Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2017年 4月~5月の聖伝のミサの予定

【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


4月の意向:聖なる復活節を過ごす
実践すべき徳:天主を愛するために苦難を甘んじ受ける
守護の聖人:悲しみの聖母マリア

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2017年 4月~5月の予定

【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

フォルティン神父様が「休暇」を取られ、飛行機の乗り換えの都合で、大阪に立ち寄ることになりました。
    4月24日(月)午後6時:ミサ聖祭 ←追加
    4月25日(火)午後6時:ミサ聖祭 ←追加
    4月26日(水)朝6時:ミサ聖祭 ←追加

    5月5日(初金) 証聖者教皇聖ピオ5世(3級祝日)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

    5月6日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
            午前8時 ミサ聖祭
            午前10時半 ミサ聖祭

    5月14日(主) 復活後第4主日(2級)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

    5月15日(月) 証聖者聖ヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サール(3級祝日)白
            午前6時半 ミサ聖祭

    【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

    5月7日(主) 復活後第3主日(2級)白
            午前8時 ミサ聖祭
            午前10時半 ミサ聖祭

    5月8日(月) 平日(4級)白
            午前7時 ミサ聖祭
            午前7時45分 ミサ聖祭

    
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

◎アジア管区では、これからロザリオの時に「主よ、われらに司祭を与え給え 云々」の最後に、次の呼祷を付け加えることになりました。宜しくお願い致します。

「主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え。」
"O Lord, grant us many holy families".

◎多くの祈りと犠牲を聖母の汚れなき御心への信心の実践として捧げて下さい。
【聖ピオ十世会 ロザリオの十字軍】
2016年8月15日~2017年8月22日
聖ピオ十世会 ロザリオの十字軍についてのお招き ←こちらをクリックしてください

 
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マテオによる聖福音の日本語の朗読録音ファイルのご紹介

2017年04月29日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

改めて私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

今回は、マテオによる聖福音の日本語の朗読録音ファイルをご紹介いたします。これは愛する兄弟姉妹の皆様のしもべが約十年ほど前に新約聖書を全て朗読して録音した時のものです。

もしも好評であれば、準備ができ次第、愛する兄弟姉妹の皆様に新約聖書の録音ファイルを、さらにご紹介していきたいと思っています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


マテオによる聖福音の朗読


マテオによる聖福音 第一章
マテオによる聖福音 第二章
マテオによる聖福音 第三章
マテオによる聖福音 第四章
マテオによる聖福音 第五章
マテオによる聖福音 第六章
マテオによる聖福音 第七章
マテオによる聖福音 第八章
マテオによる聖福音 第九章
マテオによる聖福音 第一〇章
マテオによる聖福音 第一一章
マテオによる聖福音 第一二章
マテオによる聖福音 第一三章
マテオによる聖福音 第一四章
マテオによる聖福音 第一五章
マテオによる聖福音 第一六章
マテオによる聖福音 第一七章
マテオによる聖福音 第一八章
マテオによる聖福音 第一九章
マテオによる聖福音 第二〇章
マテオによる聖福音 第二一章
マテオによる聖福音 第二二章
マテオによる聖福音 第二三章
マテオによる聖福音 第二四章
マテオによる聖福音 第二五章
マテオによる聖福音 第二六章
マテオによる聖福音 第二七章
マテオによる聖福音 第二八章

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復活祭に、なぜ私たちはこんなに喜んでいるのか、この喜びの動機は、その理由は何か?

2017年04月28日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年4月16日(主)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2017年4月16日(主日) 復活祭のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年4月16日、私たちの主イエズス・キリストの復活の主日、大祝日をお祝いしています。

今日このミサでは、特別の祝日ですので、序誦はより荘厳の序誦を歌いたいと思っています。

今日、御聖体拝領の後の感謝の祈りの後に、いつもの終課のお祈りをします。もしも時間がある方は終課を一緒に歌っていって下さい。

明日は朝の6時30分から復活の月曜日のミサがあります。

来月は秋田の巡礼の直後、初金・初土にここでミサがあります。シュテーリン神父様と一緒に参ります。



「お前たちが探している、十字架に付けられたキリストは復活した。もはやここにはいない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は私たちの主イエズス様の、イエズス・キリストの御復活の大祝日で、教会は喜びに満たされています。1年の中で復活祭ほど喜びに、荘厳な喜びに満ちた日はありません。

ではこの復活祭に、一体なぜ私たちはこんなに喜んでいるのか、この喜びの動機は、その理由は何なのかを黙想する事に致しましょう。

この喜びの動機を黙想した後に、では一体私たちはこれからどんな遷善の決心を立てるべきか、これからどうやって、今日の復活祭の後からはどうやって生活していかなければならないか、本当の喜びを生き続ける為にどうしなければならないのかを黙想する事にしましょう。

第1の点は、私たちの喜びの動機です。

教会は既に、お告げの祈りをアレルヤの祈りに変えました、「天の元后喜び給え、アレルヤ。」今まで歌われていなかった、「主に讃美」という“アレルヤ”という言葉も使い出しました。そしてこの喜びに満ちたミサを捧げています。今までは紫の覆いで被されていた栄光の十字架も、聖金曜日に荘厳に取ったばかりでなく、教会は、聖金曜日のあの苦しみから一転して、喜びと栄光に満ちたミサを捧げています。

一体何故なのでしょうか?

何故ならば、イエズス・キリストは、十字架に付けられた私たちが探しているイエズス・キリストは、本当に復活したからです。これは疑いのない歴史的な事実です、真理です。

何故そういう事が言えるのでしょうか?

イエズス・キリスト様はまず鞭打たれました。聖金曜日に大量の血を流して、残酷な拷問を受けました。もしもイエズス様が普通の人だったら、たとえ体力があった男だったとしても、もうそこで、十字架に付けられる前に鞭打たれただけで力尽くし、息絶えだえにしてもう息を引き取っていた事に違いありません。しかしイエズス様は天主の力を以て十字架を、重い十字架を担ぎました。茨の冠を被せられながら、傷だらけの体で、血をボタボタと垂らしながら歩みました。何も食べていませんでした。力はほとんど尽きていました。何度も十字架の重さに耐えずして倒れてしまいました。脳震盪を起こしていたかもしれません。しかしイエズス様は十字架を担い、カルワリオの上に磔にされました、釘付けにされました。3時間に渡る十字架での飢え、渇きと、苦しみと、痛みの中に、イエズス様は遂に息を引き取りました。

普通の人でしたら、その前にとっくに体力を尽くしてしまって死んでいた事でしょう。イエズス様はその最後の最後まで、その苦しみを耐え忍びました。それは聖書が全て成就する為でした。イエズス様の、天主の子羊の骨は1本も折られませんでした。

このように、イエズス様が確かに亡くなったという事は、ローマの兵士が確認しています。心臓が槍で貫かれました。心臓がパカリと開いて、そこから水と血が出ました。もはや死亡したという事です。そして母親が見ている前で、母親がそのイエズス様の亡骸を抱いて、確かに亡くなったという事を確認します。そして墓に葬られました。

これ以後、普通の人でしたらガバリと起き上がって歩き出す事はありません。イエズス様は新しい墓に葬られて、大きな石をその蓋に付けられました。一人ではとても動かす事ができない物でした。

イエズス様だけではありません。ユダヤの最高の当局が、イエズス様の墓を守る為に最高の警備を行っていました。ローマの兵士を付けていました。その当時は、ユダヤの宗教の最高の権威もそれを警戒していました。

過ぎ越しの夜というのは満月の夜で、一年の内に一番夜が明るい日でした。その日に誰も、密かに何かを仕業をするという事は一切できません。しかもイエズス様が十字架に付けられて亡くなったその夕方、ユダヤ人たちは過ぎ越しの子羊を屠り、そしてその安息日に入る為に全ての仕事を終えていました。イエズス様の葬りさえも完壁にする事もできなかったほどでした。全ては早々と進められて、そして安息日、聖土曜日には誰も動かずにひっそりとしていました。

弟子たちはといえば、「もはやこれで師を、指導者を失った。あれほど力がある方だったのに。しかしもうこれで万事休すだ。こんな事があってはもう何もできない。」散り散りばらばらになり、そして使徒たちはイエズス様を捨てて、隠れて、ひっそりとがっくりとして恐れおののいていました。

「イエズス様は必ず復活するだろう」と「必ず復活する」と確信していたのはただ唯一、マリア様だけでした。この女性一人で一体何ができたでしょうか。しかしマリア様は、イエズス様が復活する事を知り、それを信じていました。

他の人は、全世界は暗闇の中にいました。イエズス・キリストの復活などを思う人も考える人もいませんでした。「全てはこれで終わった。もうイエズス・キリストというのはこれでもう亡き者となった。」ユダヤ当局もローマ当局も、そして民衆も、皆そう信じ込んでいました。

その時に、イエズス・キリスト様は御自分の力で、御一人で、天主の力を以て、墓を砕きよみがえり、そしてまず御母マリア様の元に現われました、「確かに復活した。」

今日復活の主日、1週間の最初のこの朝まだきに、婦人たちがイエズス様にまだし残してしまった葬りの、その香油を没薬を何とかしようと墓に行ったときに、墓は空っぽでした。ローマ兵もいませんでした。

天使を見ました。「イエズス・キリストは、お前たちが今探しているイエズス・キリスト、十字架に付けれたイエズス・キリストは復活した。もうここにはいない。さぁ行け、弟子たちに告げなさい。」

イエズス・キリスト様は真に復活したが為に、そしてそれを見たが為に、弟子たちは信じました。その反対ではありません。イエズス様が復活するだろうと思っていたから、その信仰があったからそういうふうに誤解したのではありません。事実は全くその反対です。

イエズス様が復活したのを見たので、その手に触ったので、イエズス様に、復活したイエズス様に食べ物を与えてそれを食べるの見たので、何度も、復活されてその事実を確認したので、あれほど信じなかった弟子たちも、あれほど無信仰だった逃げていた弟子たちも、力を持って勇気を持って、「確かに、イエズス・キリストこそ真の天主だ」と信じたのでした。

本当ならばユダヤ当局もローマ当局も、「これでイエズス・キリストの話は一切終わりだ」と思ったその瞬間、歴史が全く逆の方に動いたのでした。イエズス・キリストこそが歴史の中心になったのです。

つまりこの世は2つに分かれるという事です。イエズス・キリストが真に復活して、本当の天主であり、この世の創り主であり、真の救世主であるという事実を認めるか、或いはあくまでも拒否するか、この2つに分かれてしまったのです。

拒否しようとしている人たちは、何とかしてそれを無きものにしようとして最大の力を尽くしますが、まさにそのイエズス・キリストを亡き者としようとして、しようとすればするほど、イエズス・キリストが真の天主であったという証拠になってしまったのです。

悪意がそれが大きければ大きいほど、それが却ってイエズス・キリストが真の天主であるという事を証拠立てる、もう疑い得ないしるしとなってしまいました。ローマ兵士にしても、槍で貫かれた事にしても、鞭打ちにしても、全てがそうです。イエズス・キリストを亡き者に、反対した者が却って、イエズス・キリストの利益となったという事です。

遂には全世界は、「イエズス・キリストこそが真の救い主である。」ローマ帝国の回心、或いはヨーロッパの回心が続きました。

イエズス様のこの真の信仰は、私たちの心にも伝わりました。愛する兄弟の皆さん、私たちが求めているイエズス・キリストは、十字架に付けられたイエズス・キリストは、今日、今朝、本当に復活しました。これは歴史の事実です。誰もこれを否定する事ができません。否定しようとすれば否定しようとするほど、ますますそれが本当であると証明されてしまうからです。

ですから私たちの喜びと、私たちの幸せと、私たちの今のこの喜び踊りたいというこの歓喜は、真実に基づいていると言わなければなりません。

この世の中では色々な喜びありますが、多くは薄っぺらい約束や、或いは儚い一時的な喜びに過ぎません。しかし教会が私たちに伝えようとする喜びは、本当の喜びであって、決して消え失うせる事ができない、永遠に続く、無限の終わりのない、限りのない喜びを私たちに伝えようとしています。

十字架の、聖金曜日のあのイエズス様の辱しめ、苦しみ、痛み、死刑は、今や無限の喜びと、歓喜と、幸せに変わりました。永遠の命によって、死の苦しみと、辱しめと、痛み、悲しみは飲み込まれてしまいました。

教会はですから、「この1年の中に、この復活祭こそ最も荘厳に、最も喜びを込めて祝おう」と私たちに招いています。

特に今回皆さんに黙想を提案したいのは、「イエズス様に反対しよう」と悪意を持っていたとしても、全世界がそれを、イエズス・キリストに反対していたとしても、「イエズス様にとって全く何の影響も及ぼさない」という事です。

2017年4月16日の日本に住む私たちにとって全く同じです。私たちの周囲は、イエズス・キリストの無い平和、イエズス・キリストの無い社会、イエズス・キリストの無い喜び、イエズス・キリストを排除した世界を作ろうとしているかもしれません。イエズス・キリストを私たちの中からなるべく取り除こうと、殺させてしまおうと思っているかもしれません。その為にマスメディアはイエズス・キリストの無い話しをたくさんします。映画もそうです。或いは学校でもそうかもしれません。或いは政府もそうかもしれません。或いは国際社会がそうかもしれません。しかしイエズス・キリストは、たとえ全世界がイエズス様の復活を否定したとしても、最後には勝利者となります。イエズス・キリスト様は最後には、どうしても「イエズス・キリストこそが私たちの救い主であって、天主であって、贖い主である」という事を認めざるを得なくなるようにされます。

それはイエズス様にとって簡単な事です。たとえイエズス様が全くこの世から無くなったと見えたとしても、アッというすぐその瞬間に、すぐ翌日に、あっという間に状況が変わる事があります。

それは私たちについても同じです。私たちはもしかしたら、「カトリック信者である、聖伝のカトリック信仰を守っている」と、或いはイエズス・キリストの為にはこれをする事ができない、或いは、という為に、もしかしたら世間体や、或いは「他の人から何を言われるか」と、もしかしたら恐れおののいているかもしれません。

何も心配しないでください。たとえ全世界が、マスメディアが、インターネットが、国際社会が、イエズス様を否定したとしても、私たちは何も恐れる必要はありません。イエズス様は必ず勝利者となるからです。イエズス様の反対したという事で一時的には勝利を収めたと見えたとしても、却ってそれがやっかいものになって、却ってそれが辱しめの元となる事でしょう。「あぁ、あの時、みんなと一緒になってああしなければ良かった」と後悔するに違いありません。「イエズス様と留まっていれば良かった、イエズス様を何で反対してしまったのだろうか」と。

愛する兄弟の皆さん、では私たちは今日どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?それは3つあります。

1つは、「イエズス様が真に天主である」という事を確認する事です。「私たちの本当の救い主であって、この方以外私たちを救う方はいない。イエズス・キリスト以外に救世主、真の天主はいない。イエズス・キリストだけが私たちに、永遠の命と救いを与える事ができる」という事です。天主の御父の永遠の昔からの計画はこれです、「全てを、イエズス・キリストの元に集める。」イエズス・キリストのいない世界は有り得ません。ですからそれを確認するという事です。

第2は、「私たちはイエズス・キリスト様を信じる。信者だ」と言いつつも、残念ながら何度イエズス様を侮辱してきた事でしょうか。イエズス様を罪を犯す事によって否んでしまった事でしょうか。或いは世間体によって、或いは臆病によって、或いは卑怯によって、或いは怠慢によって、或いは私たちの弱さによって、イエズス様を却って、「十字架に付けよ!十字架に付けよ!」と言ってしまったのではないでしょうか。或いはそのような事を言っている人たちに対して、私たちは何もする事なく口を閉ざしていただけかもしれません。私たちはイエズス様を前に、どれほど悲しみを与えてしまった事でしょうか。

しかしそのような私たちに対してでさえも、今日イエズス様は、「同じ栄光を与えよう」と、あの「同じ無限の喜びを与えよう」と、今日復活されました。イエズス様が復活されたのはまさに、この私たちを慰め、私たちに喜びを与える為だけです。その為にのみ復活されました。

見て下さい、たとえ使徒と選ばれたとしても、イエズス様を裏切ったユダと、たとえ泥棒を繰り返して、本当に罪を犯したが為に十字架に付けられたディスマスの運命の違いを。イエズス様を皆の前で認めて、そしてイエズス様に祈り、自分の苦しみを償いとして捧げたこのディスマスには、永遠の喜びが与えられました。「汝、今日我と共に楽園にあらん」と。ですから私たちもイエズス様の元に駆け馳せましょう。イエズス様の喜びに与る御恵みを乞い求めましょう。そして決してイエズス様を離れる事がないように、その御恵みを乞い求めましょう。弱い私たちですけれども、その御恵みを乞い求めましょう。

第3には、その為に、私たちがイエズス様の復活の喜びを確実に得る為に、イエズス様を決して離れる事がない為に、秘密があります。マリア様です。マリア様こそ、聖ヨハネをして自分と共に居るように、他の弟子たちには与えられなかったものをマリア様によって与えられました。マリア様が居たがこそ、マリア様のおかげで、聖ヨハネはたとえどのような者であったとしても、十字架の足もとに留まる事ができました。

ですから私たちも、私たちの苦しみ、或いは辛い事、或いはどのような他の人たちから受けるような悪意があったとしても、悲しみや苦しみをマリア様と共にこれを捧げる事に致しましょう。「もうこれで万事休すだ。もう私たちにはもう何もできない。もう本当に悪い嫌がらせをされて、本当にもうこれ以外どうしようもない」というその時に、イエズス様はアッという間にそれを私たちの喜びの源とする事ができます。イエズス様と共に居るならば、マリア様と共に居るならば。

その喜びを今日、教会は私たちに伝えようとしています、「決して落胆する事がないように。私たちにはあまりにも多くの希望する理由と、喜ぶ理由がある。だから私たちはこのイエズス様の栄光の喜びの中に入ろう」と教会は招いています。私たちはこのミサを続けて、教会と共に、マリア様と共に、イエズス様の復活の喜びに入る事に致しましょう。

「お前たちが探している、十字架に付けられたナザレトのイエズスは復活した。もうここにはいない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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2017年4月16-17日の聖伝のミサの報告(続き):聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年04月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

次のようなご報告をいただきましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

5月には、シュテーリン神父様が来日されます。特に、秋田巡礼を一緒にされ、その後大阪と東京でミサをされます。シュテーリン神父様はファチマの聖母について、その重要性について、お話をされます。

どうぞ、この5月のシュテーリン神父様のミサ聖祭には多くの方々に来ていただきたいと願っています。特別の機会です。

シュテーリン神父様から、生の声で、ミサ聖祭でファチマの聖母についてのお話を聞いて下さい。聖伝のミサで、ファチマの聖母を敬って下さい!

多くの皆様が聖伝のミサに与ることが出来るように、どうぞ特別の取り計らいなさいますように、お願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ご復活の主日に聖伝の御ミサに与ることができ光栄です!
神父様のお説教で、あらためてご復活の喜びについて黙想することができました。
聖主のご受難の一つひとつの出来事は、その全てが予め予言者や旧約聖書を通して知らされており、天の神の御計画通りだったこと。
その日がユダヤ人にとって過ぎ越しの日で、キリストは人々の罪の贖いのための子羊として屠られたということ。
このこと全ては、季節の最も明るい日のうちに行われたということでした。
天主の御業を、最大限の明るさでわたしたちに『見よ』と示したように感じました。
逃れた弟子たちは恐れと悲しみと失望の暗闇の中にあり、
復活することを明言していたが誰もそれを信じるものはなかったと。
しかし、聖書の預言は成就され三日目に天主は自らの御力で復活されました。
決して認めたくない、信じたくない人々が策を講じて亡きものとしたことが、逆に認めざるをえないきっかけを作ったのだということでした。
現代はイエズス・キリストを拒否しキリストの無い喜びを作ろうとしている。
マスコミが、社会が、全世界がキリストを否定してもご復活がそうであったようにキリスト・イエズスは必ず勝利するということ。
まるでもうキリストは死んだ、と思われたその次の瞬間、救いが現れるのだとおっしゃいました。
また、どんなことが起こったとしてもすべては全知全能の天主様が許されたことで意味のある事。
この大切なことを改めて心に深く刻もうと思いました。
この世は、事実を事実として認めるか、拒否するかの二つに分かれると神父様はおっしゃいました。
主イエズス・キリストがご自身を与え尽くして建てられた教会は無限の喜びを伝え与えて下さいます。
この喜びは天主キリストの死という極限の暗闇を飲み込むほどのものであるということでした。
これこそが『喜びの動機』なのでしょうか。
十字架上で許され改心と救霊の恵みに与った善き盗賊のように真の救い主を認め、救霊を求めること。
そこには秘訣があると神父様はおっしゃいました。
それこそが死の間際に私どもに天主様が与えてくださった最高の宝、御母聖母マリア様。
天主イエズス・キリスト様に常に習い、わたしたちの苦しみをすべて捧げつくすこと。
それを支えて助けてくださる御方がいることを本当に幸せだと感じました。
デオ・グラチアス!!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

フォルティン神父様が大阪で挙げて下さった御ミサの報告をお送りいたします。
4月24(月)殉教者聖フィデリス、25(火)福音史家聖マルコ、26日(水)教皇殉教者聖クレトと聖マルチェリノ
三日間を通して、22人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!!

月曜日と火曜日には、御ミサ後に神父様とご一緒に終課も唱えました。
Te lucis , In manus の御復活節のトーンには喜ばしい雰囲気が溢れていて、最初はたどたどしかった信徒も段々と慣れて、上手に歌えるようになったと思います。日本の聖母の汚れなき御心聖堂で終課が出来ることはとても嬉しいことです。

火曜日には御ミサ前に、フォルティン神父様が紫のカッパをおつけになって祈願祭の諸聖人の連祷をグレゴリオ聖歌で先唱して下さいました。
フォルティン神父様の澄んだ美しい歌声には深い祈りが感じられ、皆大絶賛でした。
ファチマ100周年の今年、神父様と一緒に教会の祈りとして祈願祭の連祷を唱えることが出来た事は大きな意味があるように思います。

ご親切で謙遜なフォルティン神父様を、天主様が報いてくださいますように、
マリア様がお守りくださいますようにお祈りいたします。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

マリア様と共に居たからこそ十字架のもとに立ち留まる事ができた聖ヨハネ様に倣って、私たちも、天主様がお許しになられた送られた苦しみを、十字架を、イエズス様とマリア様の聖心の愛の動機、天主を愛する愛、聖父を愛する為に霊魂を救うという聖なる喜び、希望を以て、堪忍、忍耐してお捧げする事ができますように!

かなりご報告が遅くなってしまったのですが、小野田神父様が福音史家聖ヨハネ様の公教要理の時に、「聖ヨハネの福音書には、側近の者でしか知ることのできない、イエズス様の細かい様子や心の動きを書いている部分があるので、是非探してみて下さい」という事を仰って下さったので、探してみました。

◎ラザロの復活

「イエズスは、彼女がすすり泣き、ともに来たユダヤ人たちも泣いているのを見て感動し、心を騒がせられ、『彼をどこに納めたのか』と言われた。」(11:33)

「イエズスは涙を流された。」(11:35)

「その中のある人は、『あの盲人の目をあけた人でも、彼が死なぬようにはできなかったのだろうか』と言った。イエズスはまた感動された。」(11:37)

◎最後の晩餐

「過越の祭の前に、イエズスはこの世から父のもとに移る時が来たのを知り、この世にいるご自分の人々を愛し、彼らに限りなく愛を示された。」(13:1)

「イエズスはこう話してから、心中憂いながら、『まことにまことに私は言う。あなたたちの一人が私をわたすだろう』と宣言された。」(13:21)

確かに、ラザロの復活の奇跡の話も、近くで見た者でしか分からないようなイエズス様の様子が記してありますし、最後の晩餐の話も、他の福音史家はイエズス様が仰った事のみを書いていますが、ヨハネ福音書にはイエズス様の細かな心の動きが書いてありました。

《分からなかったところ》
もし、公教要理の時に仰って下さっていて、私が聞き漏らしていただけなら本当に申し訳ないのですが、どうして聖ヨハネ様は「鷹」で例えられたのでしょうか?
今までの傾向から、それぞれの福音史家の第1章がどのような話で始まっているかによって表わされているような感じなのですが、ヨハネ様の第1章を読んでも何故鷹なのかが分かりませんでした、、、(;_;)
お手数ですが、またお時間ありますときに御指導をよろしくお願い致しますm(_ _)m

デオ・グラチアス!アレルヤ!

【お返事】
聖ヨハネは「鷲」(aquila, aigle, eagle, αετός, 독수리, 鹰)に例えられています。(中国語では、鷲も鷹も「鷹」と言うそうです。)何故なら、鷲は鳥の中で一番天高く舞い上がることが出来る一つですが、聖ヨハネの福音はその最初から、天高く舞い上がり天主の観想に入るからです。

「はじめにみことばがあった。みことばは天主とともにあった。みことばは天主であった。かれは、はじめに天主とともにあり、万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。かれに生命があり、生命は人の光であった。光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった。」

「すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた。かれは世にあり、世はかれによってつくられたが、世はかれを知らなかった。かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。しかし、かれをうけいれた人々には、みな、天主の子となれる能力をさずけた。そのみ名を信じるすべての人たち、それは、血統ではなく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ天主によって生まれた人々である。」

「みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。私たちは、その栄光を見た。それは、おんひとり子としておん父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。」

「そうだ、私たちは、そのみちあふれるところから、恩寵に次ぐ恩寵をうけた。なぜなら、律法はモイゼを通じて与えられたが、恩寵と真理とは、イエズス・キリストによって私たちの上に来たからである。天主を見た人は一人もいない。おん父のふところにおいでになるおん独子の天主が、これをお示しになった。」


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

フォルティン神父様が大阪で3日間も御ミサを御捧げ下さるようになってとても嬉しく思います!マリア様は早速5月分の御ミサをお返しして下さいました!天主様に感謝!マリア様の汚れなき御心に感謝!ヨゼフ様に感謝!

ブログの御説教の記事に、宝石の付いた十字架の写真をアップして下さってありがとうございます!あの素晴らしい十字架を見ると、なるほど確かに、栄光の十字架を隠すために、勝利のしるしである十字架を隠すために、御受難節には紫の布を被せるのだという意味がよく分かりました!

残念ながら最近ではあのような宝石で飾られた十字架自体があまり見られませんので、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂の十字架は宝石で飾られていてきれいだなぁと思います!(o^^o)

私たちを慰め、私たちに喜びを与えるが為に復活して下さったイエズス様を、もうこれからは決して離れることがないように、私たちの苦しみ、或いは辛い事、或いはどのような他の人たちから受けるような悪意があったとしても、悲しみや苦しみを、マリア様と共に、これをお捧げする事ができますように!教会と共に、マリア様と共に、イエズス様の復活の喜びに入る事ができますように!

デオ・グラチアス!アレルヤ!
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「ファチマのアヴェ・マリア」  (続き) その3

2017年04月25日 | ファチマ
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「ファチマのアヴェ・マリア」の聖歌の記事の続きです。

「カトリック聖歌集」に掲載されている歌詞の続きで、さらに新しい歌詞の提案もいただきました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

追加の歌詞は、27番から32番です。

聖歌の歌詞のよいアイデアがありましたらもっともっと知らせて下さい。投稿をお待ちしております!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ファティマのアヴェ・マリア

1 ああうるわし 若葉ゆれて 光りの君 立たせ給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

2 幼子たち 招き給い 神の秘密 ささやきたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

3 おんみこそは 愛の極み 我らの母 慕いまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

4 ロザリオもて 平和祈れ 罪に泣けと 諭させたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

5 おおマリアよ み手をのべて 世の行末(ゆくすえ)照らし給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

6 ああ懐かし 空のかなた 導きてよ 愛のみ母
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

【続き】

7 世の罪にて 悲しみ給う 主を慰め 奉らん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

8 我が天主よ われは信じ あがめのぞみ 愛しまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

9 おおイエズス 愛するため 我が苦しみ 捧げまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

10 汚れの無き 御心こそ 我が避難所(のがれば) 天(あめ)への道
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

11 茨刺(いばらさ)さる 母の御心(こころ) 慰めたい、償いたい
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

12 母の心 愛するなら 我が救いを 保証し給う
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

13 「初土(はつど)毎(ごと)に 五回続け ロザリオもて お勤めせよ」
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

14 主と聖母の 計り知れぬ 功徳により 祈りまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

15 御聖体を 全ての罪の 償いとて 捧げまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

16 み主と母の 御心により 世の回心 願いまつらん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

17 あまたの人 地獄の中 幼子らに みせさせたもう
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

18 雨の中を 民は集う 奇跡を見に 祈るために
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

19 秋の空に 踊る太陽 色とりどり 染まる大地
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

20 人知れずに 子供ヤシンタ 病(やまい)の身を 捧げ逝けり
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

21 罪に痛む 主の姿を 見て祈るは フランシスコ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

22 ルチアは地で 母の御心 知らせるため 選ばれたり
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

23 「聖母に会い この目で見た 間違いない 嘘はつけぬ」
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

24 優し母の 御心(みこころ)こそ あまねく世の 救いとなれ!
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

25 我が日の本(ひのもと) 平和求む 主の御母(みはは)よ 祈り給え
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

26 信じまつる 崇めまつる 望みまつる 愛しまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

27 苦しみもて 罪償い 我ら全て 捧げまつる
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

28 我が御母の 御手によりて 主の玉座の 花とならん
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

29 ロザリオもて 祈るならば 解決せぬ ことはあらじ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

30 天主に付き、地獄仇し、われら臨む 霊のいくさ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

31 汚れのなき 御心もて 主と聖母に 御栄えあれ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア

32 インマクラータの 凱旋(かちほこり)を 待ちて祈る アヴェ・マリアぞ
アヴェ アヴェ アヴェ マリア、
アヴェ アヴェ アヴェ マリア
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紫の布におおわれた十字架で表される、「対比」と「一致」とは?

2017年04月24日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年4月8日(土)に大阪で捧げた受難節の平日のミサのお説教をご紹介いたします。

ここでは、2つのコントラストについて黙想しました。イエズスの悲しみと喜びです。
何故なら、ファリザイ人や司祭長たちの盲目さ頑なさと一般民衆や子供らの大歓迎とをイエズス様はご覧になるからです。

これは、イエズスの苦しみと栄光につながります。何故なら、イエズス様は「地に落ちて死ぬならば、多くの実を結ぶ」と言い、ご自分の苦しみと栄光について語るからです。

これは、聖金曜日と復活の主日につながります。何故なら、十字架の苦しみを通して復活の栄光と救いと贖いの実りをもたらすからです。イエズス様は言います。「もしも人の子があげられるならば、私の元に全てを引き寄せよう」と。

これは受難週の紫の布に被されている十字架、しかし宝石の黄金の貴重な十字架につながります。何故なら、聖金曜日と復活の主日は二つで一つだからです。

これは、聖母の御悲しみと聖母の喜びとにつながります。何故なら、マリア様の七つの御悲しみは同時に、その御心の奥底にあった聖なる愛、聖なる信仰、聖なる希望と平和と喜びがあったからです。

では、弱い私たちは、どうすれば良いのでしょうか? 相応しくない私たち、力の無い弱い私たちは?どうしたら弱さが力となり、苦しみを栄光へとつなげることが出来るでしょうか? 使徒聖ヨハネに倣いましょう!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2017年4月8日(土)受難節の平日のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心教会にようこそ。今日は2017年4月8日、受難の節の土曜日のミサをしております。

明日は枝の主日という特別の日で、大きな荘厳な主日になっています。レネー神父様が夕方の18時からここで御ミサをして下さいます。

枝の主日のこの準備の為に、今日御ミサの後の公教要理の時には、その典礼について皆さんと一緒に黙想したいと思っています。一緒に聖歌の練習したり、その意味を黙想したいと思っています、どうぞいらして下さい。

来週の主日は復活祭です。復活祭にも夕方の18時からここでミサがあります、どうぞいらして下さい。

聖金曜日はこの来週の金曜日は、カトリック教会によると大小斎を守らなければならない日です。21歳から59歳までの健康な男女の方々は、どうぞイエズス様の御受難に合わせて大小斎を捧げて下さい。小斎は14歳以上の方は全て守らなければなりません、健康な方はどうぞ守って下さい。



「私が上にあげられる時、全ての人を私の元に引き寄せよう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日のミサでは教会は、私たちが明日の典礼と、それから聖週間、イエズス様の御受難について深く理解するように、その中に深く入るようにと招いています。今日私は、是非、3つのポイントを黙想する事を提案します。

1つは、指定巡礼教会。今日はラテラノ門にある聖ヨハネ教会です。

次に、イエズス様のその御受難の、 御受難に向かおうとするその心構え、一体何の為に、一体どうやってイエズス様は御受難に向かおうとされたのか、

そして最後に、この聖ヨハネ教会とイエズス様を結ぶ第3のポイントとして、マリア様について黙想して、

そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

今日の指定巡礼教会は聖ヨハネ、使徒聖ヨハネ教会です。これはちょうど1週間前の今日、聖ヨハネの福音について黙想した時に、「実は聖ヨハネが、エフェゾからドミティアヌス 皇帝によってローマに呼び出されて、そして燃えたぎるぐつぐつとしている油の窯の中に入れられた。しかしそれにもかかわらず、怪我ひとつせずにそこから出てきた」という事を知りました。ちょうどその聖ヨハネが燃えたぎる油の中に入れられて、そして殉教をする、命を落とさなかったけれども拷問を受けた、その場所に建てられたのがこの聖ヨハネ教会です。

ちょうどこれを以って、「イエズス様の十字架の足もとに留まった弟子、唯一の弟子聖ヨハネの元に私たちは行こう。聖ヨハネと共にイエズス・キリストの十字架のもとに留まろう。そしてイエズス様と共に、聖ヨハネのようにたとえ命を失わないとしても、イエズス様の為に油を、燃えたぎる油を受けて、そのような苦しみを受けても、イエズス様の為にこれを捧げよう。そしてイエズス様の御受難に私たちの苦しみを合わせてお捧げしよう」と教会は私たちを招待しています。ですから聖ヨハネと一緒にイエズス様の十字架の足もとに立ち、イエズス様の心の中に深く入って行く事にしましょう。

第2のポイントで、教会はその「典礼の読誦を見て、イエズス様の心を深く知るように」まず言います。昨日の金曜日と受難の金曜日と同じ入祭誦、或いは昇階誦、或いは聖体拝領の詩篇が唱えられます、歌われます。「私」と一人称になっているのは、これはイエズス様が私たちに語っているのです。イエズス様の心を聖心を、聖霊が詩篇を通して私たちに語っているので、「その中に、その聖心をよく知るように」と招いています。

イエズス様の心の中に入る手段として、次に教会が私たちに提案するのは、預言者エレミヤです。受難の金曜日にも同じくエレミヤが出ましたけれども、エレミヤは民の、ユダヤ人たちの罪を回心する為に送られて説教するにもかかわらず、救いの為に送られたにもかかわらず、却ってエレミヤは迫害を受け、苦しみを受けます。そしてこのエレミヤを亡き者にしようと企む人々の事が、今日エレミヤの中で読まれます。ちょうど今日読まれたエレミヤの預言がイエズス様において、そしてイエズス様を迫害するしようとする人々において成就するのを、私たちは目を見張る思いで読みました。

イエズス様のその聖心の中に深くエレミヤを通して入らされた私たちは、遂に福音を通して、イエズス様のその聖心を聞かせようと、聖心からの叫びを聞かせようとします。天の聖父からの叫びを聞かせようとします。

見て下さい。ラザロを生き返らせた、もう腐って腐って臭くて臭くてたまらなかったはずの、腐敗したラザロをイエズス様がたった一言、「ラザロ、起きて来なさい。外に出て来なさい」と言う事によって生き返らせたイエズス様を信じる反対に、多くの人々がイエズス様の方に行ってしまうのを見て、イエズス様のみならずラザロさえも殺そうと決意しました。

聖アウグスティヌスは言っています、「何と愚かな事だろうか。たとえラザロを殺害したとしても、ラザロをイエズス様が復活させたという事は消す事ができない、無きものにする事ができない。ラザロを復活させた方がたとえ殺されたとしても、御自身を復活する事ができないとでも思っていたのだろうか」と。

聖アウグスティヌスは言っています、「そんなに盲目にならずに、イエズス様の事を素直に『メシアだ』と見るべきではなかったのか。救う為に送られたイエズス・キリストを、『まさにこの方こそ私たちを救うべきメシアだ』と素直に受け入れるべきではなかったのか。」

そのファリザイ人や司祭長たちの盲目さ、頑なさをまず福音は私たちに語るのです。

その直後に、何という対照でしょうか、何という大きな隔たりでしょうか、その対極にあるのは一般民衆でした。素直にイエズス様がなさった奇跡、ラザロの復活を見た、目撃した人々でした。彼らは、「イエズス様こそが主の聖名によって来る御方だ!ダヴィドの子だ、ホザンナ!」と「イスラエルの王だ!」と大歓迎をしました。

イエズス様はこのその2つの両極を見て、同時に、この群衆が御自分の事を「メシアだ」と見て、自分の方にやって来るのを見て、きっとお喜びになった事でしょう。何という喜びであったでしょうか。彼らは救い主を救い主と認めて、自分が救われようとされる、イエズス様の目的はこれで達成される。

それと同時に、イエズス様は頑なな司祭長たちを見てどれほどお悲しみになった事でしょうか。彼らがイエズス様の為に企んでいる恐ろしい死、或いは苦しみ、或いは辱しめ、冒瀆、冒辱などを考えると、どれほど心には悲しみに満ちておられたでしょうか。

この2つのコントラストがイエズス様にはありました。もしも一粒の麦が落ちて死ななければ、それはそのまま残るけれども、もしも地に落ちて死ぬならば、多くの実を結ぶ。悲しみと喜び。

イエズス様は御自分が「地に落ちて実を結ぶ為の一粒の麦となろう」と思われました。「十字架の苦しみを通して復活の栄光を、そして救いと贖いの実りをもたらそう」と思われました。

イエズス様は言葉を続けます、「もしも人の子があげられるならば、私の元に全てを引き寄せよう」と。

「悲しみ」と「喜び」、「苦しみ」と「栄光」、これが2つ重なっています。聖金曜日を通して、復活の主日に至ろうと。

その事を考えると、イエズス様の一目見ただけでは、悲しみや苦しみ、十字架の苦しみがあるにもかかわらず、その内には、天主聖父を求めるその愛徳と、霊魂を救おうとするその愛、私たちに対する愛が隠されている事が分かります。

ちょうど「私たちの十字架が紫の布に、喪に服すように被されているけれども、しかしたとえ被されたとしても、十字架は十字架として、栄光の十字架としてそのまま留まる。宝石に散りばめられた、黄金と、銀と、最も貴重な救いの手段として、栄光の元として残る」と「この2つが重なっている」という事が分かります。

イエズス様は今日、聖書学者の研究によれば、弟子たちと共に居たエフレムという砂漠の所から、数日間居た後に、今日エリコに来られて、エリコから明日エルサレムに登ろうとされます。エリコという街を聞くと、私たちは有名なザケオの話を思い出します。ザケオは背の小さい者だったのですけれども、イエズス様を見ようとして木の上に登りました。その事に気が付いたイエズス様は、「ザケオ、早く降りて来なさい。今日私はお前の家に行く」と、ザケオの家に救いが来ました。

イエズス様が今日エリコに来られたので、私たちもザケオのようにイエズス様を拝見しようとイエズス様の方に、イエズス様の十字架の木に登る事に致しましょう。イエズス様と同じく私たちの苦しみをお捧げする事に致しましょう。イエズス様は私たちの家に留まって下さるに違いありません。

イエズス様は明日、エリコからエルサレムに行きます。そして大歓迎を群集から受けて、また盲目の人を、エルサレムでは盲目の人を治したりもします。この治したが為にユダヤ人から更に反感を受けるのですが、夕方にはベタニアの家に行きます。ベタニアの家に行って、マルタとアリアそしてラザロからの歓迎を受けます。マリアは貴重な香油をイエズス様の足に塗って、そしてその匂いは部屋中に広がった、それを見たユダは決定的にイエズス様に反感を起こして、「何でこんな事をさせるのか」とイエズス様を離れる事になります。私たちもそのイエズス様に愛の香油を塗りましょう。

この黙想を終わる前に是非、イエズス様と、十字架に架かろうとするイエズス様と、イエズス様の十字架の足もとに留まったヨハネの隣に居た、もう一人の重要な方を黙想する事に致しましょう。

イエズス様がもしも私たちの為に、私たちを愛するが為に、私たちの贖いの為に十字架に付けられたとしたら、それに最もよく一致しているのは、聖ヨハネよりももっとよく一致していたのは、罪無く苦しみを受けて、やはり十字架に留まった、汚れなき御母マリア様でした。

イエズス様の聖心の苦しみ、張り裂ける思いの、この愛の火に満ちた聖心と同じ心を持っていたのが、マリア様の汚れなき御心でした。天主様は、このイエズス様とマリア様のこの2人が恐ろしい残酷なやり方で苦しむのをお許しになり、それをお望みになりました。

イエズス様のその苦しみを理解する為には、私たちはマリア様の御心をよく理解しなければなりません。何故かというと、2人のこの聖心は、この2つの聖心の中には同じ聖霊の火で燃えていたからです。

イエズス様の聖心には、聖霊の火が燃えていました。聖父を愛する火が燃えていました。三位一体のその愛の火が燃えていました。イエズス様の聖心の中で燃えていた、聖父の栄光を求めるその愛の火。

すると聖父もそれに応えて、今日福音の中で声を聞かせます、「私は栄光をお前に与えたが、更にもっと栄光を与えよう」と。イエズス様は「この声を聞かせたのは、それは多くの人が信じる為であった」と聖ヨハネは証言します。

聖父の為に燃えるこの愛は、イエズス様の御受難の第1の動機である聖父への愛は、それと同時に、「多くの霊魂を聖父の元に引き寄せたい」という動機に繋がります。私たちを憐れんで、聖父の元に呼び寄せるという動機に繋がります。それがイエズス様の私たちに対する憐れみの聖心の動機です。

これと全く同じ心を、マリア様が持っていました。聖霊の浄配として、聖父への愛、天主三位一体への愛に燃えるマリア様は同時に、罪人である私たちをも、「聖心の方に持って行きたい」と思っていました。そこでイエズス様によって贖われた最初の霊魂である、完璧に贖われた霊魂である罪の無い霊魂であるマリア様は、「聖父への愛に私たちを全て引き寄せたい、持って行きたい」と思っています。

こうして見ると、イエズス様の一つの落ちる粒、十字架に上げられた、「上げられよう、そして私の元に引き寄せ、そして聖父の元に連れて行こう」とするその愛は、マリア様と共に分かたれていたという事がよく分かります。イエズス様は憐れみに満ちた御方であって、マリア様はその憐れみを共にして、イエズス様と同じ苦しみと、同じ愛を持った方であるからです。

イエズス様は確かに十字架の上で亡くなりましたが、マリア様は同じような苦しみを、残酷な苦しみを受けつつも生き残ります。マリア様はたとえ命を失わなかったとしても、ほとんど命を絶えてしまうかのように、息絶えてしまうかのように苦しまれました。マリア様は十字架の足もとで、ご自分の全てをイエズス様と共に聖父に捧げられたからです、「霊魂を救おう」と「イエズス様と共に霊魂を救おう」とされたからです。

マリア様の事は特に、イエズス様と共に「憐れみの御母」「殉教者の元后」と私たちが言っている通りです。

もしもマリア様が十字架のもとにこうやって佇む事ができたとしたら、これはまさにイエズス様と同じ心を持っていたからでしか有り得ません。つまり、ただマリア様の心には悲しみ、苦々しい悲しみ、「自分の子供が、自分の財産が、自分の思いが、これで打ち砕かれた。だからもう駄目だ、もう絶望だ。もう、あぁもぅ」という悲しみではありませんでした。マリア様の心を動かしていたのは、マリア様が立ち佇んでいたのは、イエズス様と同じく、天主を愛する愛があったからです。そうでなければ、とてもマリア様はそこにいる事ができませんでした。「天主聖父を愛そう。そして天主聖父を愛するが為に、霊魂への憐れみと、霊魂を救おう」というその愛があったからです。イエズス・キリストへの信仰と、復活への希望があったからです。「イエズス様と共に聖父に栄光を与えて、そして霊魂を救う事ができる」というその喜びがあったからです。

ですからマリア様の苦しみ、外見上の苦しみの心の奥底には、やはりイエズス様の心の奥底にあった、平和と、「天主の御父の御旨を果たしている」「霊魂を救う」という喜びと、平安な気持ちがありました。聖なる希望、聖なる喜びがありました。

ですからこそマリア様は、イエズス様と共に立ち留まり、それをお捧げする事ができたのです。これがマリア様の御悲しみの秘密でした。マリア様の七つの御悲しみ、マリア様とイエズス様の悲しみを、苦しみを黙想するというのは、単なるセンチメンタルな、単なる感傷的なものではありません。「私たちの罪の為にこれほど苦しまれたそのイエズス様の深い動機を、愛の動機を、愛徳の動機を察するがあまり、私たちも自分の罪を償わなければならない。私たちも苦しんで、イエズス様とマリア様に倣って苦しまなければならない。そして私たちが苦しむ事を、天主が許したその送られた苦しみを、十字架を、イエズス様とマリア様と共に喜んで、平和の内に聖なる喜びをもって、堪忍、忍耐する事を私たちが真似るように」と招いているのです。

ちょうどマリア様の御心も、この紫の布で被された黄金と銀と宝石で散りばめられた貴重な十字架のようです。悲しみのように見えるけれども、その奥底には聖なる愛、聖なる信仰、聖なる希望と、平和と喜びで満たされていた。だからこそ、この苦しみを捧げる事ができたからです。

愛する兄弟の皆さん、ですから今日は、イエズス様の十字架の足もとに、聖ヨハネとマリア様と共に一緒に立ち佇む事に致しましょう。この佇む事ができる為には、同じ心を持っていなければなりません。聖なる愛と、イエズス様の為に何かする事ができるという喜び。願わくはマリア様が、悲しみのマリア様が、聖ヨハネが、私たちにそれを取り次いで下さいますように。そしてイエズス様が私たちに、いつもその十字架の近くにいる事を許して下さいますように、私たちが、弱い私たちが十字架から逃げてしまわないように、マリア様を通して力を下さいますように。相応しくない私たちですけれども、力の無い弱い私たちですけれども、御助けを以ってそれをする事ができますように、イエズス様とマリア様と共にする事ができますように、ヨハネに倣う事ができるように、今日は霊的に聖ヨハネの指定巡礼教会に共に行く事に致しましょう。

「もしも人の子が上にあげられるなら、全ての人を私の元に引き寄せよう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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