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アウトライナーと有限性

『勉強の哲学』より アウトライナーと有限性 ⇒ アウトライン「インスピレーション」を30年以上、使っている。研究所の中に広めようとしたが、拡がらなかった。日本人の思考パターンには合っていないのか?

横断的に勉強していると、アイデアは散漫な形で、断片的に湧いてくる。

そうしたアイデアを、最初からきちんと書こうとすると、その鮮度をダメにしてしまう。

勉強を進めながら書くための、基本的な方法としてお勧めしたいのは、箇条書きによる「フリーライティング」です。

箇条書きは、わかりますよね。一、二行で、多くても三行くらいで短く書く。

フリーフイティングというのは、思いつくままに、話がズレていっても気にせず、どんどん書いていくという実践です。

たとえば、朝一番にお茶を飲んでから、昨日読んだ本について、そして最近ふと感じたことについて書き、それから今日の予定を忘れないようにメモし、そこで予定の詳細を考え始めてしまったら遠慮しないで書き、そのあいだに別のことを思いついたらそれを書き……というような感じです。制約なしに、純粋なアイデア出しとしてやるのも効果的ですし、最初に特定のテーマを設定して書き始めて、そこからズレても気にしない、というやり方もある。

目移りしたり、少し深掘りしたりの行ったり来たりです。

アイロニーとユーモアが交代して作動する。

欲望年表の材料も、このやり方で出すのがいいでしょう。

この作業のためには、パソコンのキーボードを速くタイプできた方がいいですね。スマホでもできなくはないと思いますが、書いたことを後でコピー・アンド・ぺーストして別のファイルに移したりといった編集をするので、パソコンの方が便利です。

箇条書きでの入力をサクサクやるには、「アウトライナー」と呼ばれるアプリを使うことをお勧めします(あるいは「アウトライン・プロセッサ」、これが従来の言い方ですが、ここでは短く「アウトライナー」にします)。これは、ある程度書いてリターンを押すと、そこまで書いた部分が、一個の区切られた部分=箇条書きになるというアプリです。ひとつひとつの箇条書きは、上下に移動して順序を変えることができる。だから、思いつくままに書いてはリターンで、どんどん箇条書きをつくり、後に要らないものを消し、関連するものを近くに寄せたり、論理展開になるよう並べたりできる。さらに、ひとつの箇条書きを「親」とし、そこに別の(複数の)箇条書きを「子」として収納し、「階層構造」をつくることもできる。複数の箇条書きが並んでいる状態を、「アウトライン」と呼びます。

アウトライナーの特徴については、Tak.『アウトライナー実践入門』(技術評論社、二〇一六年)が参考になります。

従来は、アウトラインと言うと、本番の文章を書く前に、構成を確定しておく「設計図」というイメージが強かった。しかし、そうではなく、自由にアイデアを膨らませるためにアウトライン作成をする、という新たなイメージを提示しています。これは、本書の言い方で言えば、アウトラインを自己目的的にするということでしょう。あるいは、玩具的にする。

本番の文章作成のためにアウトラインを使う、という道具的な使用ではなく。

アウトライナーにおいて、区切られた箇条書きは、レゴーブロックのピースのようなものです。順序の入れ替えは、ブロック遊びである。本書では、ブロックの喩えを、言葉の組み替え可能性--環境のコードに縛られない、自由な--を言うために使いましたが、アウトライナーで実現されるのは、短い文の形をとった「思考」の組み替え可能性なのです。

フリーライティングをしていると、何か気になるイメージとか、場面とか、理由を説明しにくい具体的なものがわいてくることがあります。そのときに考えるべきテーマと関係なく。そういうものも、言葉にしてみる。アウトライナーで書いているなら、そういう部分もそのまま書いてしまって、後になってから、別のところに保存しておく。

おそらくそれは、自分の享楽的こだわりに関係している断片です。そういうものが、小説や詩など、文学の着想につながる可能性もあります。

大して意味がなさそうだけれども、気になること。自分の奥底の無意味に触れているのかもしれない「雑念」。それは、たとえば、マーケティングの勉強をたんに目的的・道具的に、仕事の役に立てようというだけでやっているのならば、切り捨てられるでしょう。それではもったいないと思うのです。雑念にこそ、「自分ならではの無意味」が宿っている。何か「非意味的形態」のきらめきがある。自由な勉強とは、意味と無意味の行ったり来たりである。

箇条書きというのは、これまた有限化のテクニックです。

ワープロの、無限に続く真っ白な画面を前にすると、途方に暮れる。どうにでも書けるわけです、それゆえに、どう始めていいかわからない……僕にはそういう感覚があります。

ひとつの箇条書きはそう長くは書かないものです。アウトライナーに字数制限はありませんが、箇条書きで書くという構造である以上、潜在的に字数制限があるかのような意識で書くことになります。ひとつの思考を短く終えなければならない、とにかく思考をある簡潔な形にしなければならない、いますぐ--まさしく有限化が働くのです。アウトライナーは、有限的に書くということの練習の場として捉えることができる。

長い文章を書くというのは、「ひとまずこの程度でいい」という思考の仮固定が、たくさん積み重なっていくことです。文章を書くとき、何か漠然と大きなことをしようとしているという意識では、身動きがとれなくなるでしょう。小さなタスクに分解する。小さな箇条書きに分解する。一個一個は、仮固定でいいのです。仮固定から仮固定へ進んでいく。書くということの現実は、小さな積み重ねです。アウトライナーはそれをはっきり可視化してくれる。

ところで、「書くことの有限化」についてさらに言えば、デジタルな方法に加え、手書きを併用することも重要です。僕の実感としては、紙のノートヘの手書きでは、アウトライナーでの箇条書きよりもさらに強く、有限化が働きます。当然、一枚の紙は有限な範囲であるし、それに、タイピングよりもペンで書く方が、手が疲れます。単純な事実ですが、このことが、書ける、書いてしまう内容におよぼす影響は、小さくないと思っています。

書く内容が強く絞り込まれるので、手書きは、考えの「太い」部分を整理するのに役立ちます。細かい枝葉ではなく、幹を明確にしたいときに、僕は作業を手書きにチェンジする。余計なことを払いのけられる。ワープロやアウトライナーで書いているものも、ときどき紙にプリントして、赤ペンで書き込みをし、またパソコンに戻って編集する。

「有限化の強さ」が異なるツールを行ったり来たりして、思考を整理していく。

それは、彫刻に似ています。刃の大きさが違うノミ、目の粗さが違うヤスリを切り替えながら、徐々に形をつくっていく--というこの説明もまた、先に述べた、異質なものごとを連想的につないでみるというユーモアの発想にほかなりません。
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