気ままな旅


自分好みの歩みと共に・・

いまでは懐かしい失敗談

2015-06-22 23:20:44 | エッセイ

  外は、不順な雨が降っている。 雨戸越にタイヤが水を撥ねる音が時折り通り過ぎて行く。ふと、明けはいつかなと思った。

 この頃、PCから昔の懐かしい歌を聴くことを覚え耳にイヤホーンを付けて夜更かしをするようになった。

 始まりは山の歌からであった。 歌声喫茶時代の老人は懐かしんだ。 生粋の山を登る山男でなくとも、山の高原で大きな焚火を囲みホークダンスに興じた青春があった。 仕事で担当した全国帯ラジオ番組もフォークソングが中心だった。 都市対抗試合を応援する前にも試合よりまず、歌声喫茶で合唱した。 こうして、楽しかった時代を想い越し、夜更かしをしている。

 この頃はひとりで聴くせいか、昔の想い出が去来するから不思議なものだ。こんなことがあった。

 1.発表展示会で札幌に出張した折、宿泊した旅館で暴飲暴食をした。 翌朝、胃が痛む。 暴食すると盲腸になると言う話を聞いていたので、医師を呼んで貰い「盲腸ですか。帰れますか」と、問うた。昭和35年の夏に起きた事件であった。

 千歳空港にタクシーで介添えを伴い急いだ。 だが、当時は羽田空港まで3時間のフライトだった。 しかも、搭乗許可は機長の権限だった。 真夏の空港で、搭乗許可が得られるまでクーラーもない応接室で氷で患部を冷やし続け、ひたすら待った。 

 本社と電話連絡をしながら、手術をしたか否かで大騒ぎになる。 当時の電話の繫がりは市外申込みで繋げる原始的な時代。 やっと、許可が下りた。米国人機長だった。 日本人機長は危険を避けた。 空港に夕闇が迫っていた。 ひとりスチューワデスに介護され人生初のフライトがこれでは情けない限りだ。 真っ暗になった羽田空港に無事に降り立った。 そして破れなかった盲腸に感謝した。

 それから数年後には、こんなこともあった。

 2.これも真夏の旧盆の時期に九州博多で会議を招集した。 中四国九州ブロックだ。 当時、東京から名古屋まで夜汽車で出張する時代。 帰省客で切符がない。 招集元が会議に間に合わないばかりか、行けないかも知れない事件が起きた。 

 担当の3人がともかく東京駅に顔を揃えた。 先輩の一人は手回し良く寝台列車を確保していた。 残り二人はまず、会議書類が入った荷物をそこに預け、車掌と交渉を始めたが徒労に終わった。このままだと寝台列車なので乗れない。 だが、行かない訳にはいかない。 空ベットに潜り込んだ。 列車は無事に東京駅を出発した。 ふたりして、良く考えると無賃乗車だ。 そ時は夢中だったので気が付いていない。 名古屋を過ぎた頃に車掌に見つかり、荷物を取りに先輩のベットに走った。 「知らないと言うのですよ・・」「連絡は後程にします」と叫び、ホームに降りるなり、目の前の鈍行の普通列車に飛び乗った。 満員で連結に何とか乗れた。 行く先はまだまだ遠い。 ここで幸いにも車掌が来て乗り越しの切符を切っていた。 ここで東京からの乗り越しの切符を買い求めた。 車掌は一時戸惑ったようだ。 もう、無賃乗車ではない。 ただ、各駅停車列車だから遅々と進まない。 夜が明けかかって来た。 会議開始は確か9時だったと思う。 時間がない。 ふたりして大阪駅で降り、伊丹空港から飛行機で博多へ飛ぶことに決めた。 作戦成功でキャンセル待ちが一枚でた。どちらが当たろうが、乗車順序は仕事の上から私が行く事に決めていた。 当りの名前は彼。 返事は「はい」と私が答えた。 

 その頃、本社では大騒ぎ。 課長が「こちらを間違いなく立った。 今何処にいるかも不明。 時間に着くか否かも全く不明」と、無責任とも取れる発言をした。  だが、事実はその通りだ。  

 私の乗った飛行機は寝台列車を抜き、私だけが9時前に会議室に着いた。 だが、誰もいない。 午後に会議は繰り下げられていた。 残りふたりも無事に着いた。 

 この時、一睡もしてなくて、顔を洗いに洗面所に行った。 当時は水不足が大きな社会問題になっていた。 張り紙にこう書いてあった。

  「断水ですから 節水に 協力してください」

と、ビル管理会社のお願いがあった。

(断水なら、節水しようがないのに・・・と、ひとり、八つ当たりをした。)  

 またもや、気を付けなければならない事が起きた。

 3.それは、青森県の朝虫温泉で帰りの寝台を手配をした時のことである。

昭和38年頃の確認を怠った失敗談の話です。でも、悪いと言う認識が何故か低い。

 青森県の弘前から海岸線を走り浅虫温泉を抜けて岩手県の盛岡まで地元の販社に送って貰いながら、自分の確認の甘さで酷い目にあった失敗談です。

 東京に帰るのに盛岡駅発が夜中になる。 予約するために、浅虫温泉駅に寄った。 

 「9月21日の23時40分発の三等寝台を一枚、上野まで・・」

と、小さな窓口に向かい駅員に声を掛けた。 暫くすると、強い訛りのある声で

   「満席です。どうしますか」 

と、問い返してきた。

  「では、次の寝台は取れますか」

と、聞いた。 取れないとは予想もしてなかったので、時間までは調べていなく、次の・・で省略をした言い方をした。 

  「これなら下段の寝台が取れます」

と、言いながら小さな切符を呉れた。 見もせずに旅行かばんに切符をしまった。 

 発行された切符は申告の9月21日の同日付で発行されたので、一日前の切符になってしまった。 0時を過ぎた時刻は翌日の22日付に変わらなければならない。

 乗車した車掌と言い争いを夜中に寝静まった車内ではできず払わされてしまった。 確か被害額は900円だった記憶がする。

 何で、こんな記憶の隅に追いやられいる筈のことが思いも掛けずに覚睡されるとは思わなかった。 でも、何が出て来るか、楽しみでもある。

 イヤーホーンを耳に・・。 何かを期待して。

終わり 

 

 



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1 コメント

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三等寝台車 (すけつね)
2015-06-23 10:19:13
懐かしい言葉ですね。
二等車、三等車も死語になりました。

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