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不幸の表現としての「幸福」

『可能なる革命』より 「幸福だ」と答える若者たちの時代

それでは、この奇妙なねじれをどのように説明すればよいのか。これを説明するためには、「あなたは今の生活に満足していますか」とか「あなたは今幸せですか」と問われたときの心理を考慮に入れなくてはならない。

まず、「生活の全体が幸福だ」「人生に満足だ」ということは、「痛い」とか「赤い」のように直覚されるものではない。「痛い」ということの根拠は、現に私が痛いと感じているという事実以外にはない。痛みは端的に直覚される。どうして痛いのかと言われても、痛いから痛いのだとしか言いようがない。それに対して、「私は幸福だ」は、端的に直覚されるものではない。確かに、おいしいものを食べているときとか、好きな人と一緒にいるときに「幸せだな」と感じたり、試験に落第したり失恋したときに「不幸だ」と感じることはある。しかし、このときの「幸せ」とか「不幸せ」は、その個々の出来事に関して言われているのであって、人生の全体に対して言われているわけではない。「私は幸せだ/不幸せだ」という結論は、私が体験し、関係している事実を全体として総合した上での判断である。調査において、「あなたは今の生活に満足していますか」という質問項目に対したとき、被調査者は、こうした総合的な判断に迫られている。まずはこの当然のことを考慮に入れる必要がある。

「あなたは幸せですか」「あなたの人生は全体としてよいですか」。この種の質問、つまり私自身(の人生)が全体として何であり、どうであるかを評価するような質問に、否定的に答えることは、原則的には非常に難しく、ある意味では勇気のいることである。「私は不幸である」と断ずることは、私(の人生)が全体としてよくないと判定することを含意してしまうからである。つまり、それは、私と私の人生の卜ータルな自己否定を意味しているのだ。だから、人は、あえて「あなたの人生は幸せか」と問われれば、特別な理由がない限りは、これに肯定的に答える傾向がある、と考えなくてはならない。「あなたは今の生活に満足ですか」という質問に、圧倒的に多数の人が「満足」「ほぼ満足」といった肯定的な回答を出すのは、だから特別なことではない。それは、まったく「普通」のことである。

しかし、それでも、「私は不幸せです」と答える人もいる。どんなときに、そのように答えることが容易になるのか、を考えてみよう。「私は不幸せだ」「私の人生はよくない」と答えたとしても、私や私の人生をトータルには否定したことにならない場合である。それならば、どんなときにトータルな否定に至らないのか。「私は今は不幸せだ」と言えるとき、つまり、「不幸」や「よくない状態」が現在に限定できるときである。言い換えれば、「今は」不幸であるとしても、将来は、より幸福になるだろう、より肯定的なものになるだろうと想定できるとき、人は、比較的容易に、「私は不幸である」「私は人生に満足していない」と言うことができる。そう断じたからと言って、自分自身(の人生)を全否定したことにはならないからである。「この程度で満足するわけにはいかない。もっとよくなるはずだ。もっとよくできるはずだ」という前提をもっているとき、人はあえて「今は満足していない」と答える傾向がある。われわれは、「私の今の生活は不幸である」という顕在的な回答は、しばしば--すべてではないがしばしば--潜在的に、多くの場合には本人すら意識していない状態で、「私の将来の生活はより幸せである」という言明を伴っていると考えなくてはならない。

こう考えると、「あなたの今の生活に満足していますか」といった類の質問に、一般には、高齢な者ほど、「満足している」とか「幸せ」といった肯定的な回答を返す率が高まるのはどうしてなのか、ということが説明できる。図1-3(一九七六/一九八六年)や図1-2(一九七三年)を見ると明らかなように、この種の回答に肯定的に答えた者の率を年層別にグラフにすると、一九九〇年代中盤以前は、だいたい右肩上がりの線になるのだった。高齢者ほど、満足だと答えるからである。しかし、少し考えると、死が近づき、体力も他の能力も衰えてきてもいる高齢者の方が、まだ若い人より、「今の生活」に満足している、というのは奇妙なことである。彼らの多くが、今に満足し、今が幸せだと答えるのは、彼らには、多くの将来が残っていないからなのである。高齢者自身、そのことを理解している。「今よりずっと幸せになる長い将来」を想定できないときに、今が不幸であると判断することは、結局、自分自身の人生をトータルによくないものとして否定するに等しい。とすれば、よほどの理由がない限り、「幸福だ」「満足だ」と自己判定するはかないではないか。

こうした考察を経た上で、現在の若者たちが、「今の生活に満足している」「今が幸せだ」と回答する傾向が高まっているのはどうしてなのか、という本来の問いに回帰してみよう。これは、若者が老人のように回答しているという現象なのである。「幸せだ」と回答する若者が増加していることを、功利主義的に見てよい徴候だなどと考えてはならない。あるいは、逆に、これを、己が置かれた状況を理解していない愚かな楽天の表出と解してもならない。若者の反応は、このどちらの見方をも否定しているのだ。彼らの多くが、「今の生活が幸せだ」と回答するのは、彼らには未だ多くの人生の時間が残されているにも拘わらず、その残された将来の中で、今よりも幸せになるとは想定できないからである。彼らは、前世代の若者より特に楽しく生きているから、幸せだと答えているわけではない。どちらかと言えば逆である。彼らは、愚昧な楽天家だから幸せなわけではない。むしろ、冷徹に将来を予想していために、今を幸せと認定せざるをえないのだ。将来、よりよくなると当たり前のように想定できないとき、人は、「今は幸せだ」と答える傾向がある。

こうした推論を裏づけるデータもある。日本青少年研究所が二〇〇〇年に実施した国際比較調査「新千年生活と意識に関する調査」によると、「二一世紀は人類にとって希望に満ちた社会になるだろう」という考えに同意しない日本の若者の比率は、六二・一%である。これは他国と比べて突出して悲観的な展望である(韓国二八・五%、アメリカ一一・九%、フランス三三・六‰)。二〇世紀の最後の年、日本の若者たちは、来るべき二一世紀に、何かよいこと、楽しいこと、心躍らせることが起きるとは予想できずにいる。

同じような含意をもつ調査の結果が、五年ほど前(二○一一年一月)、日本労働組合総連合会(いわゆる連合)から公表された。これは、若者だけではなく、一五歳から五九歳までの男女に対して、二○一〇年一二月に実施された調査である。この中に、一年後、五年後、一〇年後、三〇年後に関して、「日本は今より良くなっていると思うか」という質問がある。

この質問に、「良くなっている」と答えた者(「非常に良くなっている」+「ある程度良くなっている」)の率は、一年後に関しては、たった八・五%である。「良くなっている」の回答率は、後にいくほど少しずつ増えてはいくが、しかし、それがほんのわずか五割を超えるのは(五・六%)、最後の三〇年後だけである。その三〇年後の日本に関してさえも、確信をもってよくなるだろうと答える者、つまり「非常に良くなっている」と答えた者は、たった八・九%だ。おそらく、ほとんどの人にとって、具体的にイメージをもつことができる未来は、せいぜい一〇年後までであろう。つまり、三〇年後とは、「想像できないほど先のこと」という意味である。そのくらい先になれば、もしかすると今よりは改善されていると考える者が、なんとか半数ほどいる。逆に言えば、具体的な想像力が及ぶ範囲の将来に関しては、より改善される、より幸福になるとは想定できない、というわけだ。

こうしたデータは、若者たちが、現在の生活に関して「幸福」と回答するのは、むしろ、将来の人生に関して(より大きな)幸福を当然のように前提することができないからである、とするここでの仮説を支持している。この仮説の通りだとすれば、「幸福だ」という回答は、字義とはまったく逆のことを、ある種の不幸(想定された将来における不幸)をこそ表現していることになろう。別言すれば、「今は幸福だ」という言明は、希望がもてないことの裏返しの表現である。
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