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文久水滸伝

2016-09-15 14:55:45 | 日記
孝明天皇の大和行幸に際して、天皇を担ぎ上げ、攘夷挙兵を目論んだ長州藩に呼応して、先駈けて大和で兵を募ることを目的とした天誅組の総裁の一人、藤本鉄石は、関東でも兵を募る必要性を感じ、同行していた落合直亮を関東へ送り込んだ。この時、同じく藤本鉄石と同行していたのが、土田衡平だった。土田衡平は後に天狗党の田中源蔵と行動を共にする。そうした関係から落合は関東へ向かい、天狗党の藤田小四郎らとコンタクトを取ったと考えられる。こうして藤田小四郎や田中源蔵ら天狗党は京の動きに呼応する挙兵を計画し、この時、各地から相楽総三や権藤真郷らが集まって来た。(天狗党は元治元年の筑波挙兵以前から存在しており、新撰組の局長となった芹沢鴨、香川敬三、出流天狗の西山謙之介らも参加していた時期がある)しかし、この動きに驚いた水戸藩の執政、武田耕雲斎の説得によって、天狗党の決起は途絶する。こうして空中分解した残党が、慷慨組や、天朝組、小田熊太郎の信州挙兵などへ分派して行ったのだが、最終的に挙兵を敢行できたのは、楠音次郎の真忠組だけだった。「慷慨組」とは、清河八郎、那珂梧楼と並んで、東条一堂門下の三傑の一人に数えられた桃井可堂を中心に、可堂門下の新田満次郎(岩松俊純)を擁立し、赤城山における挙兵を目途して、水戸から流れて来た相楽総三、権藤真郷、後に天狗党の乱で戦死する川俣茂七郎、梅村真一郎、水田謙次、真田範之介、長州からは福原美禰助(鞍馬天狗のモデルとなった)、大楽源太郎、大橋訥庵の日光挙兵計画に参加した広田精一、尾高長七郎、岡田真吾、可堂門下の金井之恭、金井国之丞、小田熊太郎らが参加した挙兵計画だった。しかし寺田屋事件の際に挙兵派の有馬新七と攘夷派の清河八郎が袂を別ったように、当時、反幕府勢力の大同団結は、挙兵倒幕派と、攘夷決行派の針の振幅が激しく、相容れずに決裂する傾向が大きかった。そうした例に違わず、尾高長七郎ら攘夷決行派は、「慷慨組」と袂を別ち、血洗村に「天朝組」を結成し、尾高藍香、渋沢栄一、渋沢喜作(後に彰義隊、函館戦争に参加)、金原忠蔵(追分戦争で没)らが参画した。が、桃井可堂の「慷慨組」が、新田家の用人、湯本多聞之介の江戸南町奉行所への密告によって破綻すると、「天朝組」、小田熊太郎の信州挙兵も、同様に流産することになったのだった。
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