goo

ハイデガー『存在と時間』--現代思想の金字塔

『現代思想の名著30』より 現象学・実存主義 ハイデガー『存在と時間』(原著刊行年 一九二七)--現代思想の金字塔

二十世紀の哲学者の中で最も大きな影響力を及ぼしたのは誰か、と専門的な哲学研究者たちに尋ねたら、圧倒的多数が、ハイデガーと答えるだろう。レヴィナス、フーコー、ドゥルーズ、デリダを中心に展開した、一九六〇年代後半以降のフランスの現代思想は、ハイデガーの影響なしには考えられないし、戦後ドイツの社会思想をリードしたフランクフルト学派は、ドイツ思想の根底に流れるハイデガー的なものへの対抗を自らの軸に据えてきた。アーレントを介しての政治哲学への影響や、ローティキドレイファスを介しての英米の分析哲学への間接的な影響なども視野に入れると、現代思想はハイデガーを中心に展開している、と言っても過言ではない。その彼の影響力を決定的にしたのが、彼の処女作でもある『存在と時間』である。

『存在と時間』は、そのタイトルが示しているように、「存在」と「時間」の関係を解明することを試みた。もう少し詳しく言うと、「時間」という視点から存在論を再構築することを試みた著作である。「『存在する』とはどういうことか?」という問いは、哲学にとって最も基本的で、全ての考察の起点になるはずだが、あまりにも抽象的すぎて、どう手を付けたらいいのか分からないということがあって、なかなか本格的に議論されてこなかった。中世においては、キリスト教神学における神の創造をめぐる教説と絡めて論じられたが、キリスト教の影響が弱まり、理性的主体としての自我の〝存在〟を起点に考えることが常識になった近代では、捉えどころのない「存在」それ自体をめぐる問いは敬遠され、非合理的な過去の遺物扱いされるようになった。

ハイデガーは、従来の存在論が、「存在」についての問いを掘り下げることができなかったのは、私たちの存在理解に必然的に含まれているはずの「時間性」という要素を無視するか、(空間的物質性に比べて)二次的な位置付けしか与えていなかふたためではないかと示唆する。そのうえで、自らが「今、ここ」に現に存在することを自覚し、時として自らの存在に対する問いを発する特殊な存在者である「私」(=現存在)の特殊な存在性格に改めて注意を向ける--動物は、自らの存在に関する問いを発しない。ハイデガーは、「現存在」が自らの「存在」をどのように了解しているか、私たちの日常的な経験に即して(という体で)議論を進めていき、私たちの自己理解や他者や諸事物との関わりにおいて「時間」の果たしている役割を徐々に明らかにしていく。

↑「主体/客体」以前の意識

 ハイデガーの議論の進め方において重要なのは、現存在の「実存」としての側面である。「実存」とは、文字通り、現実の存在のことである。従来の哲学は、「人間は理性的動物である」というように、まず、人間を含む、あらゆる存在者の「本質」を予め規定したうえで、それに基づいて議論を展開してきた。デカルト以降の近代哲学は、精神である主体が、自らの目的に即して、(自らの身体を含む)物質的な客体に自発的に関心を持ち、認識し、利用するという二項図式を前提にしてきた。

 しかしハイデガーに言わせれば、そうした「主体/客体」関係は、人為的に構築された〝本質〟にすぎない。私たちは日常において、主体と客体の区別を意識する以前に既に周囲の事物や他の人間たちと(無自覚的に)関わりを持っており、その関わりの中で自己の在り方が現実的に規定されている。私たちは、日々の生活で、時計、電話、パソコン、筆記用具、服などを、あまり自覚することなく手に取って利用し、周囲の人に対して自然と目くばせしたり、距離を取ったり、何となく語りかけたりしている。それらの動作のほとんどは、私たちが意識する前に、物理的・社会的環境との関係でほぼ自動的に実行される。自分の意識だけで、自分の在り方を左右できるわけではない。かといって、自分に固有の環境世界に生まれてから死ぬまで縛り付けられている動物とは違って、他の存在者に対して自らの関わりを自覚的に捉え直すことができるし、かつ、そうせざるを得ない。そうした人間特有の「実存」を、(イデガーは「世界内存在」と呼ぶ。

 私たちは気が付いた時には、この「世界」の中に(自分の意志とは関係なく)投げ込まれて、周囲の人間や事物と一定の関わりをしている自己を見出す。しかし、そのことに気が付くと同時に、今度は、そうした自分の現状をそのまま受け入れるか、あるいは、それに挑戦して変容させようとするのか、という選択に迫られていることにも気が付く。私は、たまたま日本人の男性として生まれたが、その事実を受動的に受け入れ、そのアイデンテゴアィを守っていくのか、それとは異なるより自分に適したと思われるアイデンティティを求めるのかを選択しなければならない。「世界内存在」としての私たちの「実存」は、受動的な被投性と、能動的な投企の間で揺れ動く不安定な状態にある。

 その不安定さの中で、私たちは、自己の存在の根拠に対して「不安」を抱く。その「不安」が契機となって、私たち現存在は、自己の存在に対して絶えず、「気遣い」を抱き続ける。この根源的な「気遣い」に基づいて、他者に対する顧慮や諸事物に対する配慮が生じるのである。この自己に対する「気遣い」は、時間の中で現れてくる。何故なら、私たちが気遣い、最終的に選び取る「自己」というのは、現に客観的に存在する自己ではなく、自己の「可能性」、あるいはこれから将来(到来)すべき自己だからである。この将来の自己に対する「気遣い」との関係で、現在、あるいは過去の自己に対する気遣いも方向付けられる。これまでの自己、今ある自己を深く知ることによって、将来の自己がどうあるべきかという見通しが形成される。そうした自己にとっての、「将来」-「現在」-「既在」の統一体が「時間性」である。

↑現在の生を解明すること

 「時間性」に即して自己に固有の在り方を「気遣う」のが、現存在の「本来的」な実存であるが、私たちの多くは日々の生活において、自分自身が自分の「実存」に関してどのような選択をしているか明確に自覚しておらず、世の中に何となく合わせて生きている。そうした状態をハイデガーは「ヒト」と呼ぶ。「ヒト」というのは、日本語で、「人が見ている」とか「人に聞かれたら恥ずかしい」と言う場合のょうに、社会を代表する不特定で、脱個性化した〝誰か〟のことである。ドイツ語には、これにほぼ相当する〈man〉という不定代名詞がある。〈das Man〉は、〈man〉を名詞化した、ハイデガーの造語である。

 「ヒト」と同調している現存在は、自らに固有の「実存」と本来的な関わりを持つことができず、機械的に単調に流れていく「非本来的」な時間の中で生きている。

 「ヒト」化した現存在が本来的な自己に向き合う契機となるのは、「不安」、特に自己の「死」に対する不安である。「死」という自らの「終わり」を見据えれば、各現存在は、自分自身が自分の生全体にどのような「目的内乱の」を与えるか決めねばならない立場にあることに気付かされる。積極的に意味を与えなかったら、自分の生そのものが無駄になるかもしれない。無論、自分で意味付けしようとしても、その通りに生きられる保証はなく、やはり全てが無に帰する可能性は排除できない。

 だからこそ、「ヒト」は「死」を直視することを避ける。死はいずれ来るがずっと先のことだろうと自分に言い聞かせて、自己の生に対して「責め」を負う「決意」を先送りにし続ける。そうした「ヒト」の閉鎖性を脱して、「終わり」としての「死」を見据えながら、自らの「運命」を選択すべく決意している状態を、「先駆的決意性」と呼ぶ。「先駆的決意性」によって、現存在は、自らにとっての本来的な時間性を生きることができるようになる。

 ただ、「先駆的決意性」によって自らの「運命」を選ぶといっても、全くゼロから選べるわけではない。各現存在は、何らかの共同体の中に生まれつき、その中でアイデンティティを形成しているがゆえに、そこに属する他の現存在だちと歴史的運命(歴運)を共有している。各現存在は、「歴運」と関連付けながら、自らのこれまでの在り方(既在)を捉え直し、どういう「運命」を選び取るのか「決意」しなければならない。「歴運」という観点から、現存在の生を解明することが哲学にとって重要な課題となる。

 このようにしてハイデガーは、「現存在」の「実存」を時間の中で捉える斬新な方法論を提示するが、「存在」それ自体の構成に「時間」がどう関わっているのか、という肝心の問いは、刊行された『存在と時間』の中ではほとんど手が付けられていない。(イデガーの当初の予定では、既刊の『存在と時間』は前半部であり、新しい存在論を提示するという本題は後半部で展開されるぱずだったが、理論的な困難のためか、後半部は公刊されることがなかふた。この後半部がどうなる予定であったのか、それが三〇年代半ば以降、つまりナチスに接近して以降のハイデガーの存在論や詩論とどういう関係にあるのかは、(イデガー研究の枠を超えて、現代思想全体にとって大きな関心事とたふている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 茨城・山梨・... OCR化した16冊 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。