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グローバル化とグローバルな正義

『インドから考える』より

国、個人、人類

 最後に国籍の特権化に目を向けよう。これまた、コミュニテイ最優先の決めつけと同じくらい人々を制約してしまう。もし世界がちがった国民に「区分」されてしまい、別の国民を見るときに、ある国の市民が別の国の市民を見る以外の見方ができないのであれば、個人間の人間関係は国際関係に取り込まれてしまう。これはグローバルな正義の理解に対して大きな影響を持つ。グローバルな正義は、世界の経済秩序をめぐるアジテーションや、「グローバリゼーション」と呼ばれるものに関連する抗議デモなどのおかげもあって、最近ではかなりの注目を集めるようになっているのだ。アイデンティティの問題は、このとても大きな問題にどう関係してくるのだろうか?

 ここで行うべき最初の区別は、広いグローバルな視点と、狭い国際的な視点との区別だ。国籍や市民権の重要性は現代世界では否定できないが、それ以外のアイデンティティで、国境を越えて結びついた人々の関係(国や政治ユニット以外の区分に基づいた分類による連帯のアイデンティティ)にどう注目すべきかも考えるべきだ。たとえば政治的な仲間意識、文化的なつながり、社会的な信念、共有された人間的懸念、共有された欠乏による結びつき(これは階級やジェンダーなどとも関連する)など、市民性以外のつながりによるものだ。職業的なアイデンティティ(たとえば医師や教師としてのアイデンティティ)の要求と、それらが国境とは関係なしに生み出す義務感とをどう評価すべきだろうか? こうした配慮、責任、義務は、単に国民アイデンティティや国際関係に寄生するだけの存在にとどまらず、国際関係とは正反対の方向に向かうこともしょっちゅうあり得るのだ。ある意味で最も広いアイデンティティと言える「人間」というものでさえ、きちんと考えて見れば、ずっと広い視点を認識させてくれるだけの力を持つはずだ。共通の人間性と関連づけられた各種の動機は、「国」や「市民性」といった集合体への帰属を通じて仲介される必要はない。

 これは決定的に重要な認識だ。この論点は、私たちの故郷であるこの危ういインド亜大陸では容易に見てとれる。私たちは、インドやパキスタンの人々がそれぞれの国の市民というだけでなく、お互いを人間として見られる人間どうしなのだという事実を把握すべき十分な理由がある。私たちは、相互のつきあいをそれぞれの国や政府を通じて行う義務などない。私たちの危うい世界--まさに爆発的な原爆を持つ世界--は(インド亜大陸、ひいては他のところでも)自分が何者かを自問することを要求するのだ。自分の人間性が切除され、国籍だけが残った場合のあり方だけを考えてはいけないのだ。

グローバル化とグローバルな正義

 こうした問題は、近年他の理由からも重要となってきた。たとえば、グローバリゼーションの課題という文脈などだ。そうした課題は、各種のレベルで注目を集め、中には騒々しく荒っぽい抗議デモもあった--シアトル、メルボルン、ワシントン、ロンドン、プラハ、ケベックなど各地で。最近のグローバリゼーション反対デモについて真っ先に指摘しておくべきことは、こうした抗議自体が実にグローバル化したイベントだということだ。かれらを「反グローバリゼーション」抗議として見るのは、かなり誤解のもとだ。かれらは世界的な不満と不信を表現する声なのであり、世界中の多くの国やちがった地域から人々を集めている(デモ参加者はシアトルやケペックの「地元連中」ではない)。そしてかれらの価値観の多くは、不平等と格差というグローバルな問題と関連している。

 デモ参加者たちの懸念はしばしば、まとまりのない要求や、粗雑に考案されたスローガンに反映されているが、そうした抗議のテーマのほうが、かれらの理論よりも一貫して重要だ。かれらの絶え間ない問いかけのほうが、スローガンの中で提出されている出来合いの答えよりも重要だ。浮かび上がってくる問いかけは、グローバルな経済と政治の体制における、大幅な制度変更を要求しており、その中身は特許法改定や経済関係の互恵性から、一九四四年ブレトンーウッズ合意の初期の努力から受けついだ制度的アーキテクチャの拡大まで様々だ。こうした変化は、本当にグローバル化されたやりとりを、減らすよりはむしろもっと増やすだろう。特に重要なのは、こうした運動や、その他多くのグローバルな懸念の表明(たとえば環境問題のアジ)に表現を見出しているアイデンティティの感覚は、国民としてのアイデンティティを大きく超えるということだ。

 アイデンティティの選択は、グローバルな正義に強く影響する。アイデンティティ選択の可能性を認識すると、グローバルな正義が国際的な正義(この両者はよく混同される)よりずっと大きな観念として見るべきものだという含意が即座に出てくる。グローバルな正義を国際的な正義として見るのは、ある人物の国民アイデンティティが、なぜか私たちの支配的なアイデンティティでなければならないと想定することだ。でも世界のあちこちにいる人々は、いろいろちがった形で相互に作用し合う--商業、科学文学、音楽、医療、政治的なアジ、さらにはグローバルNGO、ニュースメディアなどを通じてそうした相互作用は行われる。かれらの関係は、政府や国の代表などを通じてはほとんど仲介されていない。

 たとえば、フランスのフェミニストが、仮にスーダンなどでの女性の低い地位のある側面を正すような仕事をしたいと思ったら、その人はある国の国民が別の国民に対して感じる同情を通じて活動をしているわけではない。同じ女性としてのアイデンティティ、または同じ人間としてジェンダー平等を重視するというアイデンティティのほうが、市民権よりは重要かもしれないのだ。同様に、多くのNGO--国境なき医師団、オックスフアム、アムネスティ・インターナショナル、ヒューマン・ライツ・ウォッチなど--は明示的に、国境を越えた連帯や関係性に注目している。

理性か降伏か?

 終わりに、いくつかの問題に注目しよう。まず、私たちはとても多くのちがった集団に所属しており、それらの間で優先順位を選ばねばならない。ある州やらミュニティや、国でもいいのだが、そうした局所的なアイデンティティの、一部では抵抗しがたいと呼ばれる要求が持ち出され、私たちを無理矢理従属させることはあっても、私たちは自分たちに瑳小性が押しつけられるのに抵抗しなくてはならない。

 第二に、コミュニタリアン的なアイデンティティは、私たちにとって重要なこともあればそうでないこともあるし、どの程度の重要性をそれに持たせるかを決めるのは、私たち自身だ。その選択は、何やら勝手に想定された不可思議な障壁だの、事前に決まった優先度についての説明もない信念だのを根拠に奪われてはならない。

 第三に、世界は単なる国の集まりではなく、人々の集まりでもある。ある人間と別の人間との関係は、それぞれの政府に仲介してもらわなくてもいい。これは、私たちが暮らす、ミサイルや原爆の陰が強まる危うい不安定な世界においては、とても重要な認識になり得る。

 第四に、国際正義はグローバルな正義の要求を完全に包含するものではない。私たちのグローバルな相互関係は、国際的な相互関係よりずっと広範なものだったりするし、反グローバリゼーションの抗議ですらグローバルなイベントとなるのを逃れられない。平等性の問題、懸念、責任は、適切な広がりを持った視点での対応が求められる。

 まとめると、アイデンティティの複数性の含意と、社会的な立論と選択の役割は、このようにすさまじく広範だ。それらは、安全保障から平等性に至る様々なきわめて重要な問題に対し、直接的な関係を持つ。私たちは、相互理解不能性(不可侵な文化障壁により生じるとか言われているもの)をいい加減に想定して、直面すべき問題や必要な選択から逃げるわけにはいかない。また、立論の領域を、受動的な発見の領域に変換するという正当化しにくい手口を通じてうっちやってしまえるものでもない。私たちは、自分が送る人生について責任を持たねばならず、自分たちが暮らす世界についてすら責任をとるべきだ。それ以外の道は、社会的な叡智ではなく、知的降伏でしかないのだ。
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