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英雄たちの夢と挫折の都 カイロ

『「都市」の世界史』より 英雄たちの夢と挫折の都 カイロ さまざまな民族が入れ替わり支配者として君臨した ⇒ カイロはピラミッドのそばにあった。その時代からエジプトの首都かと思っていた。それにしては、ローマ軍が攻めてきた時に、アレキサンドリアしか出てこなかった。その謎がカイロの歴史で分かった。ムスリム以降に作られた都市なんだ。

ナイル川の豊かな恵みは他民族に狙われた

 エジプトはBC二十七世紀頃から約五百年栄えた古王国を皮切りに、断続して中王国、新王国と栄えた後、BC十二世紀に衰え始め、最終的にはBC五二五年にアカイメネス朝ペルシャ支配下の一州となりました。

 さらにBC三三二年マケドニア王国のアレクサンドロス大王によって征服され、大王の死後、プトレマイオス朝が成立しました。そのプトレマイオス朝もBC三〇年にローマ帝国に滅ぼされ、ローマ帝国の属州となりました。

 エジプトはこのように、二〇〇〇年もの長きにわたるエジプト人の支配の後は、他民族の支配下に置かれる歴史を経てきました。他民族に狙われた理由は、古代から小麦の大収穫地帯だったことが示すように、ナイル川がつくった広大なデルタ地帯の豊かな恵みにありました。ギリシャの歴史家ヘロドトスの言うとおり、まさに「エジプトはナイルのたまもの」であり、ローマの穀倉であったのです。

 ところで現在のカイロは、エジプトがローマ帝国の属領であった頃までは、小規模の集落が点在するだけの湿地帯に過ぎませんでした。

 この湿地帯に最初の都市をつくったのは、イスラム帝国のアラブ人です。それからカイロには入れ替わり立ち替わり、諸民族が覇権を求めて来襲しました。カイロを語ることは、これらの諸民族の英雄たちの歴史を語ることになるのです。

カイロ誕生前のフスタートという都市

 イスラム帝国は六四一年にエジプトを占領しました。二代目カリフ、ウマルの時代のことです。彼らは現在のカイロの場所に、フスタートという都市をつくりました。フスタートはミスル(軍営都市)として建設されましたが、ミスルにはイスラム帝国の占領地統治政策が秘められています。

 イスラム帝国のアラブ人たちは、現実的な占領地統治を行いました。民族的には人口がさほど多くないアラブ人は、戦いで兵力を失うことを極力避けていました。他国を占領すると、その土地の人々に「税金を払って従うか否か」を問います。このとき、それまでの支配者よりも少しだけ税率を下げるのです。そういう条件を示した後で、改めて「この税率で税金を払ってイスラム教に改宗してくれればベストだが、改宗しなくても反抗しなければ今まで通りの生活を保証する。どうだ?」と問うのです。こう問われたらたいがいの人は思います。

  「税金が安くなるのだから、まあいいか」

 このような具合で、人々はイスラム帝国の支配下に入ります。イスラム帝国は、こうして領土を拡大していったのです。

 今でもときおり、アラブ人は征服した他民族に対して「クルアーンか死か」と迫った、といわれていますが、それはまったくの虚説です。

 そして、もうひとつの優れた統治政策がミスルの建設でした。一般的に大軍が他国を侵略すると、攻め込んだ兵士が略奪や暴力に走ることが少なくありません。そこでアラブ人は、軍人たちが都市住民と無益なトラブルを起こさないように、軍人たちを一カ所にまとめて住まわせる都市を占領地に建設したのです。

 このようにしてつくられた都市をミスルと呼びました。アラビア半島からメソポタミア地方にかけて数多くのミスルが建設され、今日まで残っています。ユーフラテス川下流のバスラや中流のクーファなどの都市がそれです。

 イスラム帝国はムハンマドの仲間だった正統カリフ時代、それに続くウマイヤ朝やアッバース朝などの時代はフスタートを拠点としてエジプトを支配してきました。しかし十世紀に北アフリカのチュニジアを本拠地として勃興してきたファーティマ朝(九〇九-一一七一)から攻撃を受け、九六九年、エジプトのイフシード朝が倒されました。

シチリア生まれのヨーロッパ人がカイロを建設した

 イスラム教は、スンナ派と呼ばれる多数派とシーア派と呼ばれる少数派に大別されます。そうなった経緯は複雑なので説明は省略しますが、ファーティマ朝はシーア派初の王朝で、フスタートに拠ったそれまでのイスラム王朝はスンナ派でした。

 ファーティマ朝がフスタートを攻略したときの将軍は、ジャウハルというヨーロッパ人です。彼はシチリア生まれのキリスト教徒でしたが、ファーティマ朝がシチリアを征服したときその傘下に加わり、イスラム教に改宗して将軍にまで出世しました。

 彼はフスタートを陥落させましたが、そこに軍隊を入れずに、その北東に別の政治都市をつくりました。この都市が現在のカイロです。ジャウハルはこの町を、「アル=カーヒラ(勝利の町)」と名づけました。カイロという名前の由来です。ちなみにフスタートには「大きなテント」という意味があるそうです。ジャウハルはカイロにイスラム教の大寺院アズハル・モスクをつくり、諸官庁を整備し、政治都市に必要な機能を整えました。ファーティマ朝はチュニジアからカイロに首都を移します(九七三)。これがカイロのスタートになります。それから十二世紀まで、カイロはエジプトの政治の中心地、フスタートは商業の中心地となり、隣接して繁栄の時代を送ります。

 ファーティマ朝は、ナイルの恵みを充分に享受して豊かな王朝となり、その勢力はシリアにまで及びました。また、ファーティマ朝の人々は、自分たちこそイスラム教の正統派であると自負しており、その君主も自ら「カリフ」を自称しました。カリフとは「預言者の代理人」の意味です。本来、カリフはムハンマドから続いているスンナ派のウマイヤ朝やアッバース朝の君主だけに許された称号でした。さらにファーティマ朝は、自分たちこそイスラム教学の本道を極める者であると主張するために、宗教と学問の発展にも努力しました。アズハル・モスクの中に、アル=アズハルという大学をつくりました。

 アル=アズハルは今日もカイロに偉容を誇っています。世界最古の大学としてイスラム教の学問の中心地となっています。この大学は大学の理想ともいうべき三つのことを、開学当初から守ってきました。すなわち入学随時、出欠席随意、修学年限なしの三信条です。「学びたいことを納得いくまで学びなさい」。それしか求められませんでした。十世紀のことですが、文化的な側面でいかにイスラム世界が進んでいたかがわかります。それに引き換え、当時のヨーロッパは、まだまだ野蛮な世界でした。

 このファーティマ朝にハーキムというカリフが登場します(在位九九六―一〇二一)。非常に有能でしたが複雑な性格の人で、さまざまな業績やエピソードを残しています。

 ひとつには学問や文化を大切にしました。彼は自費を投じて、「ダール・アル=イルム」(知恵の館)を建設しました。この施設は、次のような伝統を引き継いでいます。

 BC三八七年頃、哲学者プラトンはアテネにアカデメイアという学園を創設しました。そこは現在の日本でいえば東京大学のような学問の殿堂となりましたが、五二九年に至りローマ皇帝のユスティニアヌスが国教であるキリスト教の歓心をかうべくこれを閉鎖してしまいました。するとアカデメイアの学者たちは、ギリシャやローマの貴重な文献を持ってサーサーン朝ペルシャに亡命し、ジュンディーシャープールにあった学園に再就職しました。サーサーン朝ペルシャが滅びると、アッバース朝のカリフがバグダードに「バイト・アルヒクマ」(知恵の館)をつくり、ジュンディーシャープールの学問を受け継ぎました。この時代にギリシャやローマの大量の文献がアラビア語に翻訳されたのです。そしてアッバース朝が衰えてくると、ファーティマ朝のハーキムが、カイロの地に新しい知恵の館「ダール・アル=イルム」を創設したのでした。

 「ダール・アル=イルム」がつくられてからイスラム帝国の文化の中心地は、バグダードからカイロヘと移ります。このカイロの「知恵の館」に多くの学者が集まりましたが、その中にイブン・ハイサムという、今日でも「光学の祖」といわれる大学者がいました。レンズや鏡をつかった光の屈折や反射の諸原理について、多くの業績を残しています。

 ハーキムは厳格なイスラム教徒でもありました。イスラムの戒律を破る者に対しては、過酷なまでの罰則を科したと伝えられています。また異教徒に対しても決して妥協せず、エルサレムのキリスト教の聖地、聖墳墓教会を破壊してしまいました。この行為が後の十字軍結成の原因のひとつとされました。

 またハーキムは、夜になると秘書を一人だけ連れて町を彷徨しました。「民情を視察する」のが目的であったといわれています。

 彼はある夜、城を出たきりそのまま姿を消してしまったそうです。やがてナイル川から衣服だけが見つかりました。暗殺説が有力なのですが、カリフの衣装を捨てて隠者になったのだという説も根強く残りました。このように神秘的な性格を持っていたハーキムは、すでに生存中から神格化されていました。そして彼の死後には、彼を崇めるドゥルーズ派と呼ばれるシーア派の分派が生まれています。
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