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フィンランド 苦闘に刻まれたアイデンティティー

『国家と国民の歴史』より

フィンランドの歴史は、戦争から生き残る物語として語られることが多く、外国人には理解しづらいようだ。多くのアマチュア歴史家からは、スウェーデン(西方)とロシア(東方)に挟まれたフィンランドの物語は複雑すぎて、フィンランド人自身にしか理解できないと思われているらしい。歴史研究者のなかにも、神話化に手をかしてきた者もいれば、誤解を正そうと努力してきた者もいる。

この国の歴史には、もうひとつ、自作農と強い女性の物語という側面もある。フィンランド人は、封建制度の支配を一度も受けなかったことから農民を誇りに思っている。また、農民社会だったことを理由に、この国では伝統的に女性が強いとされ、早い段階で女性が参政権を獲得したのは、しごく当然のことだと考えられている。1907年に開かれたフィンランド初の議会では、議員の10分の1が女性だった。よくフィンランド人は、自分たちが世界ではじめて女性が投票したり公職に立候補したりできるようになった国だと言っているが、この点では地球の反対側にある国のほうがパイオニアだ。ただし、世界ではじめて女性が国会議員になったのは、ニュージーランドでもオーストラリアでもなく、フィンランドだった。

2007年は、ふたっの意味で重要な節目の年だった。議会改革100周年と、ロシアからの独立90周年だったのである。 1809年、フィンランドはロシア帝国内の大公国になったが、これも2008年と2009年に記念行事が催された。こうした節目の年が、複雑なフィンランド史を記念する方法になっている。

19世紀初頭のナポレオン戦争により、フィンランドの歴史は新たな方向へ向かうことになった。 600年続いたスウェーデンとの関係が終わり、フィンランドはロシア帝国の一部になったのである。皇帝アレクサンドル1世(1777~1825)は、1807年にナポレオンとティルジット条約を結び、その一環としてスウェーデンに、イギリスに対する経済封鎖である大陸封鎖令に参加するよう圧力をかけることになった。アレクサンドルはスウェーデンと戦争を始め、フィンランドに侵入するとロシアヘの永久併合を宣言した。 1808年後半、フィンランド政府を樹立する決定が下され、その準備のためポルヴォー議会が1809年3月に開催された。スウェーデンは、ハミナ条約により、トルニオ川(トルネ川)以東の領土とオーランド諸島をロシアヘ割譲した。

1917年12月、ロシア革命の最中にフィンランド議会は独立を宣言し、ロシア臨時政府から翌年の元日に承認された。 1918年の冬から春にかけて、短期間ながら激しい内戦がフィンランド国内で起こり、社会主義派の赤軍と、フィンランド国家を支持するブルジョワ派の白軍が戦った。この内戦の本質は複雑で、そのことは、この事件に全員が受け入れられる名前をつけるのがいまだにむずかしいことからも分かる。実際、立場の違いによって、革命、反乱、階級戦争、「同胞戦争」「vel」essota)、「市民戦争」(kansalaissota)、内戦と、違う呼び方をされてきた。

1939年11月、フィンランドとソヴィエト連邦のあいだで冬戦争が勃発し、3か月閲続い/こo uり4呪亨は珊:XF自・国り羽灯E!1茂岡刀ゝりy王日され、「小国ながら勇敢なフィンランド」というイメージから、後に当時の国民世論を評して「冬戦争の精神」という言葉が作られた。いったん平和が訪れたものの、1941年6月にソヴィエト連邦とのあいだにいわゆる継続戦争が始まり、これが1944年の夏が終わるまで続いた。その後ラップランド戦争が起こると、フィンランドはソヴィエト連邦の要求に従い、それまでフィンランドをソ連への侵攻ルートとして利用していたドイツ軍を国内北部から追い出した。こうした一連の戦争の結果、フィンランドは領土の10パーセント以上をソヴィエト連邦に奪われ、人口の約12パーセントが割譲地域にあった故郷を離れなくてはならなかった。

こうした歴史上の出来事すべてに、後の世代が自分自身とその過去を定義するために使った要素がふくまれている。フィンランドは、太古の昔に独立国だったわけではなく、大国になった時期もないため、自己認識を探る手法は時代によって異なっている。歴史学者オスモ・ユッシラは、フィンランドの歴史叙述のなかに、さまざまなヴァリエーションをもった基本的な神話が3つあると指摘している。それは、スウェーデン=フィンランド、フィンランド人による独立獲得の試み、そして1809年の国家誕生の3っだ。これ以外に過去の歴史学者たちが取り組んだ問題として、早い時期に見られたフィンランド人女性の社会的平等、第2次世界大戦におけるフィンランドの役割、冷戦時代の賢明な外交政策などがあげられる。

スウェーデン=フィンランドとは、フィンランドがまだスウェーデン王国の一部だった時期のことで、このころは、明確な境界で独自のアイデンティティーを形成できたと考えられている。この説が広まったのは1918年以降にすぎず、今も形をさまざまに変えて存続している。ある者は、スウェーデンが強引にフィンランドを併合したせいで伝統的な部族社会の自治が終わったと訴え、またある者は、スウェーデンの統治は教会にかんすることだけで、世俗の事柄にはおよばなかったと主張している。スウェーデン支配時代の全体像については、フィンランド人はスウェーデン人に抑圧されていたが、民族意識も高めていたと考えられた。最近の歴史学者は、スウェーデン=フィンランドという考え方を否定し、学校の教科書にも載らなくなったが、今も世間では「スウェーデンによる支配下」の時代についての話を耳にすることはめずらしくなく、スウェーデン=フィンランドという言葉は、フィンランド人の発想からまだ完全には消えていない。

過去を利用した政治の最近の例として、1944年の戦いを「防衛勝利」「tor」untavoitto)と名づけたことがあげられる。こう命名することで、フィンランドはソ連との戦争に敗れたが、1944年夏のソ連の主攻勢をくいとめることができた事実を強調しようというのである。「防衛勝利」という表現を使うことで、戦争に従軍した退役兵への敬意を維持したまま、過去の出来事を現在の要請に従って解釈することができる。これとは別に、継続戦争中のフィンランドとナチ・ドイツとの関係について、学術ベースの再評価が進められている。かつて学界では、フィンランドは自国のために戦ったと考えられていたが、最近の歴史学者たちはこれに疑問を抱き、1944年夏の「防衛勝利」でとくにドイツが主導的な役割をになったことを明らかにしている。ここ数年では、フィンランド=ソヴィエト戦争を、これより大規模だった独ソ戦と分けて考えることに疑問を呈する研究も数多く発表されている。
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