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アレント 孤独と隔絶と孤立

『アレント入門』中村元より 孤独の問題--心理学的な側面から 大衆とは ⇒ 私の出発点は「孤独と孤立」です。アレントは厳密ですね。

民主主義の幻想の破壊

 このょうに大衆を政治的に動員することに成功することで、全体主義運動はそれまでの民主主義的な政治体制を支えていた二つの「幻想」を破壊することになった。第一の幻想は、「一国の住民は同時に公的な問題に積極的な関心をもつ市民である」という幻想である。民主主義では市民はなんらかの政党や組織に参加して公的な事柄にかかわるものと想定している。第二の幻想はもしも住民がこうした公的な関心に動かされてなんらかの組織に参加しないのであれば、そして「政治的に中立で無関心であるならば、政治的な重要性名石だない」という幻想である。

 近代の民主主義の政治的な原理は、政治に参加する市民について、このょうな積極的および消極的な役割を想定していた。しかし全体主義に流れ込んだ大衆運動は、こうした想定の根底にある「幻想」を打破することになった。それは議会制民主主義という近代の西洋の代表的な政治原理を、その根底から否定するものだった。全体主義運動が猛威を振るったのも、この大衆を政治的に組織することに成功したためである。こうした大衆の政治的な組織を目標とするポピュリズムは、議会制民主主義の根幹を揺るがすものとなるのである。

 大衆の概念には社会学的には「孤独な群衆」(リースマン)や「大衆人」(オルテガ)などのさまざまなものがあるが、アレントはこのように「根無し草」としての大衆は、これまでの近代的な社会学の理論ではうまく捉えきれない人間集団であることに、政治学的な観点から注目した。それと同時に、その「根無し草」として特徴づけられた人間に特有の存在様式として、公共的な活動から切り離され、他者とともに活動することを知らず、活動することのできない人間の孤立した状態に注目する。人間が他者と公的な領域で活動することができないために、全体主義運動のような回路を通じて、その力が吸い上げられるのである。

孤独と隔絶と孤立

 アレントは、大衆が他の人々と公的な空間において連帯することができず、孤立した状態に追いやられたことが、全体主義的な支配を可能にする条件であったと考えるのである。民主主義は、すべての国民が政治に参加する可能性を提供するものであったが、人々が孤立に追いやられるときには、政治という活動そのものの力が信じられなくなる。この大衆の心理的な状態を特徴づける「孤立」とはどのような心のあり方なのだろうか。

 アレントは人間が他者との結びつきをみずから断つか、あるいは人々によって断たれて、単独な「一人」になる状態を、孤独、孤絶、孤立という三つの概念で区別している。個人がアトム化された現代の大衆社会では、誰もが単独な一者となる傾向があるが、アレントはこうした単独状態のうちでも、孤独(ソリチュード)であるということは、他者との関係を断って、自己と向きあうことと定義している。「孤独の中では実はわたしは決して一人ではない。わたしはわたし自身とともにある」のである。

 わたしたちは他者とともにあるときには、他者の中の一人として存在しており、自分自身と向きあうことはない。他者と別れて孤独になったときに、初めてわたしたちは自己と向きあうようになる。この孤独のうちでわたしたちは、自分のうちにいる「もう一人のわたし」と向きあう。そしてわたしはこの「もう一人のわたし」とは、それがまるで他者であるかのように語りあう。

 たとえばわたしが夜になって、その日のうちに他者に語った言葉や他者にたいして行った行為が適切なものだったかどうかを自問するとしよう。そのときわたしが自問する相手は、語り、行為したわたしそのものではなく、そのわたしの言葉や行為を眺めていて、批判する「もう一人のわたし」である。わたしたちは他者と別れて丁Λになって思考し、反省するときに、孤独のうちでこの「もう一人のわたし」と対話し始めるのである。

 この対話の重要な特徴は、わたしはもはや自分の目から自分をごまかすことはできないということにある。わたしが孤独の対話のうちで向きあう「もう一人のわたし」は、そのようなごまかしを決して許すことはないのである。

 ここにはある種の孤独の弁証法のようなものが存在している。他者に向かふて何かを語り、何かを行為するとき、わたしは自分自身に向きあうことがない。そうした行為のうちでわたしは、無心に他者に話しかけ、他者と交流している。これが最初の状態である。次にわたしが他者と分かれて孤独になって、自分の言葉や行為を振り返り、反省するときに、そこに自己への批判的で否定的なまなざしが生まれる。自分がその日になした無心な行為が、ほんとうに適切なものだったか、「もう一人のわたし」が厳しく吟味し始める状態にはいる。わたしは孤独において分裂するのである。

 ただしこの分裂した状態の対話には、それを決定する審級がない。「わたし」と「もう▽人のわたし」は、どちらも「わたし」であるために、結論を下すことはできないことがある。この対話は無限につづく可能性がある。そこに孤独の分裂性と多義性が生じる。

 この分裂し、みずからのうちに複数のわたしを意識するわたしを、その孤独な分裂性と多義性から救いだしてくれるのは、他者との交流をふたたび始めることだけである。この新たな他者との交流においては、わたしは最初の無心の状態ではなく、「もう一人のわたし」との対話を経験し、自己の分裂を認識したわたしとなっている。この他者との交流によって、わたしは「もう一人のわたし」との対話に、ある決着をつけることができる。

 このように、わたしが他者に語った言葉や行為が正しかったかどうかを判断することができるのは、他者に問いかけ、他者と話しあうことによってだけである。他者と向きあったわたしは、もはや多義的な自己ではなくなっている。他者だけがわたしを一義的な自己とすることができるのである。「まさにこの一者として、交換不能な存在として、一時的な存在としてわたしを認め、わたしに話しかけ、それを考慮してくれることで、わたしのアイデンティティを確認してくれる他の人々との出会いによって、わたしは孤独の分裂性と多義性から救いだされる」のである。

 これに対して孤絶(アイソレーシ。ン)という状態は、たとえば何か文章を執筆しているような状態である。文章を書きながら、仕事をしているときには、わたしは自己と対話することも、他者と対話することもできない。「何かを学んだり、一冊の書物を読んだりするためにも、ある程度の孤絶の状態が必要です。他の人の存在から守られていることが必要になるのです」。これはわたしたちが何かに専念するときに、自分も他者も忘却している状態であり、何かを作りだすための条件となるという積極的な意味をもつことが多い単独の状態である。

 最後の孤立(ロンリーネス)というのは、他者とのつながりを欲しているのに、それがえられず、他者から「見捨てられた状態」にあることである。他者との連帯の絆が、何らかの理由で断たれているのがこの状態である。この状態が生まれるのは、「どのような理由であれ、個人的な理由から∵Λの人間がこの世界から追いだされたとき、あるいはどのような理由であれ、歴史的あるいは政治的な理由から、人間がともに住んでいるこの世界が分裂し、たがいに結ばれあった人々が急に自分自身に追い返されたとき」である。そのとき、人は自己との対話も、他者との対話もすることができず、一人であることを強いられる。これはつらい状態である。たとえ多数の他者に囲まれていても、砂漠のうちで生きているような孤立感に襲われるのである。「群衆のうちで孤立していることは、孤独であることよりも辛いのはそのためです」とアレントが語るとおりである。
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