Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2017年 3月の聖伝のミサの予定

【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


聖ヨゼフの月です。聖ヨゼフの連祷をロザリオの後で付け加えましょう。
聖ヨゼフ、我らのために祈り給え! (参考:聖ヨゼフに対するノベナ
意向:聖なる四旬節を過ごす
実践すべき徳:この地上の事々を軽んじ、天上のことを重んずる愛徳
守護の聖人:聖ヨゼフ

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2017年 3月の予定

【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    3月3日(初金) 四旬節の平日(3級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

    3月4日(初土) 四旬節の平日(3級)紫
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    3月12日(主) 四旬節第2主日(1級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

    3月13日(月) 四旬節の平日(3級)紫 
            午前6時半 ミサ聖祭

    3月17日(金) 四旬節の平日(3級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

    3月18日(土) 四旬節の平日(3級)紫
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    3月20日(月) 童貞聖マリアの浄配証聖者聖ヨゼフ(1級祝日)白  ←追加されました。
            午後3時半 ロザリオ及び告解
            午後4時 ミサ聖祭

    3月21日(火) 四旬節の平日(3級)紫 大修院長聖ベネディクトの記念 ←追加されました。
            午前6時 ミサ聖祭

    3月31日(金) 四旬節の平日(3級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

     【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

    3月5日(主) 四旬節第1主日(1級)紫
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    3月6日(月) 四旬節の平日(3級)紫
            午前7時 ミサ聖祭

    3月19日(主) 四旬節第3主日(1級)紫
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

     3月20日(月) 童貞聖マリアの浄配証聖者聖ヨゼフ(1級祝日)白
            午前7時 ミサ聖祭

    
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

◎アジア管区では、これからロザリオの時に「主よ、われらに司祭を与え給え 云々」の最後に、次の呼祷を付け加えることになりました。宜しくお願い致します。

「主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え。」
"O Lord, grant us many holy families".

◎多くの祈りと犠牲を聖母の汚れなき御心への信心の実践として捧げて下さい。
【聖ピオ十世会 ロザリオの十字軍】
2016年8月15日~2017年8月22日
聖ピオ十世会 ロザリオの十字軍についてのお招き ←こちらをクリックしてください

 
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ロザリオの十字軍)2017年3月20日現在、日本からロザリオ11,097環、犠牲44,509回が報告されました。

2017年03月25日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年 3月 20日現在、

日本から今までの総計で、ロザリオ11,097環、犠牲 44,509回が報告されております。天主様に感謝!愛する兄弟姉妹の皆様のご協力に感謝します。

マニラからは、ロザリオ152,631環、犠牲41,071回が報告されています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
ロザリオの十字軍のご報告

小野田神父様、こんにちは、
ロザリオの十字軍のご報告です。

1月1日~1月31日
ロザリオの祈り 58環
犠牲 31

2月1日~2月28日
ロザリオの祈り 59環
犠牲 28

犠牲をお捧げすることを学び、覚えさせていただくことはとても幸せです。
憐れみ深き天主様に感謝いたします。

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

トマス小野田神父様、

ロザリオの十字軍のご報告をさせていただきます。

2016年2月5日~2017年3月20日(日本時間18:00) 23環 でした。

家族のためにお祈りください。

小野田神父様の天主様の祝福が豊かにありますように!



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!!♪♪

聖なるロザリオ 3環 犠牲10回 

宜しく御願い致します。

デオ・グラチアス!!!♪♪♪



【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

2月のロザリオ十字軍のご報告をさせていただきます。

6人で
ロザリオ:279環
犠牲:529回
お捧げいたしました。



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2月のロザリオ十字軍のご報告をさせていただきます。

  ロザリオ    71  環
  犠牲      501 回

四旬節に入りました。おかげさまで無事に灰の水曜日の大小斎の義務もお捧げすることができたと思います。3月はロザリオと犠牲も ファチマの百周年と四旬節と合わさり、特にマリア様の汚れなき御心の中に深く入るように努め、自分の罪と忘恩を償い、お悲しみとお苦しみのマリア様の御心を少しでもお慰めできますよう お捧げしたいと思います。(十字架の道行は 最近しておりませんでしたが、四旬節は十字架の道行も捧げしたく思いますが・・・。)いつもご指導をありがとうございます。 

デオ・グラチアス!



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!!♪♪

では、2月分の聖なるロザリオの十字軍の!!♪♪御報告を致します♪

                    聖なるロザリオ   犠牲
シスター                84 環          
ヨゼフ マリア             54 環          0 回
アンナ                 28 環        197 回
マリア                 24 環        560 回
マリア                 28 環        280 回
バルナバ                80 環        200 回
アリア・ローザ             99 環        364 回
ヨゼフ・パウロ             84 環              
マリア                109 環        502 回
マリア                 84 環        168 回
マリア                 84 環        420 回
           計       758 環       2691 回 
以上です♪ 
宜しく御願い致します♪
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聖ピオ十世会日本の第十一回公式秋田巡礼の意向 2017年5月3日~5日

2017年03月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会日本は、毎年も、恒例の公式秋田巡礼を5月3日から5日まで行います。今回で十一回目ですが、今年はファチマ百周年をふさわしく祝うという意向で、多くの兄弟姉妹の皆様を秋田巡礼にご招待いたします。

今年は一月から、アメリカとヨーロッパで、また日本でも、遠藤周作の「沈黙」の映画化として、マーティン・スコセッシ監督の「沈黙─サイレンス─」が公開されましたが、史実によれば、400年前、拷問を受けたフェレイラ神父が弱さによって背教したとき、多くの同僚やカトリック信徒の方々が祈りと犠牲を捧げてその償いを果たそうとしました。

100年前のファチマのメッセージも、償いの要求でした。まず、天使が送られてこう言います。「あなたがたができるすべてのことを犠牲とし、それを天主に背く罪の償いの行いとして、また罪人の回心を嘆願して天主に捧げなさい。あなたがたはこのようにして自分たちの国に平和をもたらすでしょう。私はあなたがたの国の守護の天使、ポルトガルの天使です。特に主があなたがたにお与えになる苦しみを従順に受け入れ、忍びなさい。」

天使は子供たちに償いの聖体拝領をさせてこうも言います。「恩知らずの人々によって恐ろしく冒涜されたイエズス・キリストの御身体と御血を受け、飲みなさい。彼らの罪を償い、あなたたちの天主を慰めなさい。」

ファチマの聖母も同じことを子供たちに願います。
「あなたたちは、天主に背く罪の償いと罪人たちの回心への嘆願の行いとして、喜んであなた自身を天主に捧げ、天主があなたにお与えになるすべての苦しみを耐えますか?」(1917年5月13日)

「罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさんこう言いなさい。特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。“イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”、と。」(1917年7月13日)

「ロザリオの聖母を崇敬するために、世界が平和を得、戦争の終わりを勝ち取るためにロザリオを毎日唱え続けることを望みます。なぜなら、そのお方(ロザリオの聖母)だけがあなたたちを助けることが出来るからです。」(1917年7月13日)


さて、カトリック教会は、第二バチカン公会議以後、肉体的な拷問のない沈黙の背教に直面しています。多くの司祭、修道者が聖職を放棄してしまうのを目撃しました。御聖体に対する尊敬と礼拝とがますます失われているのを見ています。最近では、婚姻に関する教義に関して、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するのを見ています。フェレイラ神父の転びの償いのために、聖フランシスコ・ザベリオがマストリッリ神父に送られたように、教会内にある、沈黙の背教を償うために、ファチマの聖母が私たちに祈りと償いを呼びかけています。

秋田の聖母も、同じ内容をこだまさせて特に日本の私たちに響かせています。

「人々の償いのために祈ってください。(…)教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。」 (1973年7月6日)

「世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。(…)貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。(…)在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められております。かたちにこだわらず、熱心をもってひたすら聖主をお慰めするために祈ってください。」 (1973年8月3日)

「毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。(…)悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと贖罪の業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから(…)ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」 (1973年10月13日)

時は来ました。日本のために、カトリック教会のために、荒らされた祭壇や教会の復興のために、祈りと贖罪の業に励むために、私たちの祈りと犠牲を、この巡礼を通して御捧げいたしましょう。

愛する兄弟姉妹の皆様を秋田巡礼にお招きいたします。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【参考資料】秋田の聖母のメッセージ

第一のメッセージ 1973年7月6日(初金曜日)

「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。すべてを捨てて、よく従ってくれました。耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐してください。最後の試練ですよ。手の傷は痛みますか。人々の償いのために祈ってください。ここの一人一人が、わたしのかけがえのない娘です。聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。さあ、一緒に唱えましょう」
「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。今日のことをあなたの長上に話して、長上のおっしゃるままに従ってください。あなたの長上は、いま熱心に祈りを求めていますよ」

第二のメッセージ  1973年8月3日(初金曜日)
「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。主を愛し奉っていますか。主をお愛しするなら、わたしの話を聞きなさい。
これは大事なことです。そしてあなたの長上に告げなさい。
世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。
おん父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。
おん子とともに、何度もそのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、お引きとめしてきました。
祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、おん父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも、わたしはそれを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。聖体奉仕会の祈りを心して祈り、実践して、贖罪のために捧げてください。各自の能力、持ち場を大切にして、そのすべてをもって捧げるように。
在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められております。かたちにこだわらず、熱心をもってひたすら聖主をお慰めするために祈ってください」
(ちょっと間をおいて)
「あなたが心の中で思っていることは、まことか?まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしているわたしの修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしい者となるために、三つの釘で十字架につけられる心をもって誓願を立てなさい。清貧、貞潔、従順の三つの釘です。その中でも基は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、よき理解者となって、導いてくれるでしょうから」

第3のメッセージ 1973年10月13日(土曜日)
「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい」
(少し間をおいて)
「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。
悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。
勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと贖罪の業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから」
「まだ何か聞きたいですか。あなたに声を通して伝えるのは今日が最後ですよ。これからはあなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい。ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」
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2017年3月17-21日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年03月23日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

3月17日、18日には大阪で、
3月19日、20日には東京で、
さらに3月20日聖ヨゼフの祝日に大阪でもう一度、ミサ聖祭を捧げました。
大変幸福でした!

3月19日には42名の方々が、20日には12名の方々が、東京でミサ聖祭に与り、
3月20日には15名の方々が大阪でミサ聖祭に与りました。



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

御ミサの報告をお送りいたします。
小野田神父様におかれましては、マニラと日本、大阪と東京を行ったり来たりと大変お疲れだったと思います。
全てを天主様へ犠牲としてお捧しておられるお姿に、私もならって参りたいと思います。
とは言えどうぞ少しはご自愛下さい。(ペトロが、イエズス様の御受難について、”そんなことがおこりませんように!”といって、”サタン退け”とイエズス様に叱られた件がありますので、ちょっと自粛ぎみです(/ω\)


3月17日(四旬節第二週の金曜のミサ)10名

教会が指定する今日の指定巡礼聖堂のローマの聖ヴィタリス聖堂です。
これまで毎日のミサ典書に書かれている指定巡礼聖堂の意味がよくわかりませんでしたが、その日の典礼と指定巡礼聖堂とは密接な関係がある事がわかってきました。
ローマの迫害時代に、聖ヴィタリスは殉教者たちの遺体を葬っていたため捕えられ、穴に落とされて石殺しにされてしまいました。
その聖ヴィタリス聖堂には十字架を担うイエズス様、穴に落とされたヴィタリスの絵があるそうです。

この日のミサは、十字架のイエズス様と、聖ヴィタリスと、兄弟たちの妬みによって井戸に落とされる旧約のヨゼフ、福音との四枚の絵を通して教会は、天主の御摂理として与えられる苦難が私たちの救霊に役立つという事を教えているそうです。

私たちが罪の赦しを受けて、救霊の恵みを頂けるのは、天主であるイエズス様の大きな御受難のおかげである事を私たちは忘れてしまって、感謝するかわりにイエズス様に反対し、悲しませ、殺そうとしたのではないでか?穴に突き落としたのではないか?とお説教の中で神父様に問いかけられた時には心がグッと苦しくなりました。
イエズス様の愛が大きければ大きいほど、御恵みを当たり前に感じるのではなく、出来る限りの感謝を行動であらわす必要があるのに、当たり前のように、沢山の御恵みを受け、感謝もそこそこに都合のいいお願い事ばかりしている自分を非情に感じました。
御恵みの後ろに、その御恵みが大きければ大きいほどイエズス様の大きな御苦しみがある事を肝に銘じました。


3月18日(四旬節第二週の土曜のミサ)14名

今日のお説教は最近の中で私が最も感動したお説教の一つでした。
今日の指定巡礼聖堂は、兄弟殉教者聖マルチェリノと聖ペトロの聖堂です。書簡も、聖福音も兄弟に関する話がでてきます。
書簡は、母レベッカの計らいにより、次男のヤコブが、兄になりすまして天の祝福を受ける有名な話です。何の権利もない未熟な次男のヤコブでしたが、母の勧めによって兄に変わって天からの祝福、つまり超自然的恩恵を受けることができました。これは天主の御摂理以外の何物でもなく、私を含めてカトリックの信仰を持つ人々は自身には何の価値も持たないけれども、特別の天主様からの選びによって天主の子となる権利を持ったという事は全くその通りだと思います。この度は話にでませんでしたが、レベッカがマリア様の前兆として書かれていることにも疑いをもちません。
聖福音の放蕩息子の話ではいたく感動してしまいました。
罪を犯して父を離れた放蕩息子を、待っているだけでなく飛んできて抱きしめて接吻して大歓迎して宴会まで開いた事に自分の改心と天主様の愛を重ねてしまったからです。
書簡での「選み」は、洗礼志願者に向けて、
聖福音の「憐み」は公式の罪人(痛悔者)に向けて、語られていると知って、典礼の深さと教会の配慮に関心しました。
自分と同様、日本の多くの放蕩息子が、天主様の憐れみを受けて、選びを受けることが出来るようにとミサを通してお祈りいたしました。


3月20日(聖ヨゼフの祝日)15名

今年も、聖ヨゼフ様の祝日の御ミサに与る事ができてとても幸せでした。
天主様の御摂理に感謝いたします。
お説教では昇階唱でいう聖ヨゼフ様に与えらた冠、栄光とは何かを黙想しました。
天主の御子の養父、天主の御母の浄配という特別の使命を与えられたヨゼフ様には、それにふさわしい恵みを与えられているし、聖ヨゼフ以上に多くの恵みを受けた人は御子と聖母を除いて他にはいません。全ての聖人に勝って多くの恵みを受けたことこれこそが聖ヨゼフの冠でした。
聖ヨゼフ様の生涯を振り返ると多くの苦しみがあり、その苦しみの後に栄光と喜びがあるのだとわかります。
現代、御聖体に対する危機を助けて頂きたいなら、エジプトのファラオが飢饉のときに「ヨゼフへ行け」といったように、イエズス様(御聖体)の生命を救われたヨゼフ様の所に行くのが得策だといえます。
ヨゼフ様はその生涯をイエズス様とマリア様への奉仕のために使われた方ですので、ヨゼフ様のお助けよって私たちもイエズス様とマリア様によくお仕え出来るようになりますようにお祈りします。

公教要理は福音史家シリーズパート4「福音史家ルカ」についてでした。
ルカについてわかっていること。
⑴生まれはアンティオキアらしい
⑵ユダヤ人ではない(割礼を受けていないので)
⑶イエズス様に直接合っていない
⑷医者であったらしい(書き出しが医学書ディオスコリデスとそっくり。医学専門用語を使用)
⑸パウロと仲が良かった

ルカ福音書の特長
●黙示録に出てくる四つの獣の「牛」はルカ福音書。(牛を捧げていたザカリアが巻頭に出てくるから)
●順序良く、正確な史実を書いている
●文体は洗練されており文学的で、細かい描写が多い
●洗練されたギリシャ語で書かれた
●主に異邦人のために書いた。その為、マテオの記録中の異邦人を非難している箇所は省いている
●パウロに大きな影響を受けている




【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

金曜日は御ミサ、そして十字架の道行きや終課をありがとうございました!!
5月のミッションなどは残念ですが、その分今年の四旬節にたくさん日本で御ミサが捧げられる事になってとても嬉しいです!

小野田神父様が仰って下さったので、マルコ様がユダヤの言葉や習慣を知らない人々のために福音を書いていると思える、説明が付いている部分を他にも探してみました(*´艸`*)

「イエズスはその人を群衆の中から連れ出し、その耳に指を入れ、またその舌に触れ、天を仰いで吐息をつき、『エファタ』と言われると、ーそれは開けよという意味であるー」

「そのとき一人の貧しいやもめが来て二レプタを投げ入れた。それはアサリオン貨の四分の一にあたる。」

「種なしパンの祭りの最初の日ーそれは過越の子羊をほふる日であるー」

これらもそれに当てはまりますでしょうか?

デオ・グラチアス!

【お返事】
すごい! 聖マルコらしい、ユダヤ言葉や習慣を説明して言い換えているところを良く見つけましたね!うれしく思います!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

昨日、一昨日と聖ヨゼフ様の大祝日の御ミサ、終課、朝ミサなど本当にありがとうございました!!
今年は聖ヨゼフ様の祝日の御ミサが東京であって、東京はすごい御恵みだなぁと思っていたのですが、小野田神父様がとても大きなボーナス御ミサを加えて下さり、仕事も聖ヨゼフ様の御取り次ぎでうまく都合をつける事ができ、大変な御恵みを頂くことができました!デオ・グラチアス!
小野田神父様は大阪→東京→大阪と大変ハードなスケジュールだったと思います。私たち日本信者の為にいつも本当にありがとうございます!m(_ _)m

この御恵みによって、日本に、これほどまで隠れた偉大な聖人である聖ヨゼフ様への讃美と感謝と崇敬がますます広まりますように!そしてその為に聖ヨゼフの小さき信心会がますます発展しますように!
去年は、この聖ヨゼフ様の祝日に大阪の聖母の汚れなき御心教会の建物を準備して下さいましたので、聖ヨゼフ様に感謝と、そして今年は更に日本に司祭の常駐の御恵みをお取次ぎをお願い致しました(*^_^*)エヘヘ

日本でますます聖ヨゼフ様の御名が尊まれますように!
聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え!

イエズス様の御憐れみと、マリア様の御助けによって、私たちがイエズス様をもうこれ以上悲しませる事がないように、私たちがイエズス様の死を望む事がないように、罪の本当の恐ろしさを理解することができますように、そしてむしろイエズス様をお慰めする方に回る事ができますように。

デオ・グラチアス!



【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

日本でのミッションをありがとうございました。特に3/20の聖ヨゼフ様の大祝日には、東京と大阪で御ミサをお捧げくださいました。
大阪へのリターンミッションは、どれほど神父様を疲れさせる犠牲となるにもかかわらず!
天主様に感謝!インマクラータに感謝!聖ヨゼフ様に感謝!
小野田神父様に感謝申し上げます!

所感をご報告申し上げます。

【所感】
四旬節第二週の土曜日は、書簡は創世記27章の「ヤコブとエザウ」について。聖福音はルカ15章の「放蕩息子のたとえ」でした。
小野田神父様は、今日の書簡と聖福音は「選み」と「憐れみ」についてであるとおっしゃいました。
ヤコブは母レベッカの言うとおりにしたので、父イザアクから祝福をもらいます。私はこの箇所が大好きです。
最初、この27章を読んだときには、レベッカの言うとおりにして、ヤコブがイザアクを騙すことになったのに、エザウが気の毒だし、いったいどんな意味があるのかわかりませんでしたが、その疑問は小野田神父様がこれまでのお説教で解決してくださいました。
父イザアクは天主聖父で、レベッカは聖母マリア様、前半のエザウはイエズス様、ヤコブは私たちを表している。世継ぎの権利を持たなかったヤコブ(私たち人間)は、レベッカの言うとおりに実行することで、世継ぎとなることができること。
レベッカは「2頭の山羊を持っておいで。私がお父さんのために、お好きな料理を作ってあげよう。」と言います。この2頭の山羊は私たちの霊魂と身体を表すこと。
マリア様に私たちの霊魂も身体もお捧げすると、聖父のお気に召すように美しく整えてくださるということ。
レベッカはエザウの一番良い服をもってきてヤコブに着せ、エザウの毛深さを模すために、毛皮をヤコブの首と手に巻いた。毛は徳を表しており、エザウ(聖子イエズス)は毛深く、つまり徳に満ちている。その毛=徳をまとうことで、イザアク(聖父)はエザウ(聖子イエズス)だと思ってくださるということ。
服の匂いを嗅いで、「ああ、これは私の愛する聖子の匂いだ」と罪人の私たちを抱擁してくださるのだと。
聖父は「声はヤコブ(=私たち罪人)だが、手はエザウ(聖子イエズス)だし、服の匂いもエザウ(聖子イエズス)だ」と言って、祝福を与えられるということ。
私たちは、イエズス様の徳をまとい、服を着て、マリア様に霊魂と身体を捧げて、聖父のお気に召すようにしていただくことで、聖父に救霊の祝福を、天国の世継ぎを与えられるということ。後半のエザウが遅れて、イザアクの前に行くところは、エザウは約束の民であったユダヤ人を表し、ヤコブは新約の救霊を約束された全ての人を表していることなどでした。
今回のお説教で、民族や長子権は救霊予定の理由にはならないこと。御摂理は異邦人をも罪人をも救うことを望まれている。「選み」はまさに御摂理であって、神秘であると理解できました。

これは↓、家族が黙想したことなのですが・・・
レベッカが「子よ、その呪いは私が引き受けよう」と言ったのは、マリア様が贖いの共贖者として苦しまれることの前表では無いか?と。
イエズス様が罪が無いにもかかわらず、罪そのもののごとくに罰せられたように見え、あたかも天主の呪いを受けたかに思えるほどだったからだと。(^_^;)

「放蕩息子」のたとえは、ルカによる福音の特徴である「天主の憐れみ」をまさに表しています。
聖福音をラテン語で朗読なさっている時に、日本語を読んでいて、涙が溢れ出ました(^_^;)
小野田神父様の聖書の公教要理で、四福音史家のそれぞれの特徴、違いなどを教えていただいたので、「ああ、今日のマテオの聖福音のこの箇所は、まさにマテオがユダヤ人に向けて書いたと良くわかる!」などと理解が広がり、また深くなりました!
この「たとえ」では、聖父は放蕩息子である私たち罪人が帰ってくるのを待っておられて、まだ遠くにいるのを見つけて、憐れみ、走っていってその首を抱いて接吻してくださる。
服はしばしば天国にふさわしい徳を表していて(煉獄の霊魂、地獄の霊魂はしばしば裸で描かれている)、指輪は世継ぎとしての相続を表し、靴は奴隷でないことの証し(罪の奴隷からの解放)を表していると、これまでのお説教で教えてくださいました。
「肥えた子牛を屠る」とは御聖体を表していると、今回のお説教でお話くださり、ああ!そうだったのか!と思いました。
放蕩息子は自分の行いを心から痛悔し、「雇い人のひとりにしてください」と言おう思って、謙遜にへりくだったから、聖父は走ってきて赦してくださったのだと思います。
イエズス様の十字架の右の善き盗賊も、自分の罪を心から痛悔し、イエズス様が天主として認め、「イエズス様が天国に入られる時に、自分のことを思い出してください」と
謙遜に願ったために、イエズス様は天国をお与えになりました。謙遜はどんなに重要なことかと思います。
自分を放蕩息子であると思い、放蕩息子のように、自分の罪を深く、心から痛悔し、謙遜にへりくだる御恵みをマリア様に御取り次ぎを願います。

童貞マリアの浄配なる聖ヨゼフの大祝日には、四旬節でありながら、カズラも祭壇も白、お花も飾られました。キリアーレも2番で、グロリアも歌い、クレドも歌いました。
この日の神父様のお説教で、さらに聖ヨゼフ様の御力のすごさを教えていただきました。
聖ヨゼフ様のこの地上での謙遜、天主の聖旨への完全なる従順、イエズス様とマリア様への愛は計り知れず、いま天上で聖ヨゼフ様に与えれらている栄光も計り知れないのだなあと思いました。
旧約のヨゼフは貞潔を守り、エジプトのファラオに仕え、新約のヨゼフは童貞マリアの証人となり、天主、王の王であるイエズス様に忠実に仕えた。
旧約のヨゼフは夢の神秘を解いたが、新約のヨゼフは天主の神秘に参与し、深く入り、その神秘を生きた。
旧約のヨゼフは穀物を蓄えたが、新約のヨゼフは生ける天のパンである幼きイエズス様を私たちのために守った。
旧約のエジプトの民はどこを探しても穀物を見つけることができなかったのに、ヨゼフの倉には穀物が豊かに蓄えられていた。
現代の私たちは、どこを探しても「御聖体」「マリア様への信心」を見つけることができないが、聖ヨゼフ様こそ、その宝庫に「御聖体に対する愛」を、「マリア様に対する愛」を持っておられる。だから "Ite ad Joseph" 「聖ヨゼフのところへ行け」なのだと。

ファチマの最後の御出現10/13の太陽の奇蹟の日に、ファチマのマリア様は幼きイエズス様をおだきになった聖ヨゼフをお連れくださいました。
ファチマ100周年の今年、シュテーリン神父様は「秋田でマリア様がお待ちです。」とメッセージをくださいました。
ファチマでもマリア様が、そして聖ヨゼフ様がお待ちだと思います。
ファチマのまことの使徒として生きるために、その聖寵をいただくために、ファチマ巡礼の御恵みを願います。

3/21(火)の四旬節第三週の火曜日の御ミサの書簡は列王記下4章でした。
「増え続ける一びんの油は、天主の憐れみ、赦しは無限であることの前表である」と、聖福音の後に、一言だけのお説教をしてくださいました。
読誦ミサに与る少ない信徒への慈父のお心、本当にもったいなく、ありがたく存じます。

日本、フィリピン、韓国・・・
休む間もなく、各国の小羊たちなる信徒たちに聖なる御ミサを与えるために、霊魂の救霊のためだけに、
ご自分の身体に鞭打って、多大なる犠牲とともにミッションをしてくださる小野田神父様を、どうぞお護りくださいますように。どうぞお助けくださいますように。
インマクラータ、聖ヨゼフ様に懇願いたします。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

トマス小野田神父様

小野田神父様に福音史家聖ルカの講話をしていただき、わかったこと、もっと知りたかったことを簡単ですが、まとめてみました。

(わかったこと)

いつもとても貴重な講話ありがとうございます!

今回、聖マタイ、聖マルコに続いて、聖ルカの人となり、その福音書の特徴について、聖マタイ、聖マルコとの比較を通して、お教えいただきました。
私はこれまでマタイ福音書、マルコ福音書そしてルカ福音書は共観福音書ということで、この3福音書については共通する記述が多く、似たような表現があるというくらいの認識しかありませんでしたが、実はその3人の福音史家の出自、職業、執筆対象など3者3様であり、そのあたりを理解して読むとさらに深い読み方ができるということがわかりました。

聖マタイは12使徒のひとりでイエズス様にも実際に仕えられたユダヤ人の取税人ということであり、内容が旧約聖書で語られていることが成就されたという記述が他の福音書に比して多く、パレスティナのユダヤ人の宣教を想定した福音書といえるということでした。

また、聖マルコはイエズス様にはお会いになることのなかった異邦人というこどで、聖ペトロの御説教の影響が強くみられ、一方、その特徴として奇跡譚が最も多く、ローマでの布教を意識したものということでした。個人的な印象として最も読みやすいとの印象が昔からありましたが、私も異邦人のひとりであり、そういうものとして理解することができました。

そして、今回の聖ルカですが、アンティオキアに長く住んでいた非ユダヤ人のお医者さんということであり、ユダヤ人のことを「彼ら」とか「あなたたち」というように自らユダヤ人ではないということをほのめかす距離を置いた描写からもそれは見受けられるということでした。
また、福音史家の職業が聖書の御言葉に反映されているのも興味深いと思いました。
具体的には、救いは異邦人にも及ぶという教えを、聖ルカは「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。」(ルカ6:32)と記述しておりますが、一方、おそらく同じ箇所を取税人の聖マタイの記述によると「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。」(マタイ5:46)とされ、あえて、自らの職業を聖マタイは引き合いに出しています。聖マタイは12使徒の弟子だったということですので、イエズス様が敢えて取税人という言葉をお使いになられた可能性は高いですが、聖ルカはそれでも罪人と言い換えているところに
同じ教えであっても自らの出自や職業が反映されているかもしれないということに興味を惹かれました。

一方、ユダヤ人たる聖マタイの選民思想が見え隠れする記述もマタイ10;5、同15:21~15:28にあり、出自というものは軽視できないと思いました。
同じような内容を敢えて出自や職業の違う福音史家に述べさせた天主様の配慮は私たちの想像をはるかに超えたものでありますが、その一端を垣間見た思いです。
これから福音書を拝読するのがさらに楽しみになりました。

(もっと知りたかったこと)
小野田神父様のお話はこのあと聖ヨハネと続きますので、どういう展開になるか、楽しみです。

小野田神父様の公教要理はいつも念を入れてご準備しておられ、お忙しい中、感謝以外の何もありません。

改めて御礼申し上げます!

デオ・グラシアス!



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様

四旬節第3主日の御ミサをありがとうございました。

四旬節第3主日では 「より強いものがやってくるならば かれはその  武器をすべて取って  戦利品を配るだろう。」について、お話しいただきました。
四旬節第1主日では 悪魔から誘惑を受けてそれを追い払うお話しでしたが、今回は 舞い戻ってくる七倍もの数の悪魔に対して ”より強いものがやって来る それはわたしだ”ということで、「イエズスが悪魔に対して攻撃する話」でした。イエズス様は 悪魔よりも強い!ということが 心に刻まれました。

その日 朝、イエズス様は 霊魂の城の主はわたしであると仰せられたように感じました。どうしてそのことを特に思い出させてくださったのかわからなかったのですが、御ミサに与って納得しました。お説教を拝聴して、悪魔がやってきて 空いている隙間に入り込もうとするが、霊魂の城の主はわたしだから わたしは悪魔より強い最強のものであるから、それをいつも忘れるな 悪魔に侵入されるな ということかなと 結びつきました。悪魔から誘惑を受けても それを追い払ってくださるのは 悪魔より強いイエズス様なのだということに 気づかされました。この心の中へ、悲しみ 苦悩 妬み そねみ 疑い 憂うつ この世の煩い など諸々の感情や思考が群れを成して押し寄せようとするのを防ぐことのできるのは ただただ 霊魂の実権を握っておられるイエズス様だけだということを思います。しょっちゅう挫けてしまう私は、常にイエズス様は悪魔よりも強い!とイエズス様だけに目を向けたいと思います。聖書のイエズス様の御言葉の 力強さに打たれます。

御ミサの間 ”ずっと 私たちの目はつねにずっと主に向けられている あわれみを受けるまでずっと主の方に目を向けられている、これからは 光の子として歩め”、と歌われていました。
”すずめは住まいを見出し、山鳩は、その雛を入れる巣を見つける。万軍の主、わが神、我が主よ、私のためには御身の祭壇がある。主の家に住む者は幸せである”(聖体拝領誦) と、感謝をお捧げしました。

そして、神父様がお話しくださったように、フェレイラ神父さまのためにたくさんの祈りと犠牲が捧げられたことを思い出し ファチマのマリア様が「誰も彼らの罪の代わりに償う人がいないが祈りと犠牲を捧げるものがあれば彼らの多くの霊魂は天国に行く 地上には平和がきて カトリック教会には栄光が与えられる」と 仰られたことを思い出して、自分こそ罪人であることに変わりなくとも 自身の足りない分はどなたかの祈りや犠牲によって救われるに違いないとも思いながら、それでも 私も 必要としてる人たちのためにこの祈りと犠牲がお使いただけますようにと、この後も出来る限りのこと 努めたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・

公教要理は 今日の聖福音の箇所にもあった聖ルカ福音記者のお話しでした。

聖ルカは アンティオキアの医者であり、非ユダヤ教徒から回心した人、肉で主と会っていない、聖パウロとともにずっと行動をともしていた弟子であり、救いは異邦人にも及んでいることや天主の憐れみの大きさをよく伝えてくださっていることなどが、特徴として挙げられる ということがわかりました。以下 「わかったこと」を列挙してみます。(まとまりなくてすみません)

聖ルカ福音書は 聖マテオ福音書・聖マルコ福音書の後に書き、使徒行録を書き終わる前(62年よりも前)に書いたもの。

聖ルカの福音書の中にだけあるエンマウスへの道すがら主と出会う二人の弟子のうちクレオパという名前は出てくるが、もう一人の名前が出てきていないので、聖ルカがこのもう一人の弟子ではないか、という人もいる。(聖エピファノや大聖グレゴリアなど)。

キリスト教徒は 最初「ナザレト派」と呼ばれていた。この聖ルカのアンティオキアにて 初めてクリスチャンと呼ばれるようになる。

聖ルカはアンティオキアで洗礼を受けて トロアで聖パウロと出会い、フィリピに 6年間留まり、聖パウロとともにローマにも行き、聖パウロの殉教まで最後までずっと行動をともにしていたが、聖ルカ自身の最期に関しては情報が足りなくて分かっていない。聖ルカの最後の晩餐の描写は聖パウロの描写に似ていて 同じ単語175語が共通している。

聖ルカ福音書の書き出しは、当時の医学書の「ディオスコリデス Dioscorides」(De Materia Medica) の書き出しとそっくりである。「尊いテオフィロ様」という書き出しの真似ができるのは医者だろう。聖ルカ福音書と使徒行録はこの医学書を真似て書かれている。そして 病気についての描写が詳しく書かれている。医者ならではの関心があった。病気を知り 医者ゆえの病名の違いも書かれていて、人間の心理の描写もすごい(放蕩息子の話など)。ギリシャ語の使い方もうまくて、完璧で、確かに教養のある医者の書いたものらしい。

なお、「尊きテオフィロよ!」のテオフィロとは誰なのか?には二説あり、聖アンプロジオやオリゲネスなどにより テオフィロとは天主を愛するものという意味の言葉で文学的虚構とする一方で、現代の学者達のなかには実在の人物と捉える人もいる。

また聖パウロが強調したことは「救いというのは異邦人にも及ぶ」というのであったが、その聖パウロの弟子らしく聖ルカは異邦人が救われるということについてよく書いている。(御復活の後のイエズスの関心は「救いは異邦人にも及ぶ」ということ。これは ユダヤ人が救い主を受け入れなかった事実のゆえかなと。)

救いが異邦人にも及ぶものだということを強調していることを よく表していることの一つに、系図の挿入があり、聖ルカはイエズスから遡ってアダムまでを書いている。聖マタイはアブラハムの子からイエズスに至るまでの系図を順序立てて書くことにより、アブラハムの子孫のユダヤ人の血統のものが救い主イエズスによって救われるという旧約の予言が成就していることをあらわしている。聖ルカによっては アダムからでるすべてのものが救われる、つまりイエズス様は全人類の救い主だということがあらわされているともいえる。(この説明を伺って、これまで謎だった二つの聖福音書における系図の扱いが異なっていることの理由がよくわかりました。)

(聖マタイがユダヤ人のために福音書を書いたというのは「イエズス様ご自身が まず始めにユダヤ人を救うために来られた」という事実によるのだということ。聖マタイ福音書は、イエズス様の直接の弟子として イエズス様ご復活の後のごく初期に書かれた福音書として、その内容もユダヤ人を対象としたものである、という前回学んだことが、ここにきてようやく本当に納得できました。)

他にも 聖ルカが異邦人のために書いたということがよくわかることをたくさん説明していただきました。例えば マタイ10:5 「あなたたちは異邦人の所へ行ってはならない」を聖ルカは書いていない。マタイ15;24 でのカナンの女という異邦人の女を無視した描写も 聖ルカにない。

もう一つ聖パウロや聖ルカが強調していることは、主の憐れみの深さであること。天主様が私たちを赦したいと望まれていて、罪を赦すため無限の憐れみを持っているということがたくさん書かれている。一匹の羊を捜しに行き肩に乗せて戻ってくる話や 失くした一枚の金貨を徹底的に探す話や 放蕩息子の話など。

また、聖ルカは 聖マタイと同様に その著述の中で 自虐的表現(?)を使っている。聖マタイが 自分の職業である税吏ということを引き合いに出して天主の憐れみを強調するために用いたということを 前回教えていただきました(マタイ5:47)が、聖ルカも 「医者よ、まず自分自身を治せ」という表現を用いて書いている など。

尚 出席者からの「ユダヤ人はユダヤ教を何故布教しようとしなかったのか?」という質問に対して、ユダヤ教というのは救い主が来るという約束を実現させるということ、”来るべき救い主が来る” その方を待つというところにポイントがあった と教えていただきました。「当時ユダヤ教のみが真実の宗教であったが、救い主を待たねばならなかった」。

お話を伺い、共観福音書の書かれたそれぞれの背景や時間的経緯や相違について いろいろと見えてきたように思います。聖マタイ福音書は 直接イエズス様から三年半の間み教えを受けた聖マタイがユダヤ人のために旧約聖書からの引用を駆使して最初に書いたもの、聖マルコ福音書は 聖ペテロの弟子で通訳でもあった聖マルコが聖ペテロの代わりとして奇跡の話を数多く書いてローマの人達に向けて書いたもの、聖ルカ福音書は 聖パウロの弟子の聖ルカが医者としての教養を持って主の憐れみを強調して異邦人に向けて書いたもの、というふうに捉えてみました。次回も楽しみです。神父様 いつもありがとうございます。

デオ・グラチアス!
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“Ecce nunc dies salutis.” 「見よ、今が救いの日だ。」

2017年03月22日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年3月5日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年3月5日(主日) 四旬節第1主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年3月5日、四旬節第1主日です。今日のミサの終わりにいつものように感謝の祈りを致しましょう。

その後に灰の水曜日、この前の水曜日に灰の式を受ける事ができなかった方の為に、灰の式を行いたいと思います、毎年のようにやりたいと思っていますので、どうぞ聖体拝領のように並んで、そしてどうぞ公教会の精神に従って灰を受けて、改悛の念を奮い起こし、特別の祝福を受けて、聖なる四旬節を送るようになさって下さい。

今日は14時30分から公教要理がいつものようにあります。今日は聖書の続きで、福音書を書いた4人の福音史家が一体どのような人で、一体いつ、どこで、誰がどうやって書いたのか、何で福音書はこのように似ているのだけれども違いがあって、どこがどういう風に違って、どんな特徴があるのだろうか、何故だろうか、という事を皆さんにお話したいと思っています、どうぞいらして下さい。

16時からは晩課があります。明日も朝の7時からミサがあります。

次のミサは3月19日です。

残念ながら公教会の新しい典礼では無くなってしまいましたが、今週の水・金・土は四季の斎日です。四旬節の四季の斎日で伝統的には大小斎を行っていました。日本では小斎だけになっていましたが、また四旬節中の全ての金曜日は、伝統的にはピオ12世教皇様の時代には大斎を守っていました。聖ピオ十世会でも会員はこれを守るようにしています。

これは厳密な意味では義務ではありませんが、皆さんを四旬節の精神の中の1つとして、できれば大小斎を捧げて下さるようにお招き申し上げます。



“Ecce nunc dies salutis.”
「見よ、今が救いの日だ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、遂にやって来ました。私たちの待ちに待った、特別の公教会のボーナスセールスの日がやって来ました。教会は既に夜明けに来ました。太陽が高く、お昼になるまで高く上がるのが聖霊降臨だとすると、日がちょうど水平線から上がるのが復活祭、その復活祭をすでに予測させる、空が白んで来た暁、もう朝だ、という救いの日が今から昇ろうとしている、その日の訪れが今日やって来ました。なんと嬉しい事でしょうか。

今日は、教会は四旬節の第1主日に、一体何を私たちに招いているのでしょうか?私たちをどこに招待しているのでしょうか?

その次に第2点に、この四旬節には一体、誰の後を付いて、どんな模範に従って、どのように過ごさなければならないのでしょうか?それを黙想する事を提案します。

第1のポイントは、今日は救いの日の始まりの予告の日です。そこで教会は「指定巡礼教会」という特別の教会を特別の日に定めています。今日は教会は私たちを霊的に、「救世主大聖堂」つまり「ラテラノ大聖堂」に私たちを招いています。その中に、「救世主大聖堂の中に霊的に入るように」と招いています。一体何故でしょうか?

何故かというと、ラテラノ大聖堂は同時に、「救い主」という名前があると同時に「洗礼者聖ヨハネ聖堂」とも言われているからです。何故かというと、その横に大きな洗礼盤があって洗礼を受ける所があって、「洗者聖ヨハネと救い主イエズス・キリストがいつも一緒になっている」という事を示しているからです。つまり今日教会が私たちをここに招くのは、「救い主の中に入れ」という事と、それと同時に「救い主と共に、私たちも祈りと犠牲の砂漠に行くように、その中に入るように」と招いています。と同時に、洗者聖ヨハネもここで出てきます。洗者聖ヨハネも砂漠に居て、祈りと断食と犠牲を捧げた人でした。

40日後、復活の徹夜祭に教会はもう一度、私たちをラテラノ大聖堂に呼び寄せます。今度は復活の時です、勝利の時の為に呼び寄せます。

この40日間、私たちは主の中に入るという事を招かれていますけれども、一体何の為でしょうか?断食をする為だけなのでしょうか?そうではありません。もちろん断食も大切ですけれども、更に私たちの霊魂を浄める為に、罪から浄める為に、そして私たちの自己愛や自分勝手や、或いはあってはならないような欲望を浄めて、むしろ主のお望みに、主の掟に従ってより清い生活をする為です。私たちの生活を、この地上での生活を聖化する為です。

そこで聖パウロも、特別の招き、招待の叫びを、今日は私たちの耳に響かせています、「見よ、今日は救いの日だ!その日が始まる」と。「私たちはその御恵みを無駄に受けたのではなかった!」

聖パウロは特にこの書簡の終わりの方でこの2つの事を対比させます、「外見は貧しく見えるけれども、内的には豊かだ。外的には私たちはこんなに苦しんでいる、しかし内ではこんなに富んでいる。外的には私たちはあたかも死んだかのようだ、しかし私を見よ、私たちは生きている。外的には辱しめられている、しかし内的には栄光と喜びに満ちている。」

まさに私たちにも、このますます外的なものには犠牲と償いによって、地上のものからの愛着を取り除き、地上のものから離脱し、或いは四旬節の捧げ物でその誰かを助けたり、愛徳の為に誰かに与えたり、或いは奉仕をしたりすると同時に、祈りを以て私たちを内的に豊かにする、と招いています。

では、至聖救世主大聖堂の中に深く入って行きましょう。私たちの一体モデルは誰でしょうか? 私たちは一体誰の模範に従ってこの40日を過ごせば良いのでしょうか?

福音は私たちにイエズス様の姿を見せます、「イエズス様が40日40夜断食をされた。何も口にされなかった。そして祈りを捧げていた」という事を私たちに見せます。そればかりではありません。このイエズス様が空腹を感じられた時に、しかも「悪魔から誘惑を受けた。しかし、その誘惑から勝利者として出てきた。誘惑に打ち勝った」という事が語られます。これこそ私たちが従うべきモデルです。

愛する兄弟の皆さん、もしかしたら私たちは今まで、主に犠牲を捧げる償いを捧げるという時に一人でやろうと頑張っていたかもしれません。しかし教会は、特にこの四旬節の時には、「イエズス様と共に四旬節を過ごすように」と招いています、イエズス様と共に断食をするように、大小斎をするように招いています。

昔の、聖ぺトロのそのすぐ後の教皇様に聖クレメンテがいます。この聖クレメンテは既に教会法の中で、「司教であれ、司祭であれ、助祭であれ誰であれ、侍者であれ誰であれ、40日間のこの四旬節の時に断食をしない者はその司祭職から、それから聖職から除かれる」と書かれていました。「もしも平信徒であれば、もしも断食をしなければ罰せられる」などと書いてありました。聖アウグスティヌスを始め、古代の教父たちは皆口を揃えて、「この四旬節というのは、40日間主に真似て断食をするというのは、主と共に主を真似て断食するというのは、教会の初代のこの習慣であって、使徒が定めたものだ」と断定しています。

私たちはそのような断食をする事ができませんけれども、しかし私たちは罪に関する断食、罪の機会から身を遠ざける事、或いはちょっとしたおやつや、ちょっとした快楽、ちょっとした楽しみを放棄する事ならできます。これを教会は、「イエズス様と共にするように」と招いています。「イエズス様の断食に私たちも参与するように。イエズス様と一致して断食するように」と。何故でしょうか?

何故かというと、そうする事によって初めて、私たちもイエズス様と共に勝利者となる事ができるからです。私たちはこの四旬節の間、色々誘惑を受ける事でしょう。自分の欲望を満足させたい。罪の誘惑、或いは天主の掟よりも自分のやりたい事をやりたい。自分の義務を果たすよりは、自分の面白おかしい事をして遊んでその義務をサボりたい。或いは嘘をつきたい、そうすれば何か自分が困った事から逃げられるから。或いは屈辱を受けた。或いは日常の小さな十字架、辛さ、悲しさ。或いは自分の思い通りにいかなかった。或いは事故になった、怪我をした、病気になった、或いはその他何か私たちにとってうまくいかない事があります。

そのような事も教会は、イエズス様と共にそれを捧げるように招いています。何故かというと、そうする事によって初めて、イエズス・キリストと共に勝利者となるからです。

私たちは一人ではありません。カトリック教会という、とても勝利を約束された、たとえ死んでいるかのように見えたとしても生きている、たとえこの貧しいかのように見えても豊かな、天の王国の一員として天の王国の一部として戦っているからです、罪と戦っているからです。もしも私たちが罪を犯してしまうと、それは教会全体に泥を塗る事になってしまいます。しかし私たちが小さな犠牲を捧げる時に、私たちが祈りを捧げる時に、私たちが誘惑に打ち勝つ時に、善徳の聖徳の生活を送ると、それは教会全体を捧げる勝利の飾りとなります。

イエズス・キリストは頭として戦って私たちの戦いをリードしておられるので、私たちはその後を従って行かなければなりません。今はちょうどその暁で雲が白やんでいるだけで、私たちはその戦いに招かれているだけかもしれませんが、復活祭の時にはその勝利が与えられます。

そこでちょうど今日教会は、詩編の90番を何度も私たちに聞かせました。入祭誦や或いは昇階誦、そして詠誦、そして聖体拝領誦でも言います、「私たちは戦う、しかし戦う道に行くとあまりにも攻撃がひどいので、右には1000人倒れ、左には1万人倒れ、私たちは悪魔の上をその踏み潰して歩いて行く。敵からの攻撃はあるけれども、私たちは誰も恐れない。何故かというと主が、天主よ、あなたこそが私たちの避難所であるからだ。天主の翼が私たちを陰で隠し、その翼の陰は私たちを隠して、天主が私たちを守ってくれるから。主こそ私たちの救いの楯だ。」

教会は私たちにますます、「至聖救世主の中に入るように、イエズス様の後を従うように、イエズス様と共に四旬節を過ごすように、イエズス様と共に祈りと犠牲を捧げるように」と招いています。そしてその時に、「イエズス様と共に勝利を受けるように」と。

では今日どのような決心を立てたら良いでしょうか?2つ提案致します。

1つは、まず今日四旬節の良い遷善の決心を立てて下さい。四旬節、私たちはイエズス様に何を捧げる事ができるでしょうか?私たちはこの一体、この主の戦いのどの部門で戦おうとしたら良いでしょうか?

私たちの祈りの生活はどうでしょうか?朝と夕の祈りや、ロザリオの祈りはちゃんとどうやったらできるでしょうか?ロザリオの祈りも、しかもちゃんと黙想してできるでしょうか?或いは1日に何分か黙想の時間を取る事ができないでしょうか?或いは霊的な読書をする事ができないでしょうか?例えば今年はファチマの年の時ですから、ファチマについて本を読む事ができるのではないでしょうか?

或いは私たちはどんな犠牲ができるでしょうか?日常の生活の義務を犠牲としてどうやって捧げたら良いでしょうか?シスタールチアは言っています、「子供の頃から私はいつも、マリア様の汚れなき御心の為でなければ何もしなかった。全てはマリア様の汚れなき御心を愛する為にしてきた」と。私たちもそれを真似て、「マリア様の汚れなき御心の為に、或いはイエズス・キリスト様の聖心を慰める為に、この四旬節の全ての時間を使いたい、日常の全ての事をそれに捧げたい、その為にその意向で捧げたい」と決心するのはいかがでしょうか?

どうぞ良い遷善の決心を立てて下さい。そしてその遷善の決心を、ちゃんと四旬節の決心を守る事ができたかできなかったか、吟味なさって下さい。もしもできなかったら、ますますできるようにマリア様にお願いなさって下さい。何故かというと、犠牲を捧げるというのは口で言うのは簡単ですけれども、実際にそうだというのは決心がないとなかなかできないからです。

第2は、私たちは時々苦しい、或いはちょっと誘惑に負けてしまいそうだという時があるかもしれません。その時には是非、イエズス様とマリア様を思って下さい。何故かというと、イエズス・キリスト様とマリア様と共でであれば、私たちは誘惑などへのかっぱであるからです。この詩編の言われたように、「主こそ私たちの、あなたこそ私たちの避難所である。」マリア様は言われました、「私の汚れなき御心はあなたの避難所であり、天国へと導く道であります」と。そして天国に行って既に勝利されているイエズス様とマリア様をいつも思って下さい。復活は間近に待っています。必ず大勝利の日が来ます。

そこで飛行機の中で来る時に、ちょうど新聞にあったアメリカの大統領の話をするのを許して下さい。アメリカの大統領が、初めて大統領としてアメリカの議会でおこなった演説を読みました。

きっとそれと同じような事が最後の日に行われるだろうかなという事を、その将来私たちの為に準備されている事から見れば、この数日前にあったアメリカの議会であったのは、全くその儚い影であるかもしれません。

イエメンで戦った、特別の作戦部隊のチーフのウィリアム・ライアン・オーウェンズ上等兵が、この作戦中死亡するのです、戦闘中に。それが大統領としての最初の犠牲者であって、そして大統領はその未亡人を議会に呼びました。その未亡人を自分の一番の愛娘のその隣に座らせて、そして議会のスピーチの最後に、「私たちはこのキャリン・オーウェンズさんと同席してとても栄誉に思う」と言うのです。何故かというと、この「彼女の夫ライアンは私たちの国の為に戦った!彼は軍人として、ヒーローとして、英雄として生き、そして死んで行った。彼のその功績は永遠に私たちに刻まれている!」と言うと、皆が総立ちになって拍手をするのです。

その未亡人は、最初はそのような事を聞いて一体何が起こったのか分からないようにするのですけれども、皆が拍手をして止まらないのです。アメリカの議会の記録を作ったほどの拍手喝采があって、皆が総立ちになって、そしてもうその婦人はもう涙に顔をびしょびしょにさせて、そして天を見上げて何かをつぶやいているのです。

ところで、これよりも更に素晴らしい事が私たちの為に起こります。イエズス様が、天の大宴会でものすごい荘厳な儀式の中で、王の王として、私たちをその女王マリア様の隣に座らせて、全ての天使たちと全ての聖人たちを呼び集めて、「私は今日、この日本の聖なる殉教者教会に来たこの人々、」人々の名前を一人ひとり挙げて、「彼らに対して一言感謝したい。このカトリック教会の為に、私の聖なる教会の為に、私の花嫁である教会の為に、彼らはこのような祈りと犠牲を捧げてくれた。その彼らの捧げた、人知れずに陰で、しかし愛と心を込めて捧げられたこの多くの犠牲は、多くの霊魂たちを救った!ここにさぁ、これらがこの救われた霊魂たちだ!そして彼らのこの寛大な英雄的な犠牲と祈りのこの業は、特にこの今年の四旬節の業は永遠に決して忘れられる事はない!」と言うと、皆が総立ちになって拍手喝采をして、もう何分も何分もあって、「あぁ、私たちは一体どれほどの事をしたのか?イエズス様が助けて下さったから、したのですけれども…」と。

しかし、このような事が素晴らしい事が起こるという事を確信して下さい。イエズス様の教会は必ず勝利します。私たちはその復活の今、夜明けに立っています。そしてイエズス様は私たちをも招いて、「さぁ一緒に戦おう。私と共に勝利の冠を受け給え」と招いています。

ですから愛する兄弟の皆さん、イエズス様と共にマリア様と共に、この至聖救世主大聖堂に行って、そしてイエズス様の後に従って、40日間、祈りとそして犠牲を捧げ、多くの霊魂と私たちの聖化の為に、主の栄光の為に、良い四旬節を送る御恵みを乞い求めましょう。

“Ecce nunc dies salutis.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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" Extreme Unction " by Fr. Laisney SSPX

2017年03月17日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話、「終油」についての【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Sunday 12th March – Osaka - Extreme Unction

My dear Brethren,

We continue our study of the Seven Sacraments, with the Sacrament of Extreme Unction. It is a dogma of faith that our Lord Jesus Christ instituted this Sacrament. The Council of Trent indeed defined that there are seven Sacraments of the New Law, including Extreme Unction, and that all these sacraments were personally instituted by our Lord Jesus Christ. We see indeed in the holy Gospel that our Lord sent His apostles not only to preach but also to anoint the sick: “going forth they preached that men should do penance: and they cast out many devils, and anointed with oil many that were sick, and healed them” (Mk. 6:12-13).

Protestants deny that Extreme Unction is a sacrament. But St James is very clear in his epistle: “Is any man sick among you? Let him bring in the priests of the church, and let them pray over him, anointing him with oil in the name of the Lord. And the prayer of faith shall save the sick man: and the Lord shall raise him up: and if he be in sins, they shall be forgiven him” (Jam. 5:14-15). It is very clear that such anointing has a supernatural effect of grace capable to forgive sins and save a person, hence it is a Sacrament. When St James speaks of “being sick”, it is not a small sickness, a little indisposition, but rather a sickness that could lead to death. Hence the Sacrament is called “extreme unction”, though it does not have to be at the last moment.

By the institution of this Sacrament, our Lord Jesus Christ provided for the most important moment in our life, the moment of our death, that will seal our eternity. All our life should be a preparation for this most important moment: a holy life prepares for a holy death, and a life full of sin prepares for a frightful death in sins. Given such importance, it is not surprising that the devils make a supreme effort in these last moments to snatch souls. It is therefore necessary to have a very special help for such a special moment. The sacrament of Extreme Unction is the help our Lord Jesus Christ has provided for this most important moment: the end of our life.

The matter of this sacrament is the unction with the Oil of the Infirm, blessed by the Bishop on Holy Thursday during the Chrism Mass. This unction signifies clearly the grace of the Holy Ghost strengthening the soul and healing it. It is given on the five senses: the priest anoints the eyes, the ears, the nose, the mouth, the hands plus the feet for this last “crossing”, like the crossing of the river Jordan after the forty years in the desert at the moment of entering in the Promised Land. Indeed, these forty years in the desert after the crossing of the red sea signify our life on earth, nourished by the Holy Eucharist, following Christ in the spiritual desert of this world, on the way towards our Fatherland, i.e. Heaven.

The form of this sacrament consists in the words of the priest: “by this holy unction and His most pious mercy, may the Lord forgive you all the sins you have committed by sight / hearing / smelling / tasting and talking / touch”. This is the “prayer of faith” as St James said. The five senses are the doors of the soul; therefore, all sins are connected to one or the other of the senses.

Extreme Unction is a sacrament of the living, which means one should be in the state of grace in order to receive it. Hence the practice is that the priest would first hear the confession of the sick person and then after give extreme unction. But if the sick person can no longer confess his sins, for instance if he is in the coma, then that Sacrament has power to forgiven even mortal sins provided one had the proper attrition, the proper sorrow for his sins, before falling into such coma.

The grace of the Sacrament is taught in the words of St James: “the prayer of faith shall save the sick man: and the Lord shall raise him up: and if he be in sins, they shall be forgiven him” (Jam. 5:15). This Sacrament forgives venial sins and if necessary (in the case of inability to confess) even mortal sins; it remits the penalties due to sin and heals the soul; it comforts and strengthens the sick and gives great confidence in the mercy of God; it helps a lot to accept and bear the pains of the end of life, and unites them with the sufferings of Christ Crucified and through Him obtains a final victory over the devil. Sometimes, if it is useful for the soul, God even grants the healing of the body.

If one recovers, and then again becomes sick, he may receive again this sacrament. Even if the recovery is partial, and later the patient relapses in his sickness, this is considered a new danger of death and one can receive again this sacrament. But within one sickness, the grace of that sacrament persists through it: so it is good not to wait the last moment, but rather to benefit from this Sacrament as soon as the sickness could endanger one’s life.

The minister of this sacrament is the duly ordained priest (or the bishop): this is very clear in the words of St James. Some Protestants try to escape the clear meaning of the apostle by mistranslating the Greek word “presbyter” as “elder”: this is a secular translation and not a religious translation: it completely ignores that the very etymology of the word “priest” comes precisely from the Greek “presbyter”. This Greek word “presbyter” has been introduced into Latin and then passed on into present-day (European) languages by the Church, because it had been loaded by the Apostles with such religious meaning that the early Church wanted to keep that word as expressing a lot more than the secular word “elder”.

There are quite a few other Greek words in the New Testament that have also passed on into Latin and current European languages with their religious meaning and one would strip them of this religious meaning if he would return to the secular original meaning. This is the case of the word “episcopos” that has given “bishop” (the letters “p” and “b” are labials, hence the passage from one to the other) and one should not translate it by “overseer”. That would strip it of the religious meaning given to it by the Apostles.

Why did the Apostles then chose these words whose secular meaning seems far from their religious meaning? Because they wanted to manifest a clear-cut separation both from the Old Testament worship and from pagan worship. Hence, they did not use the words “hieros” for priest. But they chose words clearly pointing to the bishops and priests in the Christian community, but without any connection with pagan religions.

It is important not to fear extreme unction, but rather to ask for it, for it is a great help in sickness. Some people fear to hear about it, because it reminds them of death. But to bind oneself on the subject of death in no way helps a sick person, on the contrary. We all know that we should die one day. The church makes us pray: “from sudden and unprovided death, deliver us, o Lord!” A death is unprovided for, when one has neglected to receive this great sacrament. It is important to ask the priest to come and visit your friends and relatives who are sick, that he may anoint them if the sickness is dangerous to their life. This is a great act of charity towards a sick.

The visiting of the sick, the serving of the sick is a great act of charity, with a marvellous reward: “Come, ye blessed of my Father, possess you the kingdom prepared for you from the foundation of the world, because … I was sick, and you visited me:” (Mt. 25:34,36). One should not think of giving only material and physical consolation to the sick, but above all help them to carry their cross in a really Christian manner, in union with our Lord Jesus Christ. The best way to achieve this is to persuade them to accept the visit of a priest, in order to be anointed as St James said. One should not only pray for the sick, but pray with the sick.

The Blessed Virgin Mary is always praying with the sick; she is even closer to us at those moments, when we suffer, as the best of all mothers is close to her children when they suffer. She was at the foot of the Cross of Jesus, close to Him in His sufferings, and she is at the foot of the bed of every sick praying for him and helping him to unite himself with our Lord Jesus Christ. Suffering is a big mystery and difficult to accept; we need her help to accept him and offering it with Him.

This time of Lent, when we willingly take upon ourselves fasting and penances, should also be a time when we redouble our charity for the sick, alleviating their sufferings to the best of our abilities, and helping them to offer everything to the Most Holy Trinity for the glory of God and the salvation of souls.

Amen.
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