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高技能移民 数学者の場合

『移民の政治経済学』より

高技能移民

 従来の労働市場に対する考え方を変えない限り、移民の受け入れは米国人をあまり豊かにしない。移民が米国人にもたらす利益が大きいと予測するためには、教科書的モデルの前提条件の一部を大きく変える必要がある。高技能移民が米国人の生産性を引き上げ、イノベーションを加速し、間接的な経路で経済成長に寄与すると想定するのだ。

 高技能移民が生産性に対して利益を生む波及効果をもたらすとすれば、具体的に何が起きるだろうか? ストーリーは単純だ。米国人は高技能移民を通して新しいタイプの専門性や知識に触れることができ、その結果より生産的になるのだ。

 高技能移民と時間を共有することで、米国人労働者の生産性が上がるという仮説を裏付ける経験的証拠を見つけるために、そうした波及効果の存在を確かめる多くの研究が近年なされた。そうした研究では、高技能労働者のサプライショックを起こした国内外の過去の出来事に焦点を当てている。これまでの研究では、高技能移民はプラスの波及効果を持つということが実証されている。移民が極めて優れた能力を持ち、米国人が彼らと緊密に働くとき、そうした波及効果が最も顕著に見られる。ただ、こうした極めてレアなケースを除くと、移民がもたらす波及効果はそれほど判然としたものではない。

ナチスドイツのユダヤ人科学者

 経済学者のフアビアン・ウォルディンガーは、こうした高技能移民の波及効果に関する研究の第一人者だ。アドルフ・ヒトラーが政権を取った直後の一九三三年、ナチス政権は悪名高い職業公務員再建法を施行した。その法律の中には、「アーリア人の子孫ではない公務員は退職しなければならない」という極めて重要な条項があった。ほとんどの大学教授は公務員だったため、ドイツの大学はユダヤ人の教授を解雇した。例えば、数学科の教授のおよそ十八パーセントは一九三三年から一九三四年にかけて解雇された。

 当時、ドイツの数学は世界の数学コミュニティの中心的存在で、解雇された教授の多くはすぐに海外で新しい職を見つけることができた。ウォルディンガーはこのサプライショックを利用し、最も影響の大きかった数学科の博士課程に在籍する学生の生産性に、ユダヤ人教授の突然の追放がどのような影響を与えたのかを調べた。

 ゲッティンゲン大学とベルリン大学の数学科が、ドイツの数学研究をリードしていた。両大学から解雇された教授の中には、著名な数学者であるリヒャルト・クーラント(ニューヨーク大学に移る)やリヒャルト・フォン・ミーゼス(ハーバード大学に移る)、ジョン・フォン・ノイマン(プリンストン大学に移る)などが含まれていた。概して最も深刻な打撃を受けたのは、ドイツで最も優秀な数学科だったのだ。

 ウォルディンガーはユダヤ人教授の解雇の前に入学した博士課程の学生と、そのあとに入学した学生のその後のキャリアを比較した。予想通り、一九三三年まではクーラントやミーゼス、フォン・ノイマンなどが在籍した数学科の博士課程を卒業した学生は、ほかの研究者が引用するような論文を書く確率がかなり高かった。ところがこうした有利な状況は、ナチスによるユダヤ人教授の解雇の後にすぐになくなった。

 学生の卒業後の実績と教授陣の質の連関を見る限り、プラスの波及効果はあると言えるだろう。ユダヤ人の数学の権威がいなくなることで、良き指導教員を雇った学生の卒業後の生産性は下がったのだ。

 ウォルディンガーは続く研究で、物理学などほかの学科まで分析を拡大し、(学生ではなく)ユダヤ人教授の同僚の教授の生産性がどうなったのかを調べた。ドイツにいた物理学教授の十四パーセントが解雇され、その中にはアルバート・アインシュタインも含まれている。調査の結果、同僚の教授に関してはユダヤ人の解雇の影響が見られなかった。アインシュタインを含むユダヤ人物理学者の同僚たちが発表した論文の数は、彼らが解雇された後にも変化がなかったのだ。

 この素晴らしい自然実験は、極めて有能な労働者のサプライショックにプラスの波及効果があることを示す、おそらく最も説得力のある証拠となった。一方で、そうした波及効果が無条件に起こるわけではないことも明らかにしている。高技能移民は身近に交流した人物(指導相手となった学生など)には強い波及効果をもたらすが、すでに「一人前」になっている同僚にはそれほど影響を及ぼさない。同僚に関しては、ユダヤ人の教授がいなくなることで資金獲得競争が緩和されたプラスの側面もあった。

ソ連の崩壊

 ほとんどのソ連の歴史において、科学者は欧米諸国に行くことや欧米の科学者と交流を持つこと、彼らとアイデアを交換することが禁止されていた。ソ連崩壊により、旧ソ連の科学者たちは突然、国を出て海外に行き、欧米の研究機関の職に応募する機会を得ることになった。数学者を含めた多くの科学者がとの機会を利用し、高技能労働者が大量に欧米諸国になだれ込んだ。

 数学者のケースが特に興味深い。というのも、今では「ルージン事件」として知られている重要な歴史的出来事が、鉄のカーテンの両陣営の数学者の断絶を決定的なものにしていたからだ。モスクワ大学の著名な数学者でソ連科学アカデミーの会員でもあるニコライ・ルージンが一九三六年、スターリンによる魔女狩りの標的となった。反ソビエトのプロパガンダをばら撒き、彼が証明した最も素晴らしい定理を母国ではなく海外の学術誌で発表したとして告訴された。ソ連の数学者はすぐに政府からのメッセージを理解した。論文はソ連の学術誌だけに発表しなければならない。

 物理的、学問的な隔離によって、ソ連の数学者と欧米の数学者との間には深い溝ができていた。ソ連と欧米の数学者は、数学という学問において全く異なった分野を専門領域とするようになった。ソ連で最も人気のある分野は偏微分方程式と常微分方程式であり、同国で発表された論文の十八パーセントを占めた。米国で最も人気のある分野は統計学とオペレーションズリサーチで、論文の十六パーセントを占めた。

 一九九二年の共産党政権の崩壊がきっかけとなり、千人以上の数学者(全体のおよそ一割)がソ連を去った。その三分の一は米国に移り住んだ。彼らは米国の数学界において最も優秀な集団となり、論文を量産した。そうした才能ある数学者たちが突如として現れれば、米国人の数学者の生産性に波及効果があっても不思議ではない。実際にニューヨーク・タイムズは、ハーバード大学の数学者がソ連の数学者との交流のおかげで、長い間未解決だった数学の問題を解いたことを記事にしている。ハーバード大学の数学者、パーシ・ダイアコニス博士は、「本当に素晴らしかった。全く斬新な考え方や答えを教えてくれるんです」と語った。ダイアコニス博士は最近、二十年間考え続けた数学の問題に関する助言を[ソ連の数学者である]レシャーツキン博士に求めたという。「何か知っているかもしれない全国の人にこれまで助言を求めてきました」……誰も助けになる人はいなかった。ところが・・・…ソ連の科学者はこの問題について色々と研究していた。「私がアクセスできるようになった全く新しい世界でした」とダイアコニス博士は述べた。

 職を探している数百人のソ連の数学者が米国に移り住んできた。彼らは米国人数学者にはなじみのないアイデアを持っていた。ニューヨーク・タイムズは次のような記事も書いている。米国の科学者は……招待状を求める手紙や電話の攻勢にさらされた・・・…「旅行者として米国に来てから、全国を周って職を探している極めて著名なソ連の数学者に何人も会いました」。

 アメリカ数学会が集めたデータによると、博士号を取ったばかりの数学者の失業率は急上昇しており、「数学の分野で職を探している有能な移民の数の増加」が前例のない十二パーセントという失業率の主因だと考えられている。つまり、生計のために数学の定理を証明している人々の雇用機会も、建設労働者やタクシー運転手、肉体労働者と同じように供給と需要の法則に支配されるのだ。同学会のデータによると、博士号を取得したばかりの数学者の雇用環境が元に戻るのに十年近くかかったという。

 私はこのソ連からの科学者のサプライショックに長い間、興味を持っていた。一九九〇年代中盤にハーバード大学に移ったとき、私の家族はボストン郊外にあるレキシントンに居を構えた。その立地と公教育制度の質の高さから、その地域の大学関係者の多くがレキシントンに住んでいた。

 息子のリトルリーグの試合とカブスカウト〔ボーイスカウトの年少団員〕の活動を通して、私はある子供の父親と親しくなった。彼は数学者だった。彼はマサチューセッツ工科大学で博士号を取り、いくつかの数学の論文を発表していた。彼はソ連からの移民によるサプライショックのせいで仕事を探すのに苦労し、アカデミックのポストを得ることができなかったことを詳しく話してくれた。彼は明らかに極めて聡明かつ有能であったため、彼の言葉は強く印象に残った。私はこの逸話は調べる価値があると思い、心の引き出しにしまった。

 それから十年後、私はノートルダム大学で講義を受け持っており、そこで移民問題に関心のあった若い経済学者、カーク・ドランと会った。彼との会話の中で、高技能移民と数学者の話題が持ち上がった。私は数年前に聞いたあの話を思い出し、ドランもその時の状況をよく知っていたことが分かった。同じように影響を被った知り合いが彼にもいたのだ。彼との会話が終わるころには、この問題は調べる価値があるとはっきり悟った。

 アメリカ数学会には、世界中のあらゆる数学者が発表したすべての論文を記録したアーカイブ・データがあることをすぐに知った。つまり、ソ連発のサプライショックの前後における、米国人数学者の業績を追跡することができたのだ。我々はそのデータにアクセスする許可を得て、サプライショックが米国人数学者の二つのグループに与えた影響を調べた。微分方程式など「ソ連が得意としている分野」を専門にしているグループと、統計学など「米国が得意としている分野」を専門にしているグループだ。

 米国が得意な分野で研究している米国人数学者に対しては、サプライショックによる波及効果はほとんどないはずだ。長く隔離されていた時代に、ソ連の数学者はそうした分野でほとんど研究を行っていなかったからだ。だが、ソ連が得意な分野で研究している米国人数学者の生産性にはプラスの効果を与えた可能性がある。ソ連の数学者はそれらの分野で〔証明の際に駆使できる〕多くのツールを開発しており、そのツールを今では米国人数学者が使えるようになったのだ。

 ニューヨーク・タイムズの記事が指摘したように、実際にどうなるかを予測するのは容易ではない。微分方程式の分野を研究する米国人数学者は以前は知らなかったことをソ連の数学者から教えてもらうことで、彼らの生産性が向上するかもしれない。一方で、その同じ米国人数学者はアカデミックポストと論文の掲載をめぐってソ連から来た数学者と競争することになる。サプライショックが大きすぎれば、「標的となる」米国人数学者は論文発表につながる研究をするために必要なアカデミックポストを得ることが難しくなるかもしれない。

 図は実際に何が起きたのかを表している。一九九〇年までは、(ソ連が得意な分野で研究する)最も影響を受けた米国人数学者が毎年発表した論文の数はわずかに増加傾向にあった。一方、(米国が得意な分野で研究する)最も影響の少なかった米国人数学者の論文の数はわずかに減少傾向にあった。ところが一九九〇年以降、ソ連の数学者と最も近い研究をしていたグループの論文数は著しく減少する。つまり、ソ連からの移民と真っ向から競争することになった米国人数学者は、彼らに敗北したのだ。

 アカデミックポストの市場の裏側を知れば、どうしてこうなったのかが分かる。一九九〇年代は、米国における数学の研究職の数はほぼ横ばいだった。そのため極めて優秀なソ連の数学者の参入により、新米の数学者やテニュア〔終身雇用の資格〕を取っていない教授はポストから締め出された。ポストを奪われた多くの米国人数学者は、ランクの低い機関に移るか、完全にアカデミックの世界から退場することになった。そうした動きを受けて、彼らは論文の発表につながるような研究に従事することが難しくなった。授業の負担が増えたり、ウォール街の「クオンツ」など民間の仕事では、論文として発表できる定理を解くために使える時間が限られているからだ。アカデミックの市場では、業績に空白期間のある研究者がアカデミックトラックに戻ることは非常に難しく、多くの米国人数学者にとってサプライショックの負の影響はいつまでも続くことになる。

 ソ連発のサプライショックの影響の大きさを見れば、移民の影響を計る上で技能グループの定義の仕方が重要であるという大切な教訓を再認識させられる。前章で確認したように、異なるタイプの労働者を大きなグループにひとまとめにしてしまうと、サプライショックが標的集団に与えた影響が見えにくくなる。もしそれぞれの数学者が異なった分野の研究をしているという事実を無視し、すべての数学者を一つのグループにまとめていれば、ソ連からの移民が彼らに与えた影響はもっと分かりにくかっただろう。サプライショックは極めて特定された労働者集団だけに集中的に影響を与えるケースが多く、(たとえ学界の通説を守る目的であっても)様々なタイプの労働者をひとくくりにして扱うことは間違っている。
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