Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

「自分に対して他人が犯した罪を赦すこと」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年07月12日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「自分に対して他人が犯した罪を赦すこと」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年7月9日主日 大阪の説教 
自分に対して他人が犯した罪を赦すこと


親愛なる兄弟の皆さん、

本日の聖福音は私たちに、キリスト教の道徳についての非常に重要な点を教えています。それは、自分に対して他人が犯した罪を赦すこと、兄弟との和解についてです。「だから、祭壇に供え物を捧げようとするとき、兄弟が何か自分に対して含むところがあるのを思い出したら、供え物をそこ、祭壇の前に置き、まず兄弟のところに行って和解し、それから帰って供え物を捧げよ」(マテオ5章23-24節)。聖アウグスティノはこう述べています。「天主は、すべてのものをお持ちであるがゆえに、われわれの供え物をお望みにはならないが、われわれ自身を、われわれの心をお望みになり、われわれの心が隣人に対する愛を必ず含んでいる聖霊の愛に満たされるとき、それがまことに天主のものになることをお望みになるのである」。

この行って和解するという義務は、第一に自分の兄弟、自分の隣人に対して罪を犯した人に適用されますが、その罪の被害を受けた人にも適用されます。他人に罪を犯した人には、行って赦しを請い、犯した罪を謝罪し、それを償う義務があります。罪の被害を受けた人には、それを受け入れてその罪をすぐに赦す義務があります。主は、この赦す義務について何回も思い出させてくださいます。「立って祈るとき、誰かに恨みがあるならまずそれを赦せ。そうすれば天にいます父に自分の罪を赦してもらえる」(マルコ11章25節)。「あなたたちが他人の過失を赦すなら、天の父もあなたたちを赦される」(マテオ6章14節)。「あなたたちが赦さないなら、天にいます父も罪を赦してくださらぬ」(マルコ11章26節)。

赦しは弱さではなく、むしろ悪に対する善の勝利です。これについて聖パウロはこう言います。「誰に対しても悪に悪を返すな。天主の前でだけでなく、すべての人の前でも善いことを行おうと努めよ」(ローマ12章17節)。そして彼はこう結論します。「悪に勝たれるままにせず、善をもって悪に勝て」(ローマ12章21節)。そうしなければ、第一の悪に対して第二の悪を返すならば、悪循環に陥ってしまいます。相手が同じことをして第三の悪を返し、そのあと第四の悪と、互いに永遠に繰り返すでしょう。悪に悪を返すというこの悪循環を断ち切る唯一の方法は、聖パウロが今言ったように、悪に悪を返すのではなく、善をもって悪に勝つことです。これがカトリックのやり方であり、これがまことに私たちの主イエズス・キリストのやり方です。

隣人を赦すために、私たちは自分自身を捨てなければなりません。しかし、これは困難の源です。赦すということは、与えることの完成です。これはものを与えるだけでなく、天主をお喜ばせし、隣人との友情関係を回復させるために、自分の心を与え、自分の権利を捨てることなのです。私たちの主イエズス・キリストは、私たちに十字架上で素晴らしい模範を示してくださいました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)。隣人を赦すという行為そのものにおいて、私たちは、私たちの主イエズス・キリストが私たちのために持っておられた赦しの美しさと愛の深さを、小さな鏡で見るように知るのです。

進んで与えても、赦さない人々がいます。これでは十分とは言えません。主は、私たちにもっと高いレベルの完徳をお求めになっており、主の御摂理によって、主は時折、人が私たちに罪を犯すのを妨げられません。それは、私たちが隣人を赦す機会を持つようにするためです。私たちは、そのような機会があれば喜んでそれを受け入れることができますように!

罪を犯す機会でよくあるのは、言葉によるものです。うわさ話、あらゆる種類の批判、不正な告発や疑い、対象となる人に対する必要以上の非難といったものです。そのような言葉はすべて、私たちの隣人をひどく傷つけ得ますから、私たちはそのような悪しき言葉を言わないように自制しなければなりません。さて、これらの悪にはいくつか段階がありますが、私たちは最初からそんなことを言わないようにすべきです。うわさ話をすることは、第一の段階です。これは、たとえば新聞で詳しく報道された公人の悪や、自分の友人たちの仲間内で知られた悪のような、まことのかつ公の悪について話すことです。うわさ話をすることは、そんな話をするのに楽しみを覚えるかのように悪を楽しむことであるため、間違っています。これは明らかに悪いことです。もしそのような話題が挙がったなら、その悪を正すのを助けるために、少なくともその悪を行う人が正されるよう祈るために、私たちに何ができるかを問うべきです。私たちは、そんなうわさ話に対して、「この人はこんなことをした、あの人はあんなことをした」などと言って、うわさ話を追加しないようにすべきです。

第二の段階は、他人の隠された悪をあばくことによって、その人の名誉を毀損することです。このことは、私たちが一人の人による罪の被害を受けたものの、他の人々がそのことを知らない場合にしばしば起こることであって、私たちは他の人々に最初の人の罪について不平を言うのですが、彼らはその状況を正すのを助ける立場にはいません。これは二つの理由で悪いことです。まず、他の人々の悪について話しているからであり、またもう一つは最初の人の良き評判を貶めているからです。さらに言えば、人が傷つけられたとき、普通その人は自分の被害を大きいものにして、被害をよりひどく見せて、私たちに被害を与えた人物に悪しき意向を見る、といったことをする傾向にあります。そのような傾向は簡単に、悪しき言葉の第三の段階である中傷へと至るのです。

中傷は実際、さらに悪いものであり、彼あるいは彼女がしなかった別の悪を告発するのです。聖トマス・アクィナスはこう説明します。「そのような中傷は、その中傷を行なう者自身が悪人であるがゆえに起こり得るのであり、悪人たちは他の誰もが自分たちと同じようだと思う傾向にあるのである!」。彼らは時折、聖徳は不可能であると思っていて、公にされた罪では自分たちが告発できない人々を、隠された罪で告発する傾向にあるために、彼らは何もないところに悪しき意向を見る、といったことをするのです。聖トマスは言います。「それはまた、中傷を行なう者が他人に対して悪しき心構えを持っているという事実からも起こり得るのである。すなわち、もし彼が他人に傷つけられたとしたら、彼は大げさに、悪を大きくしてその人を告発する。また、もしある人が他の人になんらかの憎しみを抱いているとしたら、彼は、ほとんどの場合不当にも、その人のすべての行為を悪く解釈するであろう」。

中傷は大罪になり得ます。私たちが誰かをその人がしなかった重い罪で告発するならば、私たちは中傷という重い罪で有罪となります。私たちが誰かを小罪で告発するならば、その中傷は小罪に過ぎません。人の名誉を毀損することもまた、もし理由もなく隠された重い罪をあばいて公にするなら、大罪になり得ます。

聖トマスは、これらの罪は隣人の良き評判を貶めるがゆえに正義に反している、と説明します。私たちは他人が私たちに対してそんなことをするのを望みませんから、私たちも他人に対してそんなことをしてはなりません! 言うまでもなく、そんな罪は愛にも反しています。愛は、隣人の悪を気にすることさえしません。愛は「悪を気に[しない]」(コリント前書13章5節)のです。これらの罪の根っこには、しばしば傲慢があります。自分が他人より優れていると考えるがゆえに、他人を裁くのです。私たちは、まるでそれが唯一の正しいやり方であるかのように、他人が私たちが望むことをするように望みます。教会自体がルールを定めていないところでは、私たちは自分のルールを作ってしまいます。愛の根っこには、へりくだりがあります。なぜなら、「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)からです。へりくだる人は、自分のやり方をすぐに捨てて他人に合わせます。主が「人があなたを一千歩歩かせるために徴用すれば彼とともに二千歩を歩け」(マテオ5章41節)と言われるようにです。

別の種類の悪しき言葉があります。それは怒りの言葉、人を怒らせる言葉、辛辣な言葉です。そんな言葉は実際隣人を傷つけますが、その言葉は私たちの心の中の辛辣さを明白に示しているのです。主が、「口から出るものは、心から出たもので、これが人をけがす」(マテオ15章18節)と言われるように。

でも、もし私たちがそんな言葉、そんな中傷による被害者だとしても、悪に悪を返したり怒ったりせずに、むしろ天主に感謝すべきです。実際、私たちは救い主の次の言葉を思い出すべきです。「私のために、人々があなたたちをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言を言うとき、あなたたちは幸せである、喜びに喜べ、あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう。先人の預言者たちも同じように迫害された」(マテオ5章11-12節)。

ここまで私は、悪しき言葉について話しました。しかし、言葉は思いから出るものです。私たちは悪しき言葉を言ってはなりませんし、隣人に関して悪しき思いを抱くことさえもしてはなりません。それは、聖トマスによって「軽率な判断」と呼ばれているものです。つまり、不十分な証拠で他人を非難すること、必ずしも悪でないものを悪意に解釈すること、何もないところに悪しき意向を見ること、自分の考えにおいて他人の過失を誇張すること、そしてさらに悪いことは、隣人に悪しきことが起こるよう願うことです。私たちがそんな思いを言葉で表さないようにしたとしても、そもそもそんな思いをいささかも抱くべきではないのです。そんな思いを抱くことは、すでに罪深いことなのです。

それゆえに、私たちはそのような悪しき思いと戦うべきです。それと戦う最も良い方法は、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストを観想し、主とともに何度も「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)と繰り返すことです。私たちはイエズスの聖心に、「私たちの心を主の聖心と似たものにしてくださるよう」請い願うべきです。親愛なる兄弟の皆さん、私は皆さんに請い願います。私たち皆の間にそのような言葉がないように、またそのような思いさえもないように、そうすることで、主が私たちの間で統治してくださいますように。あわれみの御母、いと寛仁なる童貞である童貞聖マリアに、私たちを助け、私たちに聖母の思いを、汚れなき御心にあった思いを与えてくださるよう願いましょう。その結果、私たちの主イエズス・キリストが御父を愛され、私たちを愛されたように、私たちが天主と隣人を愛することを学ぶことができますように。アーメン。

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