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ヨーロッパ史1914-1949 戦いの目的

『地獄の淵から ヨーロッパ史1914-1949』より

ドイツ兵士が考える戦いの目的は、漠然とした将来のユートピア像につながっていた。すなわち、粉砕された敵に対するドイツ人の人種的優越と支配が、彼らの家族と子孫に平和と繁栄を保障するであろう「新秩序」である。一九四四~一九四五年までには、そうしたあいまいな希望は消滅していた。だが、それでも戦争は意味をもっていた。戦争がそれほど粘り強く最後まで戦われるのは、いまや「帝国の防衛」という主として別のイデオロギー上の義務のためだった。この文句は単に抽象的な政治的、地理的存在ばかりか、家族、家、財産、そして文化的ルーツの防衛を含んでいる。そして、彼らと同僚兵士がとりわけ東部で、どんな罪を犯したかを知っているので、戦い続けることは、赤軍に対し、何か何でも持ちこたえることだった。復讐心に満ちた赤軍が勝利すれば、彼らの大切なものすべてが間違いなく破壊されるのだ。戦争のイデオロギー的意味は、規律、訓練、すぐれた指導と並んで、ドイツ国防軍の極めて高度な戦闘士気を事実上最後まで維持することに与った。

ドイツの軍事同盟諸国にとって、戦争の意味ははるかに不鮮明で、士気の維持ははるかに困難だった。ルーマニア軍を中心にドイツ以外の約六九万の軍が、一九四一年のソ連侵攻に加わっている。スターリングラードで破局的結末を迎える攻勢には、ルーマニア軍、ハンガリー軍、クロアチア軍、スロヴァキア軍、それにイタリア軍がすべて参加した。約三〇万の非ドイツ系枢軸軍部隊が、ソ連の反転攻勢で捕われた。ヒトラーは彼らの闘争心のなさに対し、怒り交じりの軽蔑しか抱かなかった。事実、こちらの闘争心はドイツ軍のそれより立ち遅れており、それにはもっともな理由があった。ソ連に対する憎悪は広がっていたが、それだけではドイツ軍自身の場合のように、ドイツの同盟軍に動機となる意味を与えるには十分ではなかった。ドイツの同盟軍は、そのために戦い、命を落とす価値があると思えるような社会ないし体制の明確な未来像をもってはいない。脱走は日常茶飯事、士気の欠如が蔓延し、指導力は惨惜たるものだった。ルーマニア軍将校は、装備貧弱で兵員不足の下級兵士の部隊を犬並みに扱った。彼らの多くがただ脅迫下でのみ戦ったのは、驚くに値しない。「ルーマニア人は真の目標をもっていない--彼らは何のために戦っているのだ?」というのは、ルーマニア軍と対峙し、戦闘力としての彼らの弱さを見て取った元赤軍兵が投げかけたもっともな疑問である。ドン川流域で戦うイタリア軍部隊も、自分たちがそこで何をしているのか、しばしば思案した。はるか遠く故郷を離れ、自分にはほとんど無意味な戦争で、最悪の環境下にいるのだ。彼らが戦う士気を欠いていたのは、もっともなことである。あるイタリア軍軍曹は、彼の大隊はなぜ一発も撃たずに降伏したのかとソ連軍通訳に問われ、こう答えた。「われわれはそれが間違いだと思ったから応射しなかったのだ」

大方のイタリア兵は戦いたいとは思っていなかった。ムッソリーニが、憎たらしいドイツのためにしかならない戦争に自分たちを引きずり込んだ、彼らはますますこう感じていた。広く浸透した分かりやすいイデオロギー上の意味がないため、この戦争は彼らにとって、強力に動機づける目的をまるで欠いていた。彼らが見込みのない戦いを続けるより、降伏と生存を望むのはまったく合理的であった。だが、イタリアが一九四三年九月に戦争を離脱すると、祖国の北部をドイツ軍に、南部を連合国軍に占領され、イタリア人は自らと家族・家庭に直接影響するイデオロギー上の目的のために--占領軍に対し、またイタリア人同士で--頑強に戦う覚悟を示した。すなわち、イタリアがどのような戦後国家になろうとするのか、再びファシスト国家なのか、それとも社会主義国家なのか? これである。

巨大な多民族戦闘集団である赤軍の兵士には、戦争はまったく違った意味をもっていた。大方は教育のない素性の者たちで、未開に近い環境下で暮らしてきていた。歩兵の四人に三人は農民。僻村出身の若者の中には、軍隊に入営するまで電燈を見たことがない者もいた。彼らのほとんどにとっては、自分が戦っている戦争のより深い意味を省察することなど、直ちには思いつかなかっただろう。多くの兵士が戦ったのは、疑いなく、そうしなければならなかったからであり、他に選択肢がなかったからであり、さもなければ確実な死を意味したからである。しかし、恐怖心だけでは、一九四一年の破局の淵から四年後の完全勝利まで、赤軍のあのような驚くべき戦闘力と士気を維持できなかっただろう。

実は一九四一年の夏、一見止めようのないドイツ軍の前進が勝利に次ぐ勝利を重ねていたとき、赤軍の士気はあわや完全に崩壊しそうになった。脱走の比率は高かった。脱走兵に対する残虐な懲罰の比率も高かった。だが、止むことのない政治宣伝の集中砲火と、ドイツ人による被征服民に対する果てしない虐殺談、そして、最後はモスクワ直前で赤軍が勝利した際の英雄物語が、ついにその腐敗を止めた。ソ連兵士たちはドイツ国防軍の兵士と同様、たとえそれを表現できないにせよ、戦争に意義を見ていた。彼らの意欲のなかでイデオロギーが果たす役割を過小評価するのは誤りだろう。それは必ずしも体制の公式イデオロギーではない。もっとも、これがいまや愛国主義の強調と調和していた。後のスターリングラードの勝利につながる一九四二年一一月のドン川流域での赤軍大攻勢の朝、スターリンは軍に対する演説で、攻勢を愛国的言辞でこう表現した。「親愛なる将兵諸君、わたしはわが兄弟たる諸君に呼びかける。本日、諸君は攻勢を開始し、諸君の行動が、国が独立国家であり続けるか滅ぶか、その命運を決めるのだ」と。目撃者の一人がその日の感動を回想している。「それらの言葉は本当にわたしの心にまで響いた。……涙が出そうだった。……わたしは本物の興奮、精神的興奮を感じた」

しかし、それは単なる愛国主義ではなかった。愛国主義とマルクス・レーニン主義イデオロギーは互いを補強しあった。軍隊はボリシェヴィズム教育を受けていた。モスクワの入り口と、スターリングラード、クルスクで戦った将兵は、ほかに何も知らなかった。彼らは幼少期から、万人のための新しい、より良き社会という構想を吸収してきている。スターリンを「父親のように」夢に見ることを認め、彼の声を聞くのを「神の声に」なぞらえる赤軍古参兵の一人は、抑圧がどうであれ、「スターリンは未来を体現していたし、われわれはみんなそれを信じた」と語っている。共産主義の祖国という、この未来のュートピアがいまや、差し迫った脅威にさらされている。そのユートピアはまだ実現する可能性がある--ただしそれは、ハイエナの如く襲いかかってソ連本土を揉願し、市民を殺害し、町村を荒廃させるヒトラーのファシストたちを粉砕することが条件なのだ。それは、いったん形勢が逆転し、赤軍がドイツ帝国国境を視野に入れたとき、復讐という要素が加わることで一段と効果を増した力強いメッセージであった。赤軍兵士にとって、彼らが戦っているのは防衛戦争、正義の戦争だった--いかなる人的犠牲を払っても戦い、勝だなければならない戦争だった。それは強力な動機づけだった。戦争は現実的な意義をもっていたのである。

西欧連合国の戦闘部隊にとっては、戦争をただ一つの意味に矮小化することはできない。英国とフランス、ポーランドによる当初の西欧連合国に、戦争勃発後、速やかに英自治領諸国が合流した。英仏両国の植民地は膨大な数の兵士を供給した。インドだけで二五〇万人で、これは主として日本との戦いに配置され、植民地北アフリカは一九四二年以降、フランス軍事力の再建基地となるに至った。戦争の初期段階から英国と並んで、フランス、ーランドとともに戦ったその他多くのヨーロッパ諸国の中には、チェコ、ベルギー、オランダ、ノルウェーがある。米国とその他多くの国がのちに、連合国側に立って参戦した。一九四二年、枢軸諸国に対する同盟は二六力国から成り、「連合国」を自称した。ヨーロッパばかりか、日本の参戦後は極東で、また海と空で軍務に就いたこのようにまったく異なった戦闘部隊の男女にとって、戦争はさまざまな意味を帯びた。また、連合国兵士の方がその他の兵士に比べ、自分が考える戦争目的を表現することに巧みだったわけではない。本国宛ての手紙はたいてい、軍隊勤務のより日常的な生活面を扱っており、多くの場合、兵士が耐えなければならない困難や苦痛、恐怖、そしてトラウマのもっとも不快な部分を、愛する人びとには隠している。戦友意識は極めて重要で、故郷と家族の元への帰還を切望する気持はほぼ全員に共通している。つまり、究極的には、自分個人が生き延びることが問題だったのだ。しかしながら、多くの場合言葉に出されないまでも、士気を維持し、この戦争を戦う価値あるものにした文化的価値観と動機づけになる意識下の信念があった。

英国に拠点を置く亡命ポーランド政府と自由フランスにとって、また、連合国軍に加わったその他のヨーロッパ諸国の国民にとって、目的ははっきりしたものだった。ドイツの占領からの祖国解放である。だが、自由フランスの指導者シャルル・ドゴールは長い間、大多数のフランス国民を代表してはいなかった。フランス内外にいる国民にとって、戦争の意義はただ一つではなかった。亡命ポーランド人にとっても、戦争の意味は一つ以上あった。目的はドイツのくびきからの自由だけでなく、戦争の進展とともにこちらが重要性を増すのだが、戦後のポーランドが隷属の形を取り換えただけでソ連の支配下に入ることがないように努めることだった。

ポーランド軍最高司令官でポーランド亡命政府首相、ヴワジスワフ・シコルスキ将軍の下、約コカ九〇〇〇のポーランド陸・空軍兵が一九四〇年、フランスから英国へ退避していた。もっとも、フランス領内で戦ったポーランド兵の四分の三は戦死するか、捕虜になっていた。ポーランド人パイロットは次いで、「英本土航空決戦」に例外的な貢献をする。あまり知られていないことだが、ポーランド人の暗号専門家たちも、英仏専門家と協力してエニグマ暗号--彼らはすでに一九三〇年代に、初期タイプのエニグマを解読していた--の解読に功があり、これで連合国軍がドイツ軍の通信を読むことが可能になった。それは大西洋の戦いに最終的に勝利する上で、極めて重要な要因だった。
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