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プーチンとユーラシアニズム

『ユーラシアニズム』より

ウラジーミル・プーチンは、一九七五年、レニングラード大法学部を出てすぐKGBに入局、冷戦の数年間はドイツの都市ドレスデンに駐在した。政治へ関与したのは(KGBを辞めてからかどうか定かではなぃ)、レニングラード市ソヴィエト議長(その後サンクトペテルブルク市長)のアナトリー・ソプチャクのために奔走したのが始まりで、一九九六年の選挙でソプチャクが敗れるとプーチンはモスクワヘ呼ばれ、クレムリンで中級のさまざまな職務につき、ついに一九九八年、国内の秘密警察FSBの長官に任命された。

若きプーチンは、たちどころに頭が切れて非情な印象を与えたが、元の上司ソプチャクヘの忠誠心は変わらなかった。この忠誠心こそエリツィンが躍起になって求めていたもので、彼は自分の辞任後も自分と家族の身の安全を保証してくれる者を必要としていたのである。そしてプーチンは、実際に以後もエリツィンに変わらぬ忠誠を示し続けた。検事総長のユーリー・スクラートフがエリツィンの家族と知己のスイスの建設会社との不正な関係に目をつけ、捜査を開始したときの対抗措置は迅速だった。一九九九年四月、スクラートフがあるホテルの部屋で全裸の女性二人と戯れているビデオが、国営テレビで放映されたのである。このエピソードはプーチンがまだFSB長官だった時期、彼自身によって仕組まれたと言われている。記者会見でプーチンはビデオの人物がスクラートフだと認め、名高い犯罪者だちとの関係で相手を告発したと答えている。

プーチンは、KGBでは最高の地位まで行かず、中佐止まりだった。ところがこれが幸いして、後艮大統領職への有利な追い風となった・彼はチェキスト、つまりスパイの言語を話したが、自身の仕事は明らかにエリツィンの恩恵をこうむっていて、彼はその恩義を忘れはしなかった。エリツィンは回顧録で、プーチンこそ終始一貫して後継者としてはトップ候補で、一九九八年に彼をFSB長官に任命する前から、早くも後継者に決めていたと書いている。その中で、首相職に任命されたときにプーチンは、「閣下に任命されれば、どの部署でもやらせていただきます」と、エリツィンに告げたという。

「では、最高のポストではどうかね?」と、エリツィンが訊くと、プーチンはたじろいだ。「私は初めて、彼がとの会談の意味をやっと理解したことに気づいた」と、エリツィンは書いている。「そういうことは思ってもみませんでした。自分に心がまえができているかどうか分かりません」と、プーチンは言った。「考えてみてくれたまえ。私はきみを信じているんだよ」と、エリツィンは告げた。

元KGBのメンバーを当選させるのは、容易ではないはずだった。昔の陰惨な記憶はおいそれとは消えてくれず、KGBの評判は、犯罪組織よりは少々ましなくらいで、大衆受けという点ではロシアでは悪名高い腐敗した交通警官に劣るありさまだった。マイクの前では固くなるプーチンを売りだすのは、容易ではなかった。

とはいえ、あらゆる世論調査によると、民主主義者に失望した後でロシア人は秩序を望んでおり、自由を犠牲にしても、独裁的な人物でも辛抱する気でいた。厳格で無表情、酒は飲まないプーチンは、酒盛りが大好きで無鉄砲なエリツィンとは極めて対照的で、ロシア人は強力な指導者を望んでいた。プーチンはその意味で例外的なリーダーであり、ロシアが置かれていた特殊な時期に登場したのである。この時期、いまだに解明されないまま続いた二連の事件のために、ロシア人たちは身の安全について絶え間ない不安に陥っていた。

一九九九年八月、首相としての手綱を握って早々に、プーチンは、最初の大きな軍事危機に直面した。チェチェンの武装勢力が野戦司令官シャミーリ・バサーエフの指揮のもと、隣のダゲスタン共和国に侵入を開始したのである。どうやら(サヴュルト合意以後初めての攻撃で、チェチェンのゲリラ部隊は野心を募らせ、周囲の北カフカスヘと戦域を拡大しようとしているようだった。侵攻阻止のために、ロシアの戦闘員がダゲスタンヘ投入され、プーチンは再びチェチェンに宣戦布告した。

しかし、奥深い山岳部でのこれ以上の戦闘は、ロシア人はごめんだった。その厭戦気分を吹き払ったのが、いまだに不可解な一連の恐ろしい爆破事件で、それまでは小規模な警察行動だったロシアの介入が国民的十字軍活動へと一気に拡大し、全国でテレビニュースの中心となったのである。

九月四日、二十二時、チェチェンとの国境に近いダゲスタンの町ブイナクスクの五階建てビルの前で、爆弾を満載した車が爆発した。ビルにはロシアの国境警備兵とその家族が住んでおり、六十四名の死者が出た。五日後にモスクワ郊外のグリヤーノワ通りの九階建てビルで、前回よりも大規模な爆発で九十四名が殺された。建物は、ウェディングケーキが崩れ落ちるように真ん中から倒壊した。次の週、さらに二回爆発事故が発生したが、一つはモスクワ、もう一つはヴォルゴドンスクだった。しかも、それとほとんど間を置かずにいくつかの爆発未遂事件があったという報告がなされたのである。

内部を破壊された爆破現場の写真を見れば、真っ二つに割れた部屋には壊れた便器がぶら下がり、その光景はテレビを見るロシア人の脳裏に焼きついた。爆破には膨大なヘキソーゲンが使われたが、これは第二次世界大戦後のロシアの諸都市で使われたことはなかった。近隣監視委員会がつくられ、市民パトロール隊が結成された。ロシア人たちは怯え、秩序を取り戻すために新たな戦争を受け入れる気になっていた。

プーチンは、第二次チェチェン戦争で真価を発揮した。炎の下にあっても冷静沈着、いかにもテレビのタフガイ然とした姿は戦争指揮官としてはぴったりで、支持率は急上昇して五〇%超えという、いかなる政府高官でも前代未聞の高率に達した。こうした背景のために、翌春の大統領後継者としての可能性は一気に確実なものとなった。

だが、第二次チェチェン戦争の開始をめぐる不可思議な出来事は多くの陰謀論を生み出し、同じ一九九〇年代に起きた事件では、九一年八月や九三年十月のものと謎や不可解さにおいては勝るとも劣らぬものだった。これらの爆破事件には、さらにいくつか頭を悩ませる事実がある。詐裂したのは四発だったが、他にも数発が発見され、信管を除去された。そのうちの一発は、九月二十二日、爆発前に注意深いリャザン市の住民たちによって発見され、数時間後に怪しげな電話を傍受した地元警察と治安機関が容疑者の隠れ家に迫った。すると、実に奇妙なことが起きたのだ。九月二十四日、FSB長官のニコライ・パトルシェフが国営テレビで、リャザンでの「爆破未遂事件」はすべてFSBの訓練であり、「爆破犯」は実はFSBメンバーで、本物の爆弾が入っているように見せかけた砂糖袋三つを用意していたのだと説明した。「リャザンの事件は爆破事件ではなく、演習だった」

これは、疑わしいという次元を超えていた。逮捕されかけた爆破犯人たちがFSBの人間だと分かると、FSBが介入して彼らのアリバイを言い立てた。ただし、それは事件から一日半後だった。つじつまが合わないではないか。そういう演習があることを誰も聞かされていなかったことは明らかだ。FSB広報のアレクサンドル・ズダノーヴィチ将軍は、九月二十三日にテレビの対談番組に出演して、地元住民たちの用心深さをほめた--そして、演習のことは何一つ話さなかった。FSBは爆弾が偽物だと言い続けたが、信管をはずしたリャザン警察の爆弾処理係は、あれは本物だったと譲らなかった。他方、パトルシェフの怪しいタイミングによる発表の後に続いた一連の発表にも矛盾が見られた。何よりも、どうしてそんな演習が行われたのかについて説明がなかったのである。戦争の真っ最中に、なぜ戦争の演習が行われるのか?

調査を求める動議が二つ出されたにもかかわらず、ロシア下院はとの爆破事件を一度として調査しなかった。動議を出した議員で調査ジャーナリストのユーリー・シチェコチーヒンは、二〇〇三年、放射能汚染の症状を見せて死亡した。

一九九九年八月と九月の事件の真相が、完全に明らかにされたと信じているロシア人はほとんどいない。ダゲスタン侵攻同様、爆破事件もまた、プーチンの出世とタイミング的にあまりにぴったりと重なり合う。偶然にしては出来すぎで何かひっかかる。プーチンと彼の仲間は何年にもわたって、彼やクレムリンがとの爆破事件に何らかの形で関与していたこと、その狙いはチェチェンの再度の征服を正当化するためだったのではないかという指摘を否定してきた。確かに彼らには、戦いを挑発するだけの手段と動機があった。連邦国家としてのロシアの未来はチェチェンの再度の制圧にかかっており、かといってそれが大統領候補としての人気を高める邪魔になってはならなかったのだ。

ところが、この陰謀論がやや微妙になる二、三の観点もあるのだ。確かに、結果を見れば、チェチェンとの戦争をあおったほうがクレムリンの利益にかなったように見える。しかしながら、あの時点ではチェチェンとの戦争はプーチンの人気を高めるという予測はつかなかったという意見がある。実際、チェチェンとの戦争に関与したどの政治家もが人気を失っていた。まずはエリツィン、次いでアレクサンドル・レベジ。後者は元将軍で、ハサヴュルト合意を取り決めた人物である。パヴロフスキーはこう言う。「バサーエフがダゲスタンヘ侵攻したとき、われわれは誰もがプーチンに、『チェチェンには手を出すな。これと関わりがあると見られたくはないだろう。票数が減ってしまうぞ』と言った」。チェチェンと関わりを持って敗れでもしようものなら、裏目に出ることは火を見るより明らかだったのである。ところが、ロシア軍はやすやすと勝利を収めた。これはチェチェン側の大物たち数名が離反した結果だった。中でも、反乱軍のイスラム法学者で強力なリーダーのアフマド・カディロフの離反が大きかった。

一九九九年の事件の真相は、明らかにされることはまずないだろう。それどころか、チェチェン戦争での上首尾を追い風に、プーチンの人気は急上昇した。そしてエリツィンは予定通り、一九九九年の大晦日に大統領職を降りて後継者に道を譲り、その後継者は翌春の選挙にやすやすと勝利を収めたのである。
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