Sleeping in the fields of gold

小麦畑で眠りたい

解夏

2007-05-18 | Films
さだまさし原作の「解夏(げげ)」を見た。さだまさし、作家なのか最近・・?
さだまさしの歌は結構好きである。メロディよりも彼の場合、歌詞がいいのだと思う。高校の時、さだまさしが好きな友人がいた。高校生でさだまさしが好きだとは渋いなぁと思う。あだ名は「さだちゃん」(←まんまやんけ)だった。さだちゃんは今頃どうしているんだろう?

解夏というやや難解な言葉であるが、映画の中でその意味が分かる。仏教用語で修行で一夏籠もる、その始まりを結夏(「けつげ」、あるいは「けちげ」)と言い、その修行が終わる陰暦七月十五日を解夏というのだそうである。または解安吾とも言うのだそうである。

実はたまたま今、坂口安吾の小説を読んで(放置して)いるのであるが、安吾とは修行のために籠もること、であったのかと妙に納得が行く。作家というのは、なるほど籠もっているものだものなぁ(笑)。

設定は悪くないのだが、映画は全体としてどうよ?という感じでは、ある。大沢たかおと石田ゆりこがカップルという設定が、どうにもしっくり来ない。あんまりカップルに見えない(笑)。

そう言えば、もう公開されているのか?さだまさし原作の映画「眉山」。これにも確か大沢たかおが出ていたような。大沢と松嶋菜々子。ううむ。これもなさそうな感じがしないでもないんだが・・・。大沢君が好きなのか?それは、なんとなく分かる気がする。切ない、夏の終わりの蝉の声を愛おしむような、そんな話にはこの大沢たかおというのは何故だか似合う気がする。

さだまさしの故郷長崎が舞台であるというのもいい。街に対する愛情というものがとても感じられる。私は長崎には行った事がない。行ってみたいなと思うのだけれど、なかなか縁がなくて行った事がない。そもそも中国地方から先へ行った事がない。哀しいかな。

長崎には思い入れがある。行った事はないが、好きになった男が長崎出身の男だった。もう随分と前に別れてしまったけれど、いつか機会があったら行ってみたいなぁと思う。彼の育った街を見てみたいと思う。それは彼に未練があるからということではない。私の歴史の一ページとして、出会いを最大限に自分の中で生かしたいのだ。出会ったことによる世界の広がりを見たいのだ。

長崎の坂をゆるりと歩いてみたい。

映画で大沢は難病に侵されて、少しずつ視力を失っていく。視力を失っていく中で街の姿を記憶に留めようとする姿が美しい。

映画自体は、なんともあっけない。ただ、彼を支え看病をする彼女の姿が、どこかで自分の記憶に重なった。段々と何一つ自分では出来なくなっていき、その無様な姿を彼女に見せたくないがゆえに、やり場のない怒りを彼女にぶつけるしかなくなる。その葛藤が、私には手にとるように分かった。そのことが重かった。

愛する者であるならば、男としては無様な姿は見せたくない。
愛する者であるならば、女としては全てを分かち合って欲しい。

そのどちらの思いも、私は知っているような気がした。

視力が失われていく中で、大沢が階段を踏み外し、雨でびしょぬれになるシーンがある。そこへ彼の薬を病院へもらいに行っていた石田が帰ってきて、助け起こす。びしょぬれになりながら、大沢は「もう、放っておいてくれ、帰ってくれ」と怒鳴る場面。この後二人は別れることになる。

このシーンで話の展開が分かってしまった。私なら、と雨のシーンで思った。ずぶ濡れの彼を助けないかもしれない。見ない振りをして黙って隠れていたかもしれない、と思う。なぜならば。ここで彼が望んでいたのは、多分そういうことだったろうという気がするからだ。私がどうしたいかよりも、愛する者の望みを叶えること、負担を少なくすることの方が、私にとっては優先順位の高いことだ。

こういう場面で女が助けたら男は嫌がるだろう。男はいつだって「格好いい」ところを好きな女には見せていたがるものだ。手助けがなければ何も出来ないとしても、その手助けが好きな女からであることは男にとっては最大の屈辱にもなり得る。

女だけれども、実は少しそういうところは私にもある。
好きな男には、無様な所は見せたくない。いつだって「カッコいい女」を演じていたいのだ。だから、弱い所は一切見せない。損な性分だなと思うし、矛盾しているとも思う(笑)。自分は愛する人の全てを受け入れる覚悟があるのに、自分は同じだけの面倒を相手にかけることができない。負担をかけることを何より恐れる。それは多分、過去の経験がそうさせてしまうのだろう。私を支えられる男は、いないのだ。(苦笑)

映画の場合、怒りは何よりも自分自身に対してのものだから、彼女にあたるのはひどく理不尽である。が、病に侵されるというのは、そういうことなのだ。理不尽に怒りは満ち、病人も看護する側も疲弊していく。それが病を患うということだ。

失明する絶望というものが、映画を見ていても今一つ私にはぴんとこなかった。それが取るに足らないことだと思っているわけではない。それでも、思ってしまう。
「だって、死ぬわけじゃないでしょう?」心の中でそう私はつぶやいていた。

愛する人が傍にいて。光を失っても、共に生きていこうと、あなたの目になると言ってくれる人がいて。柔らかな温もりが傍らにあって。何を恐れる必要があるだろうか。でも、こう思うこともまた、きっと傲慢に違いない。何より、私は目が見えるのだから。


長崎の階段道を、二人が手に手を取って歩いていく。
その姿に自分の影を重ねた。

白い百日紅の花が咲く。
遠い夏を、思う。

私の解夏は、いつか訪れるだろうか。



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4 コメント

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余白。 (のざわ。)
2007-05-18 19:37:36
寅さんの夕焼け小焼けは観ようと思う。
げげ。も観たくなってしまう。
うぅぅ。はまってるぜ、あなたの誘いに。
(って誘ってない?)(ブキミでごめんねー)

そうね、記事から考えさせられて思考が止まってしまう気がする。もしくは過去に遡及したくなる。

ぽっちりさんのきもちにはまだずっとずっとたくさんの余白があって、それがとても羨ましかったり懐かしかったりするの。
そうして自分の余白も見つめてみたくなる。

あんまり気張って埋めなくてもいいよね。
たのしみにいこうね。
今日もありがとう!
ほほぅ。 (ぽっちり)
2007-05-18 23:10:18

寅さん、私も初めてだったのですけれど、のんびりと楽しめました。分かっているendingへ向かっていく安心感もあります。(笑)

げげ。ひらがなで書くとどうなのよ?(笑)なんていうのでしょうね、この映画は映画自体よりものざわさんも仰っている様に自分の過去に遡及していくような映画でした。

長崎の景色がいい。夏に向かっていく空気感をとてもとらえて、白いシャツやワンピースが妙に映える。絵画的な余韻が残る。

映画自体は真面目に見ていなかったかもしれない(笑)。むしろ自分の過去の様々な思い出に浸っていたような気がする。

余白か。
いい表し方だね。

余白がなければ美しく見えないよね(笑)。実は本体よりも余白が大事なのかもしれないね(笑)。

祝35周年 (〓ま虫二世)
2008-10-01 10:55:40
まっさんとまっさんファンのみなさん35周年おめでとう。毎年コンサートに行ってる私は今年は10月10日のフェスティバルホールに行く予定でしたがな~んとチケットゲットならず。(とほほ。)フェスティバルホールに行くみなさん楽しんできてください。来年こそ行くぞ!
はじめまして (ぽっちり)
2008-10-02 01:07:32

さだまさしさんは「まっさん」なのですね。
35周年なのですか、凄いですね。まっさんはMCも面白いですものね。また、是非コンサートで楽しんできてくださいませ♪

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