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戦前日本経済の発展--1868~1945

『現代日本経済史年表1868-2015年』より

明治維新と原始的蓄積

 明治維新は、徳川幕藩体制から近代天皇制国家への移行の画期をなした政治改革であると同時に、日本資本主義の起点を画したものでもあった。日本では明治維新前に絶対主義国家は成立しておらず、外圧による封建的危機への対応として早熟的に成立していったのである。明治政府の課題は、帝国主義世界体制への移行期・確立期の中で国民的統一を達成して対外的に政治的独立を実現し、さらに資本主義の育成という「上からのブルジョア的改革」によって経済的自立化を達成することであった。それゆえ、明治政府は、自らの国家機構を構築していく過程で原始的蓄積政策を推し進めていった。この基礎過程は、幕藩体制下の18世紀後半から徐々に進行していたが、とくに開港以後、欧米列強の資本制的商品の流入による在来産業の破壊と再編を通じて急速に進行した。日本における原始的蓄積政策が本格的に推し進められていくのは、1873年の大久保政権成立以後の時期からで、地租改正・殖産興業・松方デフレ政策を通じてであった。日本の原始的蓄積の特徴としては、第1に農民の土地喪失が同時に半封建的地主的土地所有の広範な創出となったこと、第2に「商人資本の産業資本への転化」の道が自生的発展(小生産者型)の道を圧倒したことである。地租改正・松方デフレは農村内部の階級分化を促進し、また地主・小作関係の急激な展開をもたらした。だが、直接生産者の生産手段からの分離は不徹底にしか行われなかった。没落農民の一部は脱農民化して都市に流出したが、多くは近代工業の労働市場が未成熟のために自小作・小作として農村内部に滞留せざるをえなかった。したがって、賃労働の創出は農家の子女の家計補充的な「出稼型」労働力を基本とし、男子労働力は炭鉱業などにみられたにすぎなかった。一方、資本に転化さるべき資金は、農民より徴収される高率地租があてられ、それは国家財政を媒介にして富川強兵を目的とする軍事機構及び官営工場など殖産興業に充当されていった。そして、この過程で商人資本の産業資本への転化が軌道づけられていったのである。すなわち、第1に、政商は工場払下げを契機に財閥への発展の礎石を得ることになり、第2に、綿関係商人の紡績資本への転化が図られ、第3に、製糸・織物業などの在来産業が商人・地主層の蓄積資金を基礎にマニュファクチュア・問屋制家内工業として発展する機会を得ることになったのである。

資本主義の確立と独占資本主義への移行・確立

 産業革命は、機械の発明と充用という技術変革を媒介にして工業の経営形態をマニュファクチュアから機械制大工業に移行させ、手工業や農村家内工業を壊滅させると共にこれまでマニュファクチュアが技術的狭陰性のために駆逐しえなかった小生産者層を決定的に分解し、資本家と賃労働者の2大階級を全社会的に創出していきつつ、産業資本が確立していく過程(=資本主義の確立過程)である。後進資本主義国の産業革命は、すでに産業革命を達成した先進資本主義国との連関を前提として遂行されることから様々な偏倚をこうむる。日本の産業革命は、資本制生産様式が全社会的ではなく全生産を支配すること、生産手段生産部門における技術が世界水準に到達し、国内自給への一応の見通しが得られることで産業革命の完了とする。産業革命の時期については、一般的には1886年から始まる企業勃興を開始期とし、日露戦後の鉄鋼業・機械工業の世界的技術水準への到達をもって終期としている産業資本の確立指標としては, (1) 消費材生産部門におい゛(は、94年の器械製糸高の座繰製糸高の凌駕と97年の綿糸輸出高の輸入高の凌駕が、(2)生産手段生産部門においては八幡製鉄所・鞍山製鉄所の設立、製艦技術の世界水準への到達、旋盤の完全製作(1905年)があげられる。帝国主義段階に突入しようとする世界資本主義の中へ関税自主権欠如のまま巻込まれた日本は、軍事工業を中軸に半封建制を土台として上からの資本主義化を遂行していったが、このことは、農業と工業との間の、また軽工業部門と重工業部門との間の不均等な産業構造をっくり出した。民間部門における繊維中心の軽工業の優位と金属・機械部門における国家資本の主導性という工業構成が定置されたのであった。日本資本主義は、不均等な産業構造を有することから貿易を再生産構造の不可欠の一環とした。そのことによって日本資本主義は初めて確立することができたが、それは、欧米への従属と中国などアジア諸国への侵略となっていった。日本資本主義の確立過程は、帝国主義世界体制に規定されて同時に帝国主義への転化過程でもあった。

 すなわち、日本の産業資本の確立過程は、独占資本の形成過程と重複していたのである。1907年恐慌から20年までの時期は、重化学工業においても資本制生産が展開し、財閥における経営の多角化に基づくコンツェルンの形成と綿紡績業をはじめとする軽工業においてカルテルの結成という形で私的独占の形成が進められていった時期である。しかし、この期の独占組織は、紡績連合会を除いてはいずれも統制力が弱く、また持続性にも乏しいものであった。この期の財閥資本の産業的基盤は、商事・金融・鉱山業を中心とし、重工業としては造船業と電気機械工業が目立つ程度で、リスクの多い重化学工業分野への投資にはきわめて消極的であった。その結果、企業形態としても財閥本社による同族的封鎖的持株所有を基本としたのであった。機械工業・鉄鋼業は依然として国家資本が中心的に担っており、綿紡績業は財閥の支配外にあったのである。財閥資本の支配力はこの段階ではまだ決定的ではなかった。 20年戦後恐慌、23年震災恐慌、27年金融恐慌と続く20年代の慢性的な不況過程において財閥資本の支配力は、国家資本・綿紡績資本を除いて日本資本主義全体に及ぶようになっていく。財閥資本と綿紡績資本に代表される日本の私的独占の特色は、その力が比較的弱く、常に国家独占によって補強され、国家権力に依存していたことである。つまり、国家独占は独占資本の不可欠な一環をなしていたのである。だが、財閥資本はこれ以降次第に国家権力を利用するように成長発展していく。

国家独占資本主義の成立

 1929年世界恐慌による経済的危機は政治的危機をもたらし、この全般的危機に対して国家は資本主義の延命強化に本格的に乗出していく。独占資本主義の国家独占資本主義への移行である。日本においては、31~32年を契機とする金本位制の放棄と管理通貨制への移行、その下でのインフレ政策の実施、財閥・地主制・植民地における構造的再編にもって国家独占資本主義が成立し、37年日中戦争の勃発以降、戦時国家独占資本主義へ移行したものとされている。日本資本主義の世界恐慌からの脱出方法は、満州への帝国主義的侵略と管理通貨制度下の軍需インフレ政策にもとめられた。恐慌が深刻化する過程で独占企業は、操業短縮を行うと共にカルテルを結成して対処していったが、政府は31年重要産業統制法を制定して独占資本のカルテル的統制の補強を行った。 32年から36年にかけての国家独占資本主義への再編過程における軍需インフレ政策によって重化学工業は著しく発展し、日本資本主義は、軽工業段階から重化学工業段階へと構造転換をとげていった。このことは、財閥のあり方にも大きな影響をもたらした。新興財閥は第1次大戦後の重化学工業への進出を足場にこの期に急速に発展したが、旧財閥も社会事業への大口寄付・財閥家族の直系事業からの後退・株式の公開を内容とする「財閥転向」を行い、日中戦争以降の軍需生産の中核となる準備を整えていたのである。戦時国家独占資本主義への移行指標を示す、37年の臨時資金調整法・輸出入品等臨時措置法、38年の国家総動員法のいわゆる戦時3法の制定・公布によって戦時経済統制は全面化し、日本経済の軍事的再編のいっそうの強化が図られた。戦時経済統制下での国家による資金・資材・労働力の全般にわたるバック・アップによって、独占資本は巨額の戦時超過利潤を保証され、経済体制の中核を担うようになっていった。これに対して中小資本や一般民需産業は、軍需生産の強権的拡充のために整理・統合されていった。戦争の長期化と戦況の悪化によって国民経済の発展の不均等性は次第に著しくなり、特に戦局の主導権の喪失による海上輸送力の低下(原料補給路の遮断)によって軍需上の重要物資の輸入は激減し、さらに国内的にインフレの昂進・労働力不足・食糧危機が相関的に作用して軍需生産は行詰まってしまうのである。そのことは、やがて日本経済の基礎の崩壊を時間の問題としたのである。
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