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これまで何度もNY来ても実は一度も訪れていなかった場所。
御存知、ベン・スティラー主演で日本でも2007年、大ヒットした映画「ナイトミュージアム」の舞台でもあります
2006年migレビュー「ナイトミュージアム」
監督は、現在「リアルスティール」(レビューは後日)がこれまたヒットのショーン・レヴィ。
ハーレムからの帰り、調べたら5時45分閉館だと知り4時まわったところで大急ぎで到着!
広い広い博物館、ちゃんと見ようと思ったらほんとは5、6時間はかかるとも言われるのに。
まぁ駆け足でいってみましょう!SUBWAYで地下の入口から入場。
料金は一人19ドル。二人分カードで払おうとしたら時間も時間なのでkatuが受付と話し「 I appreciate it.」
とかいって2ドルしか払わなかったよ?!
何でなんで?いいのー?時間僅かだから?あとで他の友人にも確認したら、
メトロポリタン美術館同様、入場料は一応決まってても任意なので1ドルといえばそれでいいらしい。知らなかったな。
知人も1ドルしか払わなかったって。ちなみに、1セントからOKみたいだけど
残り時間僅かながらも無事入場。
こんなふうに階段の途中で何がどこにあるか確認できるよ☆
まずさがすは恐竜ですよ、やっぱり。あのおっかけてくる巨大なTレックスね
が、最初に目にはいってきたエリアはアフリカ動物達の剥製でつくられた精巧なジオラマ部屋
絵みたいだけど全部これ立体!
迫力〜
これね、こんな風になってます。
閉館1時間ちょっと前なのですいててみやすーい♪
これは劇中も出て来たミニチュア。
シロナガスクジラはサイズだけ本物でフェイクだったかな。
うぇっ
ばかでっかい。
こんなクモもいたのか!
あ、いたいたインディアンたち。
フクロウマニアにはたまらん
すっごい大きな亀さんもいたよ〜
そしてそしてドーンティラノサウルス・レックス
さすがの迫力だね
途中でこんなモニターがあって、自分の顔を画面にサイズ合わせて取り込み、
簡単にイエローキャブに乗っちゃった!
すると後からTレックスが
表情は自分で演じます(笑)
閉館15分前にはほとんど人がいなくなり、、、
待って、待ってまだあれに会ってない
ちょうど5分前に見つけて警備の人に言って奥迄走ってギリギリ撮影
ダムダム
ナイトミュージアムにでてくるあれね☆
造りもののモアイっぽかったな(笑)
イタズラなお猿は撮ってくるの忘れてた〜
NYレポ&(映画レビューはまだまだ)もうちょっと続く〜
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アメリカ自然史博物館に行きました。
映画「ナイトミュージアム」の舞台ともなった博物館ですね。
ここもNew York City Passに含まれています。
地下鉄で行ったのですが、快速?に乗ってしまい降りる駅を行きすぎた…
戻るにも反対側のホームに行く階段通路が無く、一度降りる羽目に…(^_^;)
世界史ノートより
イギリス本国は、植民地に対しては植民地の自治を認める一方で、重商主義政策をとり、本国の利益のために商工業の発展を抑える政策をとり続けた。
例えば、羊毛品吠1699)では本国の羊毛産業を保護するために植民地の毛織物の輸出を禁止した。糖蜜吠1733)は、植民地が西インド諸島の外国植民地から輸入していた安い糖蜜や砂糖に輸入税を課したものだが、これは西インドの英領ジャマイカのさとうきびプランター(プランテーション経営者)を保護するための条例であった。さらに鉄吠1750)では、本国の製鉄業を保護するために植民地の鋼鉄用溶鉱炉や圧延工場の建設を禁じた。
これらの重商主義諸政策は植民地の経済に打撃を与えたが、「有益な怠慢」という言葉に表されているように、例えば密輸に対する取り締まりも不十分であったし、当時はフランス植民地から植民地を守るために本国の援助が必要であったために、本国に対する反抗は起こらなかった。
しかし、フレンチ=インディアン戦争(1755〜63)でイギリスが圧勝し、1763年のパリ条約でカナダ及びミシシッピ以東のルイジアナを獲得してフランスの脅威がなくなったこと、また七年戦争(フレンチ=インディアン戦争)の戦費と獲得した広大な領土を統治するための費用をまかなうために重商主義を強化し、課税を強化したので植民地人の不満が高まった。
1764年には糖蜜法に代えて砂糖法を制定して密貿易への処罰を強化し、さらに翌1765年には印紙法を制定した。
――止――
ヨーロッパ史より
そこで1764年、イギリス首相ジョージ・グレンビルは密貿易の取り締まりも兼ねて砂糖税法を議会で制定。
ん、密貿易って何だ?
はいはい、実を言うと1733年、イギリス議会は「外国」産の糖蜜1ガロンにつき6ペンスの関税を課す、という糖蜜税法を制定していたんです。糖蜜という のは、どろどろした褐色の液体で、カンショ糖など糖を精製する際に、副産物として生じるもの。アルコールの発酵に使われますから、お酒造りには必要。
そして、外国というのはイギリスは含まれていませんから、当時、ヨーロッパで一般的だったラム酒を作る場合に必要な糖蜜を安く手に入れるためには、以前よ りは少々高くなるけど、イギリス本国(もしくは他のイギリス植民地)を経由して買わざる得なくなるような、政策を打ち出したんですね。もちろんこうします と、仲介業者であるイギリス本国が儲かります。
だがしかし・・・とアメリカの人達は考えます。
そうだ!原産地から密かに輸入しちゃえばいいじゃん!
ということで、アメリカでは密貿易が盛んになるのです。そして、イギリスは当時、まだフランスと植民地戦争の総仕上げの段階であったこともあり、取り締ま りは殆どしていなかったのですが・・・戦争が終わってしまえば話は別。そこで成立させたのが、先ほどの砂糖税法というわけです。
まず第一に、密貿易の大幅な取り締まりに乗り出します。
次に、糖蜜にかかる関税は引き下げます。これによって、密貿易をする必要性は減少させます。
その代わり、砂糖にかける関税を大きく引き上げ、さらに新たにマデイラ酒(ブドウ酒)に関税をかけることにしました。ジョージ・グレンビル首相にしてみれば、アメとムチの政策だったんだと思いますけど、アメリカ側は激怒します。
○印紙税法
さらに1765年、植民地のあらゆる公文書、証書、売買契約書、新聞、パンフレット、トランプなどに政府発行の印紙をはることをさだめた印紙税法を制定し ました。つまり、何か正式な文書を作る際には税金を払え、と言うことです。トランプというのが気になりますが・・・(笑)。
当然のことながらアメリカの人達は怒ります。そもそも、イギリス議会にはアメリカから選出された議員はいないにもかかわらず、勝手に本国が税金を課す法律 を成立させるとは何事だ!ということです(「代表無くして課税無し」)。しかも例えば当時、ニューヨークにはオランダ人、ドイツ人など多数の国から商人が 集結しており、10ヶ国語以上の言語が話されていたほどの国際都市でした。何故イギリスの言いなりになって税金を払う必要があるのか!と激怒したのです。
しかもですよ、皮肉にもイギリス本国が7年戦争でフランスを北アメリカから追い出したことにより、フランスによって自分たちの植民地が侵略される危険性は薄くなっていたのです。もう、イギリスなんかに頼る必要はないぜ!
そこで、暴動が起こります。
さらに、アメリカの商人達はイギリス製商品の輸入を停止する協定を結び、イギリス経済に打撃を与えます。
その結果、イギリス本国でも商人達が反対を始め、結局、2年後にこの印紙税法は撤回されました。しかし、イギリスとアメリカ側の対立はこれで収まるわけではありませんでした。また、砂糖税法はアメリカ独立革命まで存続します。
○ボストン茶会事件
1767年になると、イギリスは再びアメリカに関税をかける法律を成立させます。
提案者の財務大臣の名前をとって、タウンゼンド諸法と呼ばれる法律群で、紅茶、紙、鉛、塗料、ガラスなどに輸入関税をかけることにしたのです。当然のこと ながら、再びアメリカでは反対の声が上がり、イギリス製品不買運動が行われます。そこでイギリスは、反対の声が特に強かったボストンに軍を派遣。
1770年、イギリス軍はボストンの群衆に向かって発砲し、死傷者がでます。
いわゆるボストン虐殺と呼ばれる事件ですが、これによってさらに反イギリスの感情が高まります。そこでイギリスは茶以外には関税を撤廃しますが、時既に遅 し。抗議の声はどんどん大きくなっていきます。イギリスも、アメリカへ課税するぞ、という強い意思表示、及び、イギリスの東インド会社救済もあって、茶の 関税は撤廃しなかったのですが・・・。
これにアメリカ側は怒りがぐんぐん増加していき・・・。
1773年12月、いわゆるボストン茶会事件が発生。
ボストン市民は、サミュエル・アダムズを中心にアメリカ先住民(インディアン)に変装し、イギリスの東インド会社の船に乗り込みます。そして、この船が積 んでいた輸入のお茶の箱をボストン港に投げ捨てるという抗議行動に出ます。 そこでイギリスは港を封鎖するなど強圧的措置をとって報復にでるものですから、もう対立はヒートアップ!!
――止――
世界史講義録第76回北アメリカの植民地化 より
13植民地の暮らし
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13植民地の人々はどんな暮らしぶりだったのでしょうか。13植民地でベストセラーになった『貧しきリチャードの暦』を通して見てみたいと思います。『貧しきリチャードの暦』を出版したのはベンジャミン・フランクリン(1706〜1790)という人です。
フランクリンは名前を聞いたことがあると思う。現在のアメリカでも人気のある人です。いろいろな分野で活躍して名前を残しているのですが、かれの人生は、アメリカ人の理想像の典型です。
(中略=フランクリンの話はリンクサイト参照)
どこかで聞いたことのあるようなものばかりでしょ。フランクリンの「ことわざ」をずうっと読んでいくと、共通点がいくつか見えてきます。かれが繰り返し繰り返し訴えているのは、勤勉、節約、蓄財、です。働きなさい、無駄遣いはいけません、貯めなさい。まさしくカルヴァン派、ピューリタンの教えですね。言っていることは理解できます。理解できますが、現在の日本に住んでいる私たちにとってはピンとこないところもある。
たとえば、「早起きは人を健康に、金持ちに、賢くする」ということわざ。「早起きは三文の得」と翻訳されて、日本でも有名です。しかし、早起きすれば健康にはいいだろうけれど、金持ちになりますか。9時から仕事が始まるサラリーマンが朝の4時に起きて5時に会社についても、給料あがりません。まだ、シャッターは閉まっています。
しかし、13植民地の人々は、このことわざを読んで、なるほど、そうだ、早起きして金持ちになろうと、納得したに違いない。そうでなければ、『貧しきリチャードの暦』がベストセラーになるはずがないのです。
早起きしたら金持ちになる仕事ってなんですか。それを、実感できる仕事とは。
農業ですよ。植民地に渡ってきた人たちの多くは農業をしている。しかも、特別な環境だった。なぜなら、土地はいくらでもある。未開の荒野がいくらでも広がっているのです。早起きして、一坪でも開墾すれば、それが自分の農地となり、翌年の収穫増加につながる。働けば働くほど土地が手にはいるという環境だったのが、当時の13植民地なのです。そして、フランクリンは農民たちに、気を抜かずに頑張りや、と応援をしているというわけ。
NHKで何度も再放送されている『大草原の小さな家』、あのドラマにでてくるインガルス家のお父さん、あのイメージです。大きな農場を経営しているような農民ではなく、自分の力だけでやっている自営農民です。
頑張るのは、あくまでも自分です。「天は自ら助くるものを助く」。自助努力の精神とかフロンティア・スピリットとか、アメリカ人の精神的な柱のようなものがつくられてくるのです。
そして、頑張れと言っているフランクリン自身が、自分の才覚と努力で一文無しから大金持ちになっているわけで、アメリカンドリームを最初に実現した人だから、説得力がある。
フランクリンの言葉を紹介しておこう。
「ヨーロッパでは名門に価値があるが、…アメリカでは他人のことを『あの人はどういう身分か?』とは聞かないで、『あの人は何ができるか?』と聞くのである。その人に有用な技能があれば歓迎されるし、それをやってうまくできれば、彼を知る者から尊敬される。だが、ただ家柄がよいというだけの人が、そのためだけの理由で、何か官職か俸給を得て、社会に寄食しようとすれば、軽蔑され無視されるであろう」
――止――
アメリカンドリーム。アメリカ人の価値観は「尊敬すべき人は成功した人間=金持ち」。中世ではお金=必要悪のように思われていたが、近代では「金持ち=善」または「成功は神の加護の証」という価値観に変わった。オランダ・イギリスはこの価値観から資本主義を生み出したが、アメリカでは王族・貴族も伝統も存在しなかったので、努力→成功→財力が人間の価値を測るものさしとなった。
上記サイトより引用
最後にフランクリンと先住民との関係について。
さきほど、未開の荒野が無限に広がっていると言いましたが、その荒野には遙か昔から先住民が住んでいる。だから、自営農民たちにとってはアメリカン・インディアンは邪魔です。いなくなって欲しい存在。農民にエールを贈るフランクリンの立場も同じです。奴隷制度に反対していたフランクリンがインディアンに関してこんな言葉を残しています。
「ラム酒はインディアンを消してしまうために、神が我々にあたえたもうた」
白人たちが、インディアンから土地を奪うときによく使った手なのですが、ラム酒を持ってインディアンの村に挨拶に行く。一緒に食事をして、「飲め飲め」とラム酒をすすめる。ラム酒は強いお酒です。インディアンたちはそんな強い酒を飲んだことがないから、ぐでんぐでんに酔っぱらってしまう。前後不覚になったところで、土地の譲渡契約書に無理矢理サインをさせて、さっと引き上げる。
翌日になると、インディアンの土地に杭を打ち込んで囲い込みます。インディアンが抗議に来ると、契約書を見せて、お前はこの土地を俺に譲ると署名したんだ、とつっぱねる。合法性をよそおって、先住民から土地を奪うためのツールがラム酒だったのです。フランクリンはそのラム酒を讃えているというわけ。
この辺が、アメリカ史の複雑なところです。
――止――
聖書には「カナンは神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地」としてアブラハムの子孫は元々住んでいたカナン人他を虐殺した、と書いてある。移民たちにとってアメリカ大陸は「約束の土地」でネイティブアメリカンは「カナン人」なんだろう。
フランクリンの言っているようなことは、他人の土地を奪うことに対する罪悪感を振り払い正当化するためのレトリックにすぎない。
南北アメリカはヨーロッパ諸国に植民地化されていく。まずは中南米で金銀が採掘され、その後、プランテーションが行われた。酷使などでほぼ激減した先住民の代用としてアフリカ人を奴隷として使用した。
先住民の激減の理由は酷使だけではなかったらしい。
Wikipedia ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化 より
疫病の蔓延と人口減少 [編集]
16世紀のヨーロッパ人やアジア人は既に、牛、豚、羊、山羊、馬および様々な家禽といった家畜を飼い、住まいもそれらと近接しているという状態が長く続いていたが、アメリカ大陸ではそうではなかった。1492年以降ヨーロッパ人が大挙してアメリカ大陸に押し寄せ、先住民族と接触するにつれて、先住民が経験したことのない、従って免疫性のない病原菌を持ち込むことになった。天然痘(1518年、1521年、1525年、1558年、1589年)、チフス(1546年)、インフルエンザ(1558年)、ジフテリア(1614年)、およびはしか(1618年)といった疫病の大流行があり[1][2]、先住民族人口のうち、1千万人ないし1億1200万人[3]、95%ないし98%は減少したと考えられている[4][5][6]。この人口の減少に続いて文化的な混乱と政治的な崩壊が起こり、ヨーロッパ人による既存文明の征服と土地の植民地化が容易になったとされている[7]。
――止――
さて、本題。
Wikipedia アメリカ合衆国の歴史より
現在のアメリカ合衆国における植民地活動としての「開発」は、当初から多民族国家となる運命を辿るかの様に行なわれた。ヴゼジニアやカロライナにはイギリス人(ニューイングランド)が、ルイジアナにはフランス人が(フレンチルイジアナ)植民地を築くなど、この「開発」は主にイギリス人とフランス人2つの民族によって行われた。しかし、それだけではなくニューヨークやニュージャージーにはオランダ人(ニューネーデルラント)が、デラウェアにはスウェーデン人(ニュースウェーデン)が、フロリダにはスペイン人(ヌエバ・エスパーニャ)が、それぞれ思い思いに今日のアメリカ合衆国の範囲に植民地を築いた。アメリカ東部には、すでに17世紀半ばに現在のアメリカ文化に繋がる欧米文化が移植されていたのである。
宗教的に見ても、当初の移民はカトリックであったが、16世紀に欧州でプロテスタント(新教徒)出現と宗教改革、続いて宗教戦争が起こると、ピューリタン(清教徒)による1620年の移民(メイフラワー号)をきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次いで入植した。彼らは先発のカトリックやインディアンと敵対しながら勢力を伸ばし、1620年の移民は現在でもアメリカの新教徒の間で偉業として称えられている。しかし、インディアンたちからは民族虐殺の始まりとして「ピルグリム・フゼザーズの感謝祭」には、大規模な抗議が行われている。
西欧人は植民地で砂糖、コーヒー、綿花、タバコなどの農作物を農園で作り出したが、労働者の不足に悩まされた。西欧人はインディアンを奴隷化し、またこれと同じ時期にアフリカ大陸の大西洋沿岸にも進出し、現地のアフリカ諸部族の黒人有力者から黒人を買い取り、南北アメリカ大陸に輸出した(奴隷貿易)。それと交換に進んだ火器や、当時進出していたインド産の木綿をアフリカ諸国の黒人有力者に売った。ただ、誤解が多くあるが、植民地時代の奴隷需要はカリブ海地域および中南米が圧倒的であり、北米への奴隷輸出は多くない。18世紀はもっぱらサウスカロライナ州を中心に、インディアン奴隷の売買が盛んであった。奴隷制度によって維持されるアメリカ南部の広大なプランテーション農業が盛んになったのは、19世紀に入ってからである。
(参考:黒人奴隷クンタの20年間 =「世界商品」の生産と黒人奴隷制度=)
17世紀から18世紀にかけて、英仏がヨーロッパにおいて戦争をするたびに、英国からの植民団が建設したニューイングランド植民地と、フランスからの植民団が建設したカナダとが対立し、植民地でも戦争が起こった。この一連の北米植民地戦争は1700年のスペイン継承戦争によって端を発し、七年戦争・フレンチ・インディアン戦争によって英国が勝利する1763年まで続き、この戦争中に英国は執とフランス・スペインの植民地を獲得、また南部に広がるスペイン植民地への奴隷専売権を得た。こうして英国は北米大陸の大西洋沿岸をほぼ全て手中に収め、イギリス海上帝国、つまり大英帝国の礎を築き上げた。インディアンたちは英仏どちらにつくかを選択させられ、代理戦争を引き受けさせられた。そしてどちらが勝っても彼らの領土は没収され、部族は散り散りにさせられた。
北米東海岸を一手に握った英国は、先住民インディアンを駆逐して領土を西へ拡大した。この段階で13州の植民地を建設し、州によっては白人の人口がインディアンを上回る地域が生まれた。
――止――
再び、Wikipedia ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化 より
経済的移民
アメリカ大陸にやってきた移民の多くは経済的理由によるものであった。16世紀にスペインがアステカ、インカなど他の大きな先住民族を征服し、その上に立って植民地から富を得たことに刺激され、最初にアメリカに入ったイギリス人はジェームズタウンの植民地を作ったとき、同じように富が得られるものと期待していた。植民地に入った者達は新天地の経済的可能性を理解した富裕なイギリス人から資本を集めたバージニア勅許会社のような株式会社の支援を得ていた。この植民地の主目的は金脈を発見したり、アメリカ大陸を貫く東インドへの海路を見付けることであった。ジョン・スミスのような強力な指導者を得て、ジェームズタウンの開拓者達には金脈の探索よりも目の前にある食料や住居の確保というニーズが優先すると説得し、「働かざる者食うべからず」という名言を残した(これは新約聖書の欽定訳聖書からの引用であった)。高い死亡率で悲惨な状況となり、開拓者の間に絶望感を引き起こした。間もなくタバコが輸出できる換金作物となり、バージニアや近くのメリーランドのような植民地を経済的に独り立ちさせることとなった。
1587年のバージニア入植の当初から1680年代まで、労働力の大半は海外植民地での新生活を求めてきた年季奉公の移民に掛かっており、人口の大半も占めていた。17世紀の間にチェサピーク湾地域ではヨーロッパ人移民の4分の3は年季奉公人であった。年季奉公人の多くは、家畜の飼育の拡大、土地の囲い込みおよび田園地帯での過剰人口のためにそれまでの土地から押し出されたイギリスの農夫であった。この不幸な事態の展開で数多くの、特に独身男性がイギリスを離れた。しかし、アメリカの土地所有者は労働者を求めており、渡航者が数年間働いてくれるのであれば、喜んでアメリカまでの渡航費を払ってくれるという期待があった。渡航費の代価として7年間の労働を売ることで、アメリカで自分の土地を手に入れることが期待できた。
フランスの植民地では、経済の焦点は先住民族との皮革交易であった。農業は生活に必要な分に留まり、グランドバンクのタラなどの魚類はフランスなどヨーロッパ諸国に輸出できて主要な収入源となった。毛皮交易は北アメリカの北西部海岸でもロシア人によって行われた(アラスカを支配した露米会社など)。フレンチ・インディアン戦争の後、イギリスは実質的に北アメリカのフランス領を占領し、フランスにはサンピエール島・ミクロン島のみを残すことになった。
宗教的移民
新世界に移民した集団の中ではローマ・カトリック教徒がまず大きなものとなった。ポルトガルやスペイン(後にはフランス)の植民地に渡るものはカトリック信仰の継続を求められた。一方、イギリスやオランダの植民地の場合は、宗教的に多様化する傾向があった。英国国教会、オランダのカルヴァン主義、イギリスのピューリタン、同じくイギリスのカトリック、スコットランドの長老派教会、フランスのユグノー、ドイツやスウェーデンのルーテル教会派、クエーカー、メノナイト、アーミッシュ、モラビア派およびユダヤ教であった。
開拓者の多くの集団は宗教的迫害のない信仰の権利を求めてアメリカ大陸にやってきた。16世紀の宗教改革は西ヨーロッパのキリスト教による一体感を破壊し、非常に多くの新しい宗派を作ることになったので、政府当局から迫害を受けることがあった。イギリスでは 16世紀の終わりまでに国教会の体制に疑問を投げ掛ける人が増えた。その中でも顕著な運動となったのがピューリタン運動であり、聖書には記述されていないと信じるカトリックの習慣が残っていることについて、国教会の「浄化」を求めた。
イングランド王チャールズ1世は国王の神権を強く信じており、非国教徒を迫害した。抑圧されたピューリタンがおよそ2万人という数字になって1629年から1642年の間にニューイングランドに渡り、幾つかの植民地を築いた。17世紀の後半、新しくペンシルベニア植民地がウィリアム・ペンに与えられたが、これは国王がペンの父親に借金をしていたことの代償であった。1682年頃ペンによって植民地政府が作られ、迫害されたイギリスのクエーカー教徒の逃避場となったが、他の宗派の者も迎えられた。バプテスト、クエーカーおよびドイツやスウェーデンのプロテスタントがペンシルベニア植民地に集まった。
土地が安いこと、信教の自由、さらに自分の手で生活を改善できるという魅力があり、迫害や貧窮から逃れたいという人々を惹き付けた。アメリカでは、これらの人々が共同して平和を保っていく道を作ったのでアメリカ独立戦争までのおよそ150年間は抗争の少ない時代が続いた。
強制移民
ヨーロッパ諸国の移民が現れる前にも奴隷制は存在していた。先住民族は他の種族を戦争で捕虜として捕らえ、奴隷化していた。これら捕虜の中には、例えばアステカのような種族では人身御供とされる場合もあった。スペインはカリブ海で現地の住民を奴隷化した。
疫病や強制労働および無作為な殺人によって先住民人口が減少するに連れて、大規模な奴隷貿易によって輸入されるアフリカ人に置き換えられていった。18世紀までに、黒人奴隷の数が圧倒的になり、先住民の奴隷はほとんど見られなくなった。奴隷船でアメリカ大陸に送られたアフリカ人は、その故郷の海岸に住む種族が捕まえて売り払った者達が多かった。アフリカではヨーロッパ人が疫病に罹患する確率が高かったので、奴隷を捕まえる役割は現地の種族に限定された。奴隷貿易の代価はラム酒、銃および弾薬が大きなものだった。1810年頃までに30万ないし40万人の黒人奴隷がチャールストンやニューポートの港に届けられた。カリブ海の諸島、ブラジル、メキシコおよびアメリカ合衆国に輸入された奴隷の総数は1千万人ないし2千8百万人と見積もられている[13]。特にイギリス領の13植民地では、アフリカ人奴隷に加えて貧しいヨーロッパ人が年季奉公として多く連れてこられた[14]。
――止――
世界史ノートより
1イギリスの植民地政策
イギリスは、17世紀初頭、北アメリカ東岸に最初の永続的な植民地であるヴゼジニア植民地を建設し(1607)、18世紀前半までに 13の植民地を設立した。イギリスの13植民地は、信仰の自由や政治的な自由を求めて新大陸に移住した人々や貿易・開拓の利益を求めて移住した人々によっ て設立された。
1620年にピルグリム=フゼザーズ(巡礼始祖、メイフラワー号で移住した102名のピューリタンの一派の人々)によって設立されたプ リマス植民地(1691年にマサチュセッツ植民地に併合)は信仰の自由を求めて新大陸に移住したピューリタンによって設立された植民地である。マサチュ セッツ植民地も1629年にピューリタンによって建設された。
メリーランド植民地(1634年設立)は、ボルティモア卿が国王から特許状を得て、カトリック教徒の植民地として設立された。またペンシ ルヴェニア植民地(1681年設立)は、ウィリアム=ペンによってクウェーカー教徒(17世紀中頃に創設されたプロテスタントの一派、徹底した平和愛好団 体で戦争に反対し絶対に武器をとらない)のために建設された。その他、ニューヨークはイギリスがオランダからニューアムステルダムを奪取して設立された (1664)植民地であり、13植民地の最も遅れて最南部に建設されたジョージア植民地は本国の債務・貧困者救済のために建設された(1733)植民地で ある。
このようにして、17世紀初頭から18世紀前半までの約130年間に北アメリカ東岸に13植民地が建設されたが、その地域は亜熱帯から亜 寒帯に広がっていたので地域によって経済的には大きな差があった。南部では、主に黒人奴隷を使ってたばこ・米・藍などを栽培するプランテーションが盛んで あったのに対し、北部では海運・造船・農業・漁業が盛んであった。
各植民地は、本国の議会制度にならって植民地議会を設けるなど(最初の植民地議会は1619年にヴゼジニア植民地で設立された)自治の 制度を発達させていた。またイギリスからの移住者の多くが中産階級の人々で、13植民地では早くから出版・新聞の発行(1704)・大学の設立(ハー ヴゼド大学は1636年に、イェール大学は1701年に設立された)が行われたことも重要な特色であった。
――止――
南米に比べて、奴隷人口が少なく、イギリスで職を失った人々の年季奉公が大半を占めた。それでも南米に比べて比較的知的な中流階級が多く流入したため、南米とは毛色の違った植民地が出来上がった。
●12月9日(金)13−00内幸町<ワーナー・ブラザース映画試写室>
M−153『J・エドガー』J Edgar / warner brothers / malpaso
監督/クリント・イーストウッド主演/レオナルド・デカプリオ<137分>★★★☆☆☆
アメリカ近代史を支えたFBIの創設者J・エドガー・フーバーの人生を回想する大作だ。
大不況や大戦の陰で、凶悪犯罪が多発する1920年代以降、特に共産主義や外国人による凶悪犯罪、テロを防ぐため政府に特別組織を設置。
司法省や警察とは別の科学捜査班がフーバーによって開設された。
ジミー・キャグニーの「Gメン」やジェームズ・スチュワートの「連邦警思など、FBIの活躍を描く映画は多いが、ここで真打ちの登場だ。
イーストウッド監督は、とくに自身の人生とダブらせて、強行にアメリカを外敵から守ろうとした男の真相に迫る。
マザコンの一人っ子で、ゲイの傾向もあったエドガーは、極端に思想犯を嫌った。
その強引な捜査手法は、政府や警察までもが煙たかったし、8人の歴代大統領も、ある距離は置いていた。
とくにロバート・ケネディ司法長官との軋轢のシーンは面白い。
回想録を記者に語るという手法で、ときどき時代は前後するが、リンドバーグの息子誘拐事件の捜査が軸になっている。
過去の「ミスティック・リバー」や「チェンジリング」で見せたように、イーストウッドの追求は明快だ。
とくにフーバーをヒーローとして描くのでもなく、ひとりの孤独な老人の末期として淡々と見つめる。枯れた味がいい。
ディカプリオは青年時代から末期の老人までを演じ分けて、とくにメイクよりも、歩行の衰えに気を使っている。
おそらく、またも、多くのアカデミー賞にノミネートされるだろうが、彼には受賞して欲しい。
イーストウッドとしては、過去にも秀作が多いので、とくに傑出していないが、リズムは相変わらず澱みがない。
自身のピアノ主体の音楽もいい。「レッドセイルズ・イン・ザ・サンセット」の選曲も抜群。嬉しい時間だった。
■右中間を深々に抜けるクリーンヒットの、悠々のツーベース。
●1月28日より、全国ロードショー