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ローマ公教要理 使徒信経の部 第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(3)

2010年10月03日 | カトリックとは
第十章

第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(3)


20 教会に対する信仰の必要性

 最後に、なぜ教会に対する信仰が信仰箇条に加えられているのかを説明しなければならない。たしかに、人はだれでも理性と感覚をもって、教会つまり主キリストに身をささげ聖別された人々の集団がこの地上に存在していることをはっきりと見ており、ユダヤ人やトルコ人もそれを疑ってはいないのであるから、それを納得するために信仰は必要でないかもしれない。しかし神の聖なる教会に含まれる奥義のある部分はすでに説明し、また他の部分は叙階の秘跡のところで説明するが、この奥義を理解するためには信仰に照らされた心が必要であり、理性だけでそれを納得することはできない。このように、この箇条は他の箇条に劣らず私たちの理解の機能と力とを超えるものである。そのため教会の起源・役割・尊厳は人間理性によって知ることはできず、信仰の目によって見られるものであることを告白するのである。

21 教会に対する信仰の内容

 教会の制定者は人間ではなく永遠の神ご自身で、かれが不動の岩の上に教会をお建てになったのである(マ16:18参照)。ダヴィドは、「いと高きものがそれを固められた」(詩87:5)と言っている。そのため教会は神の遺産・神の民と呼ばれる(詩33:12、47:5、ペ①2:10参照)。教会の権能も、人間ではなく神から与えられている。したがって人間的な手段を用いてそれを得ることは出来ない。また教会が天の国のかぎをもっていること(マ16:19参照)、罪をゆるす権能(ヨ20:23参照)、破門する権能(コ①5:4参照)、まことのキリストの体を聖別する権能(ル22:19参照)が与えられていること、さらに教会の市民は地上に永住の都をもたず未来の都を捜していること(へ13:14参照)も、ただ信仰によって理解できるのである。したがって私たちは教会は一・聖・公・使徒継承であることを信じなければならない。

22 神に対する信仰と教会に対する信仰

 私たちは御父と御子と聖霊の三つのペルソナが私たちの信仰の究極であるという意味で三位一体を信じる。しかし教会に対する信仰の場合は違う。聖なる教会を信じるとはいっても、聖なる教会を信仰の究極としているのではない ( 訳注、Credo Ecclesiam 〔教会を信じる〕とは言っても、神に対する信仰の場合のように Credo in〔小辞 in の意味については本書の第九章4を参照〕とは言わない)。このような違った表現法は、万物の創造者である神とその被造物とを区別し、教会において与えられるすばらしいたまものすべてを神の慈愛に帰するものである。

23 諸聖人の通功

 聖ヨハネはかれの書簡の中で神の奥義について説明し、その説明の理由をつぎのように述べている。「あなたたちを私たちに一致させるために……私たちのこの一致は御父と御子イエズス・キリストとのものである」(ヨ①1:3)。この一致は、この箇条で取り扱う諸聖人の通功において行われる。教会の司牧者たちは、この箇条を説明するに当たって聖パウロおよびその他の使徒たちの熱心さをまねるようにしてほしい。なぜならこれは教会に関する説明の続きで、非常に豊かな実をもたらす教えであるだけでなく信経に含まれている奥義の応用の仕方を示しているからである。実際、あらゆる探求や考察は、これほど崇高で幸せな諸聖人の通功に加わり「聖徒たちの遺産にあずかるにたるものとされた父に、喜びをもって感謝」(コロ1:2)しつつ常にそこにとどまるためのものである。

24 諸聖人の通功と秘跡

 したがって、この箇条は前に述べた、一・聖・公・使徒継承の教会に関する箇条の一つの説明であり、そのことを信者たちに分からせなくてはならない。教会を導かれる聖霊は一つであるところから、教会に与えられるものはすべて共同のものである。

 諸秘跡の実はすべての信者に属する。そしてすべての信者は諸秘跡をいわば聖なるきずなとしてキリストに結ばれ、また互いに一致する。とくに教会に入る門ともいえる洗礼の秘跡においてそうである。

 この諸聖人の通功は秘跡による交わりであると解釈すべきで、このことは教父たちが信経に加えた、「唯一の洗礼を信じる」ということばによって示されている。ここでは洗礼だけが言われているが、しかし洗礼は他の秘跡、とくに聖体へとつながっている。つまりこの交わりは、私たちを神に一致させ恩恵をもって神の本性にあずからせるすべての秘跡によって表現されるのであるが、とくに御聖体の秘跡はこの交わりを完成する。

25 功徳を分かち合うこと

 教会にはもう一つの交わりがあり、それについても考察しなければならない。ある人が敬虔な聖なる業によって得るものはみな、すべての人のものとなり、自分の利を求めない愛によって(コ①13:5参照)すべての人に益するものとなる。聖アンブロシウスは「私は、主を畏れる者、あなたの命を守る者の仲間」(詩119:63)という詩篇の箇所を説明して、こう教えている。「肢体が体全体の善にあずかっているように、神をおそれるものはすべての善業にあずかる」。(13) そのためキリストはどのように祈るべきかをお教えになったとき、「私のパン」とは言わず「私たちのパン」と言うようにお命じになり(マ6:11参照)、私たちに自分のことだけでなくすべての人の救いと幸せを考えるように諭されたのであった。

 各自の善を与え合う交わりは、聖書ではしばしば人間の体の肢体という、もっとも適切なたとえをもって説明されている(ロ12:4~7、コ①12:12~26参照)。体には多くの肢体がある。しかし肢体は多くあっても一つの体を構成しており、すべてが同じ働きをするのではなくそれぞれに固有の働きをしている。またすべての肢体が同じ尊厳をもっているのではなく、また同じような利用価値をもち同じように目立った機能を果たすのでもない。さらに各肢体はそれぞれ自分自身のために働くのではなく、体全体のために働く。またすべての肢体は互いに密接に結ばれ、ある一つの肢体が苦しむと他の肢体も自然的なつながりと適応のために、ともに苦しむ。それと反対に一つの肢体が楽しむとその喜びは全肢体に及ぶ。同じようなことが教会にもみられる。教会にはあらゆる国の人々、ユダヤ人、ギリシャ人、自由人、奴隷、貧しいもの、金持ちなどいろいろな肢体があるが、しかし洗礼を授かることによってキリストをかしらにいただく一つの体になる。

 さらに教会では各自に固有の役割が与えられている(ロ12:6~8、コ①12:27~31、エ4:7~16参照)。ある人々は使徒であり、ある人々は教師であるが、みなが全部のために働いている。こうしてある人々は指導し教える立場にあり、ある人々は受け、従う立場にある。

26 罪人は教会の恵みにはあずからない

 神から与えられるこれほどのたまものと恵みは、愛をもってキリスト教的生活をおくった、神に愛される義人だけが受ける。

 しかし死んだ肢体すなわち罪の奴隷になり神の恩恵を失った人々も、この体の肢体としての恵みは失わない。死んでいるので、義人や信仰者が受ける霊的恵みは受けない。とはいえかれらは教会の中にいるので、霊によって生きている人々に助けられ失った恩恵と生命を回復することができる。このように教会から全く切り離された人々なら受けることのできないある恵みを罪人が受けることはたしかである。

27 無償の恩恵とその他のたまものは全教会のためのものである

 全教会のためのたまものとは、人々を神に愛されるものにし義人にするたまものだけでなく、無償の恩恵もそうである。それには知識、預言、ことばや奇跡のたまものなどがある(コ①12:7~10参照)。これらのたまものは善人だけでなく悪人にも与えられ、個人の利益のためではなく公の利益のためつまり教会を発展させるために与えられる。たとえば病気を治す恩恵は、その本人のためではなく病人のために与えられている。またまことのキリスト者が所有しているもので、本人と他の人々との共有でないものは何もないと考えるべきである。かれらは困っている人々を困窮から救うことを心がけ努力しなければならない。富をもちながら、兄弟の乏しさを見てもそれを助けようとしない人に神の愛がないことは明らかである(ヨ①3:17参照)。

 したがってこの聖なる交わりにあずかっている人々は明らかにある程度の至福を味わっており、つぎのように言うことができる。「あなたの天幕は慕わしい、ああ万軍の主よ!私の魂は、主の門に恋いこがれる」(詩84:2)。また「あなたの家に住むものは幸せ」(詩84:5)。

訳注  (13) S. Augustinus, Sermo 23.

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