断片録

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環境と主体

2017-02-28 18:15:46 | 日記
以下、『生態学入門』(梅棹忠夫/吉良竜夫、講談社学術文庫)35〜36頁より。

生態学的には、次のように言えるそうである。

「環境とは、具体的には生活の場である。具体的な存在としての生活体は、つねに生活の場においてある。生活の場とは、かれの生活に必要な、また何らかの関連をもつ、もろもろの事物によって構成せられたところの、具体的な空間である。生活体は、生活の場において、その場の個々の構成物と、機能的に連関しあうことによって生きている。」

生物は、それを取り巻く諸事物と密接にに関連しあっていきている。



「主体と環境――すなわち生活体と生活の場との関連は、相互的である。」

詳しく言えば、環境が主体に及ぼす働きはアクションであり、主体が環境に及ぼす働きはリアクションとなる。「アクションとリアクションとは、つねに相互的かつ同時的に作用する。生活の場を構成する諸事物は、その場に生活するものに働きかけて、その生活の内容をあたえるとともに、それを制約し拘束する。同時に、生活する主体は生活の場の個々の事物に働きかけて、その存在の意義をみとめるとともに、それを変形し、改造する。」

「相互作用の過程はとどまるところがない。変形され、改造された環境は、新しい仕方において主体に働きかえす。アクション・リアクションの作用様式は、相互的・同時的であるばかりでなく、相加的・漸進的である。…それは、つねに矛盾をふくみ変化をはらみつつ動いてゆく運動系である。」

要約すれば、主体と環境は相互に作用しあうのであり、この作用は相互的・同時的であり、かつ相加的・漸進的である。どちらか一方が他方に完全に従属していて、何の自由もない、というのではないのである。

マルクス主義的に言えば、主体とは意識であり、環境とは存在である。両者の関係はといえば、意識が存在を規定するのではなく、存在が意識を規定する、という。あたかも意識は存在に一方的に従属するが如し、である。

しかし、このような考え方は、生態学的には否定されるのである。なぜなら、主体と環境は相互に作用しあうからである。一方が他方に完全に従属する、といったことは、あり得ないのである。

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