな影響を与えたエドワード・ウィルソンは次のような驚くべき事例を紹介しています。

 ミツユビナマケモノは、南米から中米にかけての大部分の地域で、低地帯の森林上部の葉を食べてくらしている。ミツユビナマケモノの毛皮のなかには、地球上でここにしかいない小さな蛾、クリプトセス・コノエピが棲んでいる。週に一度、ナマケモノが排便のために地上に降りたとき、雌のクリプトセスは一瞬だけ宿主を離れ、ナマケモノの新鮮な糞に卵を産みつける。孵った幼虫は、糸を出して巣を作ると、糞を食べはじめる。幼虫は3週間で成虫となり、ナマケモノを探すために樹木の上のほうへ飛んでいく。このように、クリプトセスの成虫は、ナマケモノの体表で生活することで、子供たちに栄養に富んだ排泄物という餌を確保することができ、糞便を餌とする他の無数の生物たちを出し抜くことができるのである。(ウィルソン、「バイオフィリア」, 1994)

 この記述は糞虫のことを書いているのではありません。ナマケモノの毛皮の中というきわめて特殊な場所に生きる特殊な蛾がいて、その蛾が生きるために、ナマケモノの糞を利用して産卵し、そこで孵化した幼虫が糞中で育って再びナマケモノにとりつくために樹上に飛んでいくという驚くべき生活史を紹介しています。このこと自体、驚くべきことですが、同時に、このことを明らかにした生物学者の執念もまた驚くべきものです。
 自然界にはこういう私たちが知らないことが無数にあります。ウィルソンはそのほんのひとつでもよいから明らかにすることは大きな意味があるということを伝えようとしているのです。他人(ひと)は関心を持つことはないが、そういう興味深い世界があるのだということに気づいたという意味で、糞虫を調べた私にはウィルソンのことばに共鳴するものがあります。
 さて、昆虫調査といえば、標本箱に入れる種類を増やすために採集すれば一件落着というのもひとつの調査のありかたです。しかし私は糞虫の存在をタヌキがいることのリンクとしてとらえようとしました。
 タヌキが食べ物を食べれば、当然、排泄します。排泄すれば糞が地面に落とされます。その糞はどうなるだろう?糞虫がいて分解するのではないか?とつなげて考えたいと思いました。そして実際に調べてみると、コブマルエンマコガネが採れ、飼育してみるとすごいパワーで糞を分解することに目を見張りました。そしてそのパワーに感激すると同時に、その活動が糞を分解して土の中にもどすことで、物質循環に貢献するという偉大なことをしているということも理解できました。
 糞虫が糞を分解することはもちろん私が発見したことではありません。しかし、玉川上水にはほとんどコブマルエンマコガネしかいないという事実を確認し、それには草食獣がいなくなってしまったという背景があったのではないかという仮説を立てました。そして、八王子や大月で調べてその仮説は無理なく説明できました。
 玉川上水に糞虫がいることを確認した次に考えたのは、では市街地の緑地には糞虫はいなんだろうということでした。ところが調べてみると、意外にいるという結果になりました。そこで「いない」ことを示すために調査地点を増やさなければならなくなりました。それは大変でしたが、がんばって44カ所を調べることで意外にも糞虫はほとんどの場所にいることが示されました。そのことがわかったときの喜びは大きいものでした。
 玉川上水という、これといって希少な動植物があるわけではない場所で、特別の装置や道具を使うこともない調査によるだけで、生き物のリンクを示すことができました。

「自然界では、一つだけ離れて存在するものなどないのだ。」(カーソン「沈黙の春」、青樹訳、1974)

 とはいえ、もちろんそれはタヌキを軸にしたものであり、しかも、そのごく一部を示したにすぎません。そうではありますが、生きものがつながって生きていることが実感できたことはすばらしいことだったと思います。
 このときに感じたのは、生きものを調べるというのは「これでおしまい」ということのない奥行きの深いものだということでした。作業としての終わりもありませんが、「こういうことが起きているのではないか」と考えることにも終わりがありません。
 このことについて私がいつも心に置いているレイチェル・カーソンのことばがあります。

 私自身も含めて、地球とそこに棲む生物に関する科学を扱っている人々に共通する特質がひとつあります。それはけっして飽きることがないということです。飽きることなどできないのです。調べるべき新しい事項はつねに存在します。あらゆる謎は、ひとつ解明されれば、より大きな謎の糸口となるものです。(カーソン著、レア編「失われた森」、古草訳、2000)

 その深い楽しみが東京という都市の中でもできるというのは驚きでもあり、ありがたいことでもあります。これは日本列島の自然が恵まれているためだということを思い起こすべきだと思います。日本の夏の高温多湿が植物を茂らせる、そのことが昆虫をはじめとする小動物の生息を可能にしているのです。

つづく


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