ネットのニュースに、栗原類くんが自身が発達障害の一つADDであることを公表し、自伝『発達障害の僕が輝ける場所を見つけられた理由』を発売したと出ていた。以前あるブロガーさんが発達障害についての本を読んだことを書いていて、その記事が心に残って保存してあったのを思い出した。
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最初の1章「脳の多様性」より。
花が人間の暮らしをしている世界を思い浮かべてみよう。
ここでは、話の進行上、バラを精神科医とする。
診察室に大きなヒマワリが入ってきた。
バラは診察器具を取り出し、ほんの三十分かそこらで診断を下す。
「巨大化症候群ですね。早期に発見すれば治療できますが残念ながら、こんな状態になってしまったら、医者としてはほとんど手のほどこしようがありません。でも、病気に耐えられるようになる何らかの方法はありますよ。」(略)
次の患者は小柄なヤグルマギク。
バラの精神科医は二、三の検査と全身の診察をして、診断を告げた。
「お気の毒ですが、GD、つまり成長障害です。この病気は遺伝子が関係しているようです。でも、心配することはありません。適切な治療をすれば、どこか水はけのいい砂地の畑で、実り豊かな、幸せな暮らしができますから。」(略)
最後に、カラーが診察室に入ってきた。
診断は五分とかからなかった。
「PDD、花弁欠損症です。完治はしませんけど、特別に調合した薬を飲めば、進行を食い止められます。実は今しがた、除草剤のセールスマンが無料のサンプルを置いていったところです。飲んでみませんか。」(略)
ばかばかしい話と思えるが、今日、私たちの社会が人間の脳の相違をどんなふうに扱っているのか、それとなくほのめかしている。
脳の生まれつきの相違をすばらしいものと考えるのでなく、往々にして、「ジョニーは『自閉症』だ。スージーは『学習障害』。ピーターは『ADHD』にかかっている」と言って、薬を処方したり、病気扱いしたりする。
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バラほど完璧に美しい花にとって、他の花はどこかしら不完全に見えるかもしれない。でも人間は表面からはそれほど完璧かどうかわからないし、みんな何かしらの欠陥を抱えているように思われる。としたら、誰がこの人は発達障害だ、ADDだと決めるのだろうか? これが脳の多様性というなら、誰一人同じではないはずで、どこにここからは障害と線引きするのだろうか?
ロンドンやニューヨークの保育園に通った栗原類くんは「海外の保育園は集団でやることを無理強いしないし、人と同じことができなくても冷たい目で見られない」と語っている。日本でも一人一人の個性を大切にしようと言われるようになって久しいが、同時に「発達障害」という言葉もよく聞かれるようになった。事件を起こすとすぐに「発達障害」だ。
日々何かしら悩みながら鬱々と暮らしている私だって十分に発達しているとは思えないのだが、なんとなく集団生活ができていれば良しとするのか、それでは「個性を尊重する」に相反しているのではないか?