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レヴィナスによる自己意識と他性

『自己意識と他性』より 自己意識と他性--結論

本書の目的のうちの一つは、自己意識と他性の間の関係性に光を当てることであった。しかし、先に、私はいくつかの異なる類型の自己意識を区別し、分析してきたのに対して、他性概念はこれまでかなり非体系的に用いられてきた。いろいろな種類の他性が存在し、もしどの程度自己意識がそれによって影響されるあるいは条件づけられているのかを探究したいならば、どの種類の他性を指示しているのかを精確に特定することか必須である。

しかしながら、私の論述から明らかになったはずであるように、私は、三つの根本的に異なる類型の他性を区別することか可能であると考える。すなわち、(一)非自己(世界)、(二)他者としての自己自身、(三)他者の自己という形式での他性、である。しかし、他者の他性とは別の類型の他性が存在するという提案は、レヴィナスによって(主に『存在とは別の仕方であるいは存在の彼方へ』に先立つ著述において)異議が申し立てられてきた。

レヴィナスによれば、私が生きている世界は、すべて私とは異なる対象に満たされた世界であり、それゆえ、それはすべてある一定の他性によって性格づけられる。私はこうした対象に異なる態度で、実践的態度と同様理論的態度で遭遇し、こうした対象を扱う。しかし、私がそれらを研究し、購入し、仕事で使うとき、異他的なものや異なるものを馴染んだものや同じものへと絶えず変貌させ、それによってそれらにそれらの異様さを失わせる。志向性は、私を異他的なものに関係づけるけれども、非相互的関係性である。それはけっして私を家から離れさせない。レヴィナスが論じるように、認識する主観は有名な賢者の石のように作用する。すなわち、それはそれが触れるあらゆるものを変えるのである。それは異他的なものを吸収し、その他性を無効にし、同じものへと変貌させる。

レヴィナスによれば、世界と世界内的存在者の他性も自己のうちに内的に見出すことができる他性もすべて純粋に形式的な類型の他性である。それらはすべて主観によって思考し、同化し、吸収することができる差異であり、それゆえ、主観によって支配され、制御され、構成される全体性に固有かつその内部にある差異であり続ける。

レヴィナスは、一方で、否定性と差異と、他方で、本当の他性との間の差異を強調しなければならないことを確かに明らかにする。伝統的形而上学(スピノザとヘーゲル)において、否定性は(自己)規定のために必須であるが、否定性は止揚することができ、それによって全体主義的体系に同化することができるのに対して、真の他性についてはこうは言えない。「もし他者を所有し、把握し、認識することができたならば、それは他者ではないだろう」。他者が主観性に関係づけられた、相関している、依存するものとみなされるかぎりで、主観によって吸収することができるあるいは主観に統合することができる何かであるかぎりで、真の他性は扱われておらず、内的差異の戯れか扱われているにすぎない。

レヴィナスによれば、西洋哲学は他性に対するこうした態度によって性格づけられてきた。西洋哲学は、打ち勝つことができないアレルギーによって、他者であり続ける他者に対する恐怖によって苦しめられており、したがって持続的に他性を同性に還元しようとしてきた。だから、レヴィナスにとっても同様に、西洋哲学は存在論的一元論と批判されるだろう。換言すれば、差異は同一性に還元され、超越は内在に還元され、他者は同に還元されてきたのである。

レヴィナスにとって、真の、根底的他性は他者のうちにのみ見出すことができる。「絶対的他とは他者である」。他者の他性はそれを私から区別する性質を所有することに存するのではない。この本性の区別は、他性を無効化するだろう種類の基礎にある類似性と比較可能性を含意するだろう。だから、それは、レヴィナスが同と他の間の区別は単純に全体性の暫定的断裂ではないと強く主張するとき、あるいは、彼が、同と他がどんな仕方であれ絡み合っているということを否定するとき、何ら驚くことではないはずである。

レヴィナスによれば、他者との真の遭遇は概念化やカテゴリー化することができない何かの体験である。それは、内面性に還元不可能である、全体的かつ絶対的な他性との関係である。それは、単に主観によって吸収されるのではない何かとの遭遇、単純に触れられず、動かされず、変化しないままにされるのではない何かとの遭遇である。反対に、根底的他性との真の遭遇は、私の基礎そのものにおいて私を圧倒し揺さぶる遭遇である。レヴィナスの独創性は、正義と不正義の問題をわれわれに他者への原本的、非還元主義的取り組みを提供すると捉えていることである。他者との真正の遭遇は、知覚的あるいは認知的ではなく、本性上倫理的である。他者が私を問い、私に対して倫理的要求をなす倫理的状況においてこそ、すなわち、私が他者に対する責任〔応答可能性〕を想定しなければならないときこそ、他者は非アレルギー性の仕方で現前的である。他者との真の遭遇は、他者の主題化ではなく、他者に対する非無関心である。

私は、他者の根底的他性を強調しようと望んでいるかぎりで、レヴィナスは正しいと考える。われわれが他者に直面する際に、われわれはまさに還元不可能な類型の他性に遭遇している。だから、私自身における他性と世界内的対象の他性とを他者の他性と明確に区別するべきであり、単純に一にして同じ他性の三つの異なる変奏が扱われているという提案に反論することが重要である。私は対象を露呈し規定することができるのに対して、他者は私の認識から逃れ、けっして私に対して真に現前的になることはない。他者はどんな対象とも違っているだけではなく、異的であり、はるかにずっと根底的種類の超越を所有しているのである。しかし、このことを承認することができ、世界の他性と自己における他性が真正の類型の他性であり、単に主観によって制御される内的差異の戯れではないとなお強く主張することができる。反対に、それらがまさに主観性の自己構成のために必須の類型の他性なのである。
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