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 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その2)     ―ブッダのルーツの真実―

2017-06-19 | Weblog

 激動の時代を経て生まれたブッダの基本思想     (その2)


    ―ブッダのルーツの真実―

 日本の多くの仏教建築、文化財が世界遺産となっており、神社などと並んで日本文化の一部となっている。国勢調査においても、仏教系統が9,600万人、総人口の約74%。

 ところがブッダ(通称お釈迦様)の誕生地やシャキア王国の王子として育った城都カピラバスツなど、その歴史的、社会的な背景については、一般には余り知られていない。ブッダの誕生地は「北インド」と習った人が多く、未だに多くの教科書にはそのように記載。

 また、ブッダは29歳までシッダールタ王子として‘カピラヴァスツ’で過ごしたが、‘カピラヴァスツ’城址とされる遺跡が、インド側とネパール側にある。これだけ社会科学が発達した今日の世界で、2つのカピラ城の謎が解決されていないのも不思議だ。そのことは、ブッダ誕生のルーツや基本思想が生まれた時代性が十分には解明されていないことを意味する。

 ブッダ誕生の歴史的、社会的な背景やルーツを知ることは日本の文化や思想をよりよく知る上で必要。

 このような観点や疑問から2011年に著書「お釈迦様のルーツの謎」(東京図書出版)を出版。また2015年、英文著書「The Mystery over Lord Buddhas Roots」がニューデリーのNirala Publicationsから国際出版致しました。

 特に英文では、このようにしてより明らかになった歴史的、文化的な背景を基礎として、ブッダの基本思想やその歴史的な意味合いに注目した。

Ⅰ.ブッダのルーツの真実と歴史的背景             (その1で掲載)

 1、ブッダの生誕地ルンビニ(ネパール)

  2、城都カピラバスツ(シャキア部族王国―ブッダ青年期の居城)と周辺の遺跡群

 3、もう一つのカピラバスツ遺跡は何かーインドのピプラワとガンワリア

 4、歴史の証人―決め手となる法顕と玄奘の記録

 

  Ⅱ、激動の時代を経て、相対的安定期に生まれたブッダの基本思想

 2つのカピラバスツの解明からブッダ時代の歴史的背景や時代性が明らかになる。

 ブッダが属するアーリアンは長い時間を掛けてイラン高原を経てインド大陸に大挙して流入し、南東に向かいつつインド亜大陸全域に拡大した。ブッダが誕生した紀元前56世紀頃には16大国が割拠して競い合う状況であったが、その後200年余りを掛けてインド北部中央部に位置するマガダ国(現在のビハール州)のマウリア王朝時代にアショカ王(紀元前268年―紀元前232年)が壮烈な戦いを繰り返し、ほぼ全域を統一した。

 ブッダ誕生の時代は、アーリアンの大規模な人口移動を伴う激変の時代から部族毎の定住の時代への移行期であり、ドラビダ族などの先住民族との戦いが終わり、支配が確立し各地に定着するにつれて人口融合が始まった相対的安定期の時代であった。

 このような激動の時代に、ブッダは生後7日ほどで母マヤデヴィ王妃を亡くしたが、29歳までシャキア王国の王子シッダールタとしてカピラ城で暮らし、29歳で修行のため城を出た。シッダールタは、各所で問答をしつつ、南東に向かいマガダ国(現在のビハール州)に入り、首都ラージャグリハ(現在のラージギル)からブッダガヤに行き、ここで数名のバラモンの修行者と共に諸欲抑制の苦行を67年行い、限界的な断食瞑想に入り遂に悟りを開いたのである。

 このようなブッダ誕生の歴史的、社会的背景から次のようなことが読み取れる。1、根底にバラモンの思想と先代ブッダの存在―知的文化(古代ブッダ文化)の存在

 ブッダは、シャキア族の王子であり、バラモン教の教育を受けた。他方、この地域には悟りを開いた者がブッダ(賢者)として崇められる風習があり、複数の先代ブッダ(賢者)の存在が遺跡として残っている。従って、‘先代ブッダ’を宗教上どのように解釈するかは宗教上の問題であるが、この地域に古代ブッダ文化とも言える知的文化、知的基盤が存在したことを意味し、そのような文化的、歴史的な背景から今日のブッダ思想が誕生したと言える。

 2、王子の地位を捨て悟りの道を決断した基本思想―人類平等と人類共通の課題

 ブッダは、シャキア族の王子シッダールタとしてクシャトリア(騎士階級)に属し、支配階級として恵まれた生活を送っていたと見られる。英語ではブッダ卿としてLordの敬称が付されている。

 そのシッダールタ王子が、長じるにつれて城外で「病、老、死」で苦しむ人々を見て、精神的な救いの手を差し伸べるべく悟りの道を求め、城を出た。

 この点は、ブッダが慈悲深かったと言う以上に、ブッダの基本思想を示している。

 一つは、人類平等の思想に立脚。

 ブッダは、支配階級に属する王子という恵まれた地位を捨てて城外の人々にも救いの手を差し伸べる道を選んだということであり、人と人の間に壁を設けないという人類平等の思想に立脚しており、今日の民主主義思想に繋がる重要な思想的な萌芽と言える。ともすると民主主義思想は欧米からもたらされた思想と思われるところがあるが、その思想はキリスト教が誕生する500年以上も前に誕生しており、その思想がブッダ教の根底にあり、日本人もこの思想に古くから接していると言えるのだろう。

 これは、アーリアンが南下するにつれて先住民族との融合が更に進み、ブッダ思想が浸透するにつれて、聖職者・賢者を頂点とするバラモン教の教えが後退して行くことを意味する。そしてバラモン教は庶民化を余儀なくされ、部族信仰の神々と結合して行ったと見られる。

 もう一つは、「病、老、死」という課題に普遍性。

ブッダが精神的な手を差し伸べようとした「病、老、死」の問題は、日本だけでなく多くの国における今日的な課題であり、時代、地域を超えた課題の普遍性がある。

 

 3、   生きることに立脚した悟り

 シッダールタは、長期の断食で極限状態に達していたある日、うっすらと目を開け、弱々しく、しかししっかりした足取りでガンジス河の支流ナイランジャナー川に行き体を清めた。そして川沿いを通りかかった村娘スジャータはそのやつれ切ったブッダの姿を見掛け、家に戻りミルク粥を作りシッダールタに差し出した。シッダールタはこれを受け取り、食べた後、改めて瞑想に入り、悟りを開いた。

 これを見て、シッダールタと共に修行を重ねていた一部の者は去って行った。シッダールタは堕落したと。

 しかし、このことはシッダールタの悟りにおいて、人類平等思想と並んで重要な意味を持っている。シッダールタが、断食で極限状態に達していた中でまず悟ったことは、過度の欲求や煩悩はもとより好ましくないが、極端な抑制や苦行も、欲望自体を消滅させるものでもなく、「解脱」に導くものでもない、生命の摂理に従って自然に生きることに真理があることをまず悟ったのだ。これが「中庸の道」、「中道の法」と言われる教えである。そしてシッダールタは、生きるということを基礎に、最終的な瞑想に入り、悟りを開きブッダ(賢人、聖人)となったのである。そしてブッダは、マガダ国とコーサラ国の首都を行き来し、この間郷里シャキア王国を訪れながら、80歳に至るまで生きる教えを説いたのだ。

 

 4、   不殺生、非暴力の思想

 各種の文献によると、ブッダは、コーサラ国のヴイルダカ王がシャキアを攻撃するとの知らせを受け、深く憂い、進軍する路上の枯れ木の下に座り、ヴイルダカ王に憂慮の気持ちを伝えたところ、王は一旦兵を引き返した。しかしヴイルダカ王は再三に亘り進軍を繰り返し、ブッダはこれを阻み続けたが、最終的に進軍を許した。何故か。何故進軍を許したのか。ブッダが一人身を挺して進軍を阻んだことにより、多くの人々に避難する時間を与え、命を救ったと見られる。ブッダは、不殺生、非暴力を実践して見せた。

 ブッダは、徹底した非暴力、不殺生を重んじ、結果としてシャキア族の滅亡を防げなかったように見える。しかしヴィルダカ王は凱旋後、火事に遭い苦しみの中で命を失い、地獄に落ち、そこであらゆる苦しみを与えられたとされている。ヴイルダカ王の末路が殺生への戒めだ。

 マガダ国はブッダが修行をし、悟りを開いたところであり、また代々ブッダを庇護したところであるが、後世において、ビルダカ王の支配地コーサラ地域はマガダ国に滅ぼされた上、ブッダの教えはマウリア王朝のアショカ王によって信仰、崇拝され、普及されたのである。アショカ王(在位紀元前269年より232年頃、ブッダの活動拠点だったマガダ国のマウリア王朝)は、インド統一の過程で、隣国カリンガ国との闘いで大量の殺戮を行った。アショカ王は、報いを恐れ不戦と不殺生を誓い、ブッダ教に深く帰依し、普及に努めたのであろう。

 このような歴史は、ブッダの非暴力、不殺生の教えや精神はアショカ王はじめ人々の心に届き、非情な暴力に勝利したことを物語っていると言えよう。

 更に後世において、インドが第一次世界大戦後英国からの独立運動(インド国民会議)を起こした際、マハトマ・ガンジーが非暴力の不服従運動を貫いた。ガンジーはヒンドウ教徒ではあったが、ブッダの不殺生、非暴力の教えがインド全体に大きな影響を与えていたのであろう。世界の強国英国に武器を持たずに立ちはだかったマハトマ・ガンジーの姿は、ブッダが一人枯れ木の下に座し、大国コーサラ国のヴイルダカ王の進軍を阻止しようとした姿と重なる。もしガンジーが、武器を持って英国に立ち向かっていたら、ひとたまりもなく潰されていたであろう。

 現実論からすると、こうした徹底した非暴力主義、戦争や武力紛争の無い世界への願いは理想でしかなく、非現実的と一蹴されるであろう。

 しかし本当にこのような現実論だけで良いのであろうか。戦争や武力紛争の無い世界が「理想」であれば、理想に向かって努力することが人類の知恵ではないだろうか。人類の歴史を切り開いて来たのは、どの分野においても理想に基づくものである。無論、現実論は重要であり、極論をしているのではない。必要な備えは行う。

 現在、世界には地域紛争が絶えない。パレスチナ・イスラエル、中東紛争は長期に継続し、アルカイーダによる国際テロもこれが遠因となっていると共に、チュニジアやリビアで始まった「アラブの春」と呼ばれる民主化の動きはエジプトそしてシリアへと広がっている。米国のハンテイントン教授は、1996年に「文明の衝突」と題する論文を発表した。東西冷戦の後、各国国民が宗教や価値観その他で一致点(アイデンテイテイ)を求めてグループ化する動きが活発化することを予測したもので、拡散するモスレム勢力とキリスト教勢力の対立やアフリカでの民族間対立など、現象面では当たっている。だが「文明の衝突」には、このような対立、紛争がどのように和解出来るのか、その答えは示されていない。

 またアルカイーダによる国際テロと国家との戦いのように、伝統的な主権国家間の紛争、戦争ではなく、国境無き国際的テロ集団を武力で根絶することは困難な上、民間人(シビリアン)を巻き込むことや第3国の主権侵害などの問題が生じ易くなり、これまでの戦時法規等では律し切れない側面がある。軍事抑止を含む伝統的な安全保障論についても、核兵器やミサイル・衛星などの宇宙兵器を含む大胆な軍備縮小や衛星打ち上げの国際管理などに人類の英知を集めても良い。国際的な軍備管理は各国にとっての安全保障にも資する。

 ブッダの非暴力、不殺生の教えは、人種的、宗教的紛争の絶えない今日において、ユニークで示唆に富むものであり、改めて世界が着目し、必要としている教えではないだろうか。因みに、ブッダにしてもガンジーにしても決して不抵抗主義ではない。ブッダは、ヴィルダカ王の大軍の進行を何回も身を挺して阻み、多くの人々の命を救った。ガンジーは、英国の支配の前に非暴力、不服従で対抗し、インドを独立に導いた。

 

 5、ヨーロッパ、アジアを大陸横断的に見た思想の流れ  (その3に掲載)

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