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インドとヨーロッパ--EUの実験場としてのインド

『インド人の「力」』より 多様性大国の光と影--「個の力」がせめぎ合う国の人間模様

インドとヨーロッパ--EUの実験場としてのインド

 EUにくまなく通用する共通語がないように、インドも一つの言語で事足りる情況にはない。インドの歴史社会にあって、多様を極める言語文化間の橋渡し役、あるいは接着剤として機能してきたのが「サンスクリット語」である。サンスクリットの語彙や諸概念は、語族や語種の境界を越えてインドの諸言語に浸透し、共通理解の足場を形作ってきた。ヨーロッパで言えば、さしずめラテン語がそれにあたる。たとえば、サンスクリットと語族を異にする南インドのタミル語ですら、語彙の四割ほどはサンスクリット起源である。西隣のマラヤーラム語に至ってはさらに比率が高まり、半数以上に達する。現代では「英語」が、サンスクリットに代わって同様の役目を担っている。

 言語面以外でもインド世界はよくヨーロッパに喩えられる。インドは旧ソ連を除くヨーロッパに比べ、人口こそ二倍強あるものの、面積ではほぼ等しい。インドの各州はヨーロッパの一国にも匹敵するか凌駕するほどの面積と人口規模をもっている。かつて映画の制作本数をインドとヨーロッパで比べたことがあったが、インドの場合二四言語にわたって計一二八八本制作されているのに対し、ロシアを除くヨーロッパでは一八カ国で一三二二本となっており(ぃずれも二○○九年)、映画の世界でも両者は似たもの同士なのである。

 ヨーロッパでは地域によってさまざまな民族、言語、文化、宗教(宗派)がみられるが、インドにおいても、多様性は言語、文字、宗教、社会制度、地域性、衣食住、民族文化、経済格差にまで及ぶ。インドという連邦国家は、言うなれば、言語や文化を異にするヨーロッパの国々を一つに束ねたような体裁になっているのである。

 EUは、イギリス等の例外を除いて通貨統合を果たし、貿易面などで着実に前進しつつはあるものの、立法、行政、司法などでの統合はまだじゅうぶんに果たされてはいない。初等教育の制度なども加盟国によりまちまちである。各国政府に権限が委ねられているからである。EUには常設の軍も事実上存在しない。それに対してインドのほうは、一九四七年の独立時点をもって、軍事面を含む、ヨーロッパに勝るとも劣らない規模の「多様なるものの統一」を、名実ともに成しとげている。その後、宗教対立や分離独立の動きなど、多くの難問が立ちはだかってきたが、破綻することなく今日を迎えている。

 ちなみに、EU加盟国はニハカ国なのに対し、インドには二八の州がある。インドの各州がヨーロッパの一国に匹敵する規模をもつことはすでに述べたとおりである(インド共和国の国土には、州以外に、いずれも面積の狭い七つの連邦直轄領も存する)。

 インドという「世界最大の民主主義国家」--彼らはこう自国を礼讃する--は、多言語・多民族からなるヨーロッパの政治的・経済的・軍事的統合の予行演習の場であり、人類の平和的共存の壮大な実験場であるといえる。インドとヨーロッパは、歴史的にきわめて異なる道を歩んできたようにみえるが、このように考えた時、軌を一にする面を有し、パラレルな展開を示していることもまた事実なのである。

「カレーなる民族」--攪拌する人々

 インド民族は「華麗なる一族」ならぬ「カレーなる民族」である。彼らが食するものは基本的に「主食+カレー」のこね合わせに尽きるからである。インドでは地域やコミュニティによって調理法や食材・食文化に違いはあっても、「カレー」という共通項をもっている。南アジア史の大家・辛島昇は、カレーこそインドの食文化における「多様性の中の統一」の例証とするが、まさに真実を突いている。

 かつて日印の食文化の違いと称して、前述のM・K・シヤルマは「インド人は混ぜ、日本人は並べる」と表現した。たしかに、日本人は食器を吟味し盛り合わせにも配慮し、料理を食卓にきれいに並べる。インドでは原則的に、盛りつけられた食器が食卓に勢揃いすることはない。カレーは、あらかじめ全部が混ざり合った「オールインワン」だからである。小皿などは不要。食べ物を載せ、手でこねるための大きくて平たい器かバナナの葉があればじゅうぶんである。

 私がインドで暮らしていた時のこと、何かの祝いの席で隣に坐ったおじさんが、まだ食べ物に手をつけていない私を見かねて、私のと飯とカレーを素手でかき混ぜてくれたことがあった。さすがにギョツとしたが、代わりに混ぜてやったから「さあ召し上がれ!」という親切心のあらわれなのである。ど厚意(?)に甘えて、いやいや口に運んだことは言うまでもない。そもそも右手は「清浄な手」なので、他人のと飯をかき混ぜても汚したことにはならない。この体験がトラウマになり、それ以来、食が進まなくても自分によそわれたど飯とカレーは、すかさず自分の手でこね回しておくようにしたものである。

 たしかに動物は食べる前に混ぜることをしない。インド人にとっては、混ぜること、混ざることこそが人間の人間たる所以であり、文明の証なのである。和食のように、ど飯とおかずを別々に口に運ぶことは原則的にない。インド料理に「出汁」の概念がないところなども、日本の食文化と対極をなす。

 アメリカ社会を形容する「人種のるつぼ」とカナダにおける「文化のモザイク」はよく比較されるところである。どちらも多文化主義ではあるが、アメリカを「共存的」、カナダを「自治的」として区別することもある。アメリカの教育史家ダイアン・ラヴィッチは、共存的多文化主義は、社会を構成する各々の文化やサブカルチャーが渾然一体になったものであるのに対し、自治的多文化主義は、むしろ文化間の差異を維持する志向性があるとする。ラヴィッチの区分に照らせば、インドは紛れもなく後者に属する。「るつぼ」ではなくて「モザイク」、いや私に言わせればやはり「カレー」なのである。
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