goo

アレント 世界の破壊と孤立--『人間の条件』を読む

『アレント入門』中村元より インタビュー「何が残った? 母語が残った」とアレント ガウス・インタビューとアレント

次の重要な問いは、アレントの哲学における重要な問題構成である世界と公共性にかかわるものである。全体主義は、この世界と公共性を侵害し、そのうちに生きる人間を孤立させ、他者と隔絶させることによって、人々の共有する世界を破壊する。そして人々が他者とともに生きる場を破壊することによって、その支配を実現するのである。共通の世界が崩壊したとき、人は「孤立」した状態になる。この状態では、人々は単独の個であることを強いられ、他者との結びつきが失われるのである。

アレントは孤立のうちで失われるこの「世界」について次のように説明している。世界とは「事柄が公的になる空間として、人間が生きる空間、それにふさわしく見えなければならない空間」のことである。この世界はほんらいであれば、どこにでも成立しているべき空間である。「人数の多少にかかわらず、人々が一緒にいるところではいつでも、公的な関心が形成される」からである。

しかしこの空間から追いだされるとき、人間は孤立する。そして全体主義がもたらしたのは、人々に共通なこの「世界」が破壊されるという事態だった。『全体主義の起原』の最後で、アレントはこう指摘している。「現代人をあのように簡単に全体主義運動に奔らせ、仝体主義支配にいわば馴れさせてしまうものは、いたるところで、増大している孤立なのだ。そのありさまをみると、あたかも人間をたがいに結びつけているものが危機のなかで砕け去り、あげくのはてにすべての人間がすべてのものから見捨てられ、もはや何ものも信じられなくなったかのようである」。

この人々の公共的な空間の意味と、世界における孤立の問題を考察したのが、『人間の条件』という書物である。『全体主義の起原』をうけついで書かれたこの書物を貫くのは、全体主義を支え、人々を全体主義に支配させたこの「孤立」がどのょうにして発生したかという問いである。

もしも人間が失われた「世界」を取り戻すことができるならば、人々がまた全体主義に支配されるようになることを防げるかもしれない。しかし人間が世界を喪失して孤立しつづけているかぎり、ファシスムとスターリニズムはつねに再発しつづけるだろう。この書物『人間の条件』は、全体主義の再来を防ぐという『全体主義の起原』と同じようなモチーフに貫かれて書かれているのである。

そしてガウス・インタビューではこの孤立の問題が、政治哲学的に、全体主義についての考察を超えた、さらに広い視野から語られている。それは全体主義の社会に限らず、現代社会においては人間の孤立がきわめて顕著なものとなっているからである。資本主義以前の伝統的な社会においては、人々は共同体のうちで堅固な結びつきをそなえて生活していた。しかし現代社会では、人間の生活のうちで、労働と消費が占める位置がきわめて大きくなっている。そしてこの労働と消費という営みのうちで人間は孤立してしまい、世界は失われてしまうとアレントは考える。

 たんなる「労働」と「消費」がきわめて重要な意味をもっているのは、そこにおいてふたたび世界喪失という現象が浮き彫りになるからです。世界がどう見えるかということがもはや関心をもたれなくなるのです。……「労働」と「消費」においては、人間は本当に自分自身に投げ返されてしまいます。

この自分自身に投げ返されてしまった状態こそが「孤立」の状態である。「〈労働〉の状態において、ある独特の孤立した状態が生まれるのです」とアレントはつづけている。この労働と消費における孤立が、どうして世界の喪失と結びつくのだろうか。この問題は『人間の条件』で詳細に分析されるので、このテーマについては、第二章で『人間の条件』を考察しながら検討してみよう。そしてそれが道徳規範の崩壊とどのような関係にあるかを確かめてみよう。この書物において、全体主義の支配のもとで生まれた「孤立」という状態と、現代の社会の一般的なありかたとの結びつきが明らかにされるのである。

アレントはしばしば、世界と公共の空間について語るときに、古代ギリシアのポリスを実例として取りあげている。そのためアレントが古代のギリシアにみられたような公共的な空間を再現することを願っていると考えられることが多い。しかしアレントは古代のギリシアに愛着をもっていたわけではない。古代ギリシアの政治については時に嫌悪感を表明することもあったのである。アレントにとって重要なのは、現代において公的な領域を作りだすこと、そして人々がそこで行動する可能性を作りだすことだった。

そのことをアレントはこのインタビューで、「公的な領域での冒険」という言葉で表現している。この「冒険」とは、「一つの人格をもった存在として、公的な領域の光に自分の姿をさらすこと」を意味する。人々のまなざしのもとに登場して行動することこそが、この冒険なのである。

その冒険の内容としては、次の二つのことが挙げられている。第一の冒険は、「話すこと」を含めて、公的な場で発言し、みずからの思考を明らかにすることである。思考することそのものは公的な活動ではない。しかし一つの人格として公的な場で発言することは、自分が誰であるかを他の人々の目の前で暴露し、それによって人々から称賛され、あるいは批判されるというリスクを引き受けることを意味する。そのリスクのためにこうした営みは、つねに「冒険」という性格を帯びるのである。

第二の冒険は、人々の間に人間関係の網の目としてのネットワークを作りだし、そこで行為することである。「第二の冒険は、わたしたちが何かを始めるということです。関係性のネットワークのなかに、わたしたちが自分自身の糸を紡いでいくということです」とアレントは語っている。そしてこのような公的な活動をするためには、人々が完全に孤立してしまうことなく、信頼しあう関係が必要である。このような行動は、「人間を信頼することにおいてのみ可能である」からである。「根本的な意味であらゆる人間が人間的なものにたいして信頼を抱くことが重要なのです。そうでなければ冒険は不可能です」。人間関係の網の目の作りだす信頼感が冒険を可能にし、冒険がこうした網の目をさらに強固なものとして紡いでゆくのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« シェアリング... アレント 孤... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。