美術の学芸ノート

東西近代美術の関連。中村彝、小川芋銭の美術。真贋問題。他、呟きとメモ。

中村彝の書簡から見た相馬俊子との恋愛(3)

2016-03-23 19:36:08 | 中村彝
大正3年3月20日から7月31日まで開かれた東京大正博覧会に彝は俊子をモデルにした裸体の「少女」と画面左下にフランス語で1911年1月15日の年記がある3年前に描いた「静物」を出品した。

前者は今日愛知県美術館蔵の作品で少女裸像と呼ばれている。上半身が裸の裸像でこの作品がかなり長い期間公開された。

16歳のミッション・スクールの生徒が裸体のモデルになっていたことで、女性校長が憤慨し、撤去を要求して受け入れられなかったらしいが、この問題に芸術に理解のあるはずの黒光はどう考えたのだろうか。

彝は公開された俊子の半身裸像をこれ1点のみならず、他にもいくつか描いているから、黒光も事前に彝がそうした作品を描いていたことはある程度承知していたと思われるが、詳細は分からない。

相馬黒光は、彝の新宿時代を「懐疑暗黒の時代」と呼んで、彝に(1)いつも「静座に対する反感と懐疑」、(2)「私の家族と他の人との関係から生ずる嫉妬」、(3)「疾病と恐怖、不安」などが見られ、「次から次へと息をつく間もなかった」としている。彝は「肉体的にも精神的にも弱者の立場にいる人」で、「悪魔の慣用的好責道具」に苛まれていたと見ているようだ。

さらに黒光は(1)については静座の師である岡田虎二郎に対する矛盾した彝の態度、(2)については俊子をめぐる早稲田の助教授桂井当之助や、碌山の従弟で商船学校の三原林一との争いなどについて語っている。

そして黒光は彝から言われた辛辣な言葉も隠そうとしないでこう書くのである。

「一体お母さんはいつでも物欲しそうな顔をしているのが嫌いだ。」
是程深刻直截に私の内面を表現しうる語はない。グイと私の心臓を抉るのである。又こうも言って私をいぢめた。
「お母さんは残忍性を持つ人だ。餌を見せびらかして人を釣り寄せる。俺のような馬鹿な奴は終ウカと乗って接近しようとする。モー駄目サ。埒が設けてあって、夫れより奥へは一歩も足を踏み入らせない。「お前たちの這入る場所ではないよ」と冷然としている。


黒光の言う彝の「新宿時代」は、残された彝の書簡も乏しい。上記も相馬黒光「新宿時代の彝さん」に拠るものである。だが、すでに俊子の裸体画が公開された後に書いている彝の手紙も全くないわけではない。

大正3年9月とされる俊子宛ての絵葉書は上諏訪鷺之湯から書いたものだが、そこには特に心理的に葛藤のあるような文面は見られない。

しかし、同年9月27日には相馬愛蔵、黒光宛の絵葉書に、秋になって寂しくなった心境を風景に重ね合わせるかのごとく短く綴っているのが気になる。

そこには<絶望、冷淡な顔、空虚、死のような冷たさ、堪えられない不安>などの言葉がやや執拗に現れているからだ。








コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3月22日(火)のつぶやき | トップ | 3月23日(水)のつぶやき »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。