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時間性は、死によって顕わとなる

『ハイデガー『存在と時間』を読む』より 時間性

現存在の構造的全体に対する最初の名称は世界内存在でした。これは「余りに形式的」であったため、気遣いという第二の名称によって、置き替えられはしませんが、深められました。気遣いは超越する構造の内的複合を、現存在の実存する構造を、「充填」します。それは世界内存在を多くの実存在へと発散させましたが、それらの一部しか私は展開させていません(なかでも「理解」は後のコンテクストにおいて再び取り上げねばならないでしょう)。とりわけ、「気遣い」は「世界内存在」にはできなかったある事柄を指し示します。それはつまり、現存在はつねに自らに先んじているということであり、これに対応して、現存在は決して「完結」しないということが意味されています。「現存在が存在者として在る以上、それは自分の「全体」に決して到達しない。それを獲得するとき、その獲得は端的に世界内存在の喪失となる。現存在はもはや存在者として決して経験されることができないのである」。またもや、欠如的様態が実存論的構造にとって啓示的なのです。時間性は、存在者としての現存在のまったき無化すなわち死によって顕わとなります。

自分自身に先んじる私たちの存在にとっての一般的な名前が気遣いであるのなら、この概念をより明示的にする道は、死をより詳細に見ることでしょう。「気遣い」が「世界内存在」を具体化すると言われたのと同じ仕方で、私たちは「気遣い」のひとつの具体化を死の実存論的分析から期待することができます。現存在は具体的に、〈いまだーない〉への観点からある態度を受け入れます。「最も極端な〈いまだーない〉は、現存在がそれへとある態度をとっている何ものか、という性格を持っている」。死はもしかすると他の何にもまして、たとえそれが遠く離れているとしても、まるでひとつの対象であるかのように扱われうるのかもしれません。葬送の「儀式」があれほど重要なのはこのためです。それは自分がまさに生きているということを私たちに証明し、死がただ他者にのみ起こる何かだということを証明します。「実存論的」分析は、こうした死の具象化に甘んじることはできません。「死はいまだ眼前にないものではなく、極限まで切り詰められた最後の残りでもない」。葬送の「儀式」のような態度を、あるいは私たちが末期の患者を扱う仕方(病院の特別な区画へ彼らを閉じ込める)や私たち自身の死をたんにその日付に関して扱う仕方(それがいつ来るか尋ねる)を見ればー私たちに自ずとわかるのは、死に面しての極めて限定された態度があるということ、そして私たちがそれを不断に扱っているということです。

死は、それがなければ私たちは現にそうしているようなこともできなくなるだろう、つまり時間を追い駆けながら立ち回ったり「時間を失う」ことについて話したりすることもできなくなるだろうというほどの存在感を持っています。これらすべては、異なった色合いにおいてではありますが、シモーヌード・ボーヴォワールの『人はすべて死す』でも展開されています。彼女は、死を免除されたある男を描いています。彼は他者たちに連れ回されるが行動せず、完全に無定形であるのですが、この物語の教訓は、死の緊迫が行動を促すものだということです。より構造的なハイデガーの解釈においては、死はある「切迫」です。「切迫しうるのは、たとえば雷雨、家屋の改築、友人の到着などであり、それらは眼前に、手許に、あるいは共に現に在る存在者である。[しかし]こうした様式の存在を、切迫しつつある死は持っていない」。そうではなく、死は現存在の「最も固有な可能性」です。「死は現存在自身がそのつど引き受けなければならないひとつの存在しうることなのである」。

ここで賭けられているのは現存在の先-構造です。先握・先視・先持は、現存在がつねに自分自身に先んじているということを露わにしていました。したがって必要なのは「終わり一般と全体性一般の形式的な構造を明らかにする」ことです。死は次の二つの問いに答えます。現存在はいかにして究極的に(その終わりへと向けて)自らに先立っているのか、そして現存在はいかにして究極的に全体でありうるのか。これら二つの問いが世界内存在と気遣いの分析から生じるということは、明らかでしょう。この二つのコンテクストにおいて、〈いまだーない〉と〈全体で在る可能性〉とが実存論的な規定として現れるのです。

それでは、死を実存論的に--すなわち他の諸構造もそのように理解されてきた仕方で理解するということは、何を意味するのでしょうか。間違いなく、たんにやって来る何ものかとしてではありません。〈いまだーない〉は現在の瞬間への連関を指し示しています。私が死ぬことが「いまだない」のは、いまです。しかしこの〈いまだーない〉は些細な事柄ではありません。反対に、この切迫する性格において、死は現前的で在る。私の最も固有な可能性として現前するのです。だからそれを、いつの日かどこかで何かのせいで現存在が終了することとして単純に理解すれば、死が実存論的に理解されることはありません。「死によって考えられている終わりが意味しているのは、現存在が終わりに到っていることではなく、この存在者の終わりへとI向かう’存在である」。したがって死は、どこでどのように実存していようと、現存在のある構造的な規定なのです。「死とは現存在が在り始めるや否や引き受けねばならない存在の仕方である」。

終わりへと向かう存在の発見的機能とは、現存在の時間性を露わにすることです。この分析において時間性が発見される仕方は注目すべきもので、それは過去の想起や記憶を通じてではなく、運動やその前後に従う数を観察することを通してのことでもありません。時間の発見に寄与するのは死の切迫であり、アリストテレスの『自然学』における図式でもアウグスティヌスの『告白』における図式でもないのです。もしも『存在と時間』のなかで実存躊としての誕生が何かしら認められているとすれば、それは死へと向かう存在のおかげであってそれ以外ではありません。このことは重要です。誕生とは、私たちがそのうちに立っている伝統の事実性であり、私たちが生まれ落ちる家と国そして私たちに根差す共同的で歴史的な遺産の継承です。私たちがそれらを何とか断ち切ろうとする場合でも、そうなのです。存在の時間性は基礎存在論の頂点ですから、死の分析は主要路の上における準備です。それが準備するのは現存在の時間性であり、これはこれで存在そのものの時間性を思考可能にするはずでした(それが『存在と時間』において果たされなかったのは確かですが)。

ハイデガーは終わりへと向かう存在の主な特徴をこう言って性格づけています。

 死とともに、現存在自身は自らに最も固有な存在しうることに直面する。この可能性において、現存在にとっては端的に世界内存在が懸かっている。それの死とは、もはや-現存在‐でき-ないという可能性なのである。この可能性として現存在が自分自身に直面するとき、現存在はそれの最も固有な可能性へと完全に差し向けられている。こうして自らに直面している現存在にとっては、他の現存在とのあらゆる関わりが失われる。この、最も固有で係累のない可能性は同時に最も極端なものでもある。存在しうることとして現存在は、死の可能性を追い越すことができない。死とは、絶対的な現存在不可能性の可能性なのである。こうして死は、最も固有な、係累のない、追い越しえない可能性として明らかになる。

死は私の最も固有な可能性である、つまりそれはつねに私のものである、ということになります。死において私は、少なくとも、世人としての他の皆がするようなことはできません。誰も「ひと皆が」死ぬように死ぬことはできないのです。それゆえに、死はまた終わりへと向かう存在における係累のない可能性です。死において、私は他者と関わることがない。私はつねに再び死自身へと投げ返されている。死は真っ先に常識の日常的領域から絶縁する。それはひとつの超越する契機ですが、日常的な世界へは向かいません。むしろそれは、私の最も固有な可能性として、私を私白身の自己へと引っ張る超越であり、自己所有と自己本来化という超越する運動です。それは「追い越されることができない」、つまり終わりへと向かうこの存在よりも包括的なものは何もない。それは誕生から死までを「我がものとして」います。最も固有な、係累のない、追い越しえない可能性という、これら終わりへと向かう存在の三つの規定は、あらゆる存在理解にとっての死の重要性を示しているのです。「現実性よりも高いところに可能性は存している」。しかし、最高の可能性はつねに私たちの先にあります。それはすべての無化というかたちにおいて全体に成る可能性、すなわち死です。

終わりへと向かう存在の発見的ないし啓示的な機能が第一の近似において提示するのは、死が私たちの時間性を開示させるということであり、その提示の仕方によれば、時間の主要な特徴はいまだないもの、先にあるもの、つまり未来だということになります。未来とはさまざまな出来事の到来ではなく、「到来しつつ」あり切迫しているのは、現存在自身なのです。「死へと向かう存在が[…]現存在の存在に属しているとすれば、それが可能になるのはただ到来的なものとしてのみである」。この到来は企投の基本的な特徴です。「到来に根拠づけられた「自分自身のため」に向けた自己企投は、実存性の本質性格である。実存性の第一次的な意味は到来なのである」。

しかし、死は現存在の先‐構造や到来を指示するだけではありませんーそれは現存在の時間性にとって発見的であるだけではない。この意味で、分析にとって死は不安よりもさらに中心的です。死はまた、現存在の可能的な全体性もしくは完結性とも関わっているのです。
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