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サブカランカ 都市基盤の整備の先にあるもの

『都市の景観地理』より サブカランカ--フランス保護領時代の遺産をめぐって-

植民地遺産と観光化

 独立以降、モロッコは外貨獲得手段として観光を重視してきた。フランスが手を入れなかったフェズやマラケシュの旧市街地は、荒廃が進んだ時期もあったが、世界遺産登録がなされて整備が進み、世界中から観光客を集めるようになっている。

 カサブランカは、第二次大戦中に製作されたマイケル・カーティス監督のアメリカ映画『カサブランカ』(1942)の影響もあり、非常に知名度は高く、観光客も多く訪れる。しかし、広大な旧市街地を持つフェズやマラケシュと比較すると、旧市街地が狭く、モロッコ観光の目玉の一つであるサハラ砂漠からも遠い。人口335万人(2014年)という規模を誇り、首都ラバト(人口57万人でも比較にならない大都市であるにもかかわらず、日本の観光用のガイドブックでの扱いは非常に小さい。その小さい扱いの中では、1980年代に建設されたハッサン二世モスク、既述の映画の模倣に過ぎない「リックの店」などが紹介されている程度であり、敢えて行くべき場所と見られている様子はない。

 しかし、フランス統治の時代に成長したカサブランカには、当時の建築が多く残されている。2000年代から、モロッコの文化省は、20世紀の建築の保護に力を入れるようになった。フランスが新市街地に建設した郵便局や市役所には優美なものも多く、また、ヨーロッパ風の建築にモザイクタイルなどを用いてモロッコ風の装飾を施したものも多い。カサブランカは、そのような建築の宝庫であり、これを用いた観光化も検討されている。

 20世紀の建築について、民間レベルでその価値を広めようとする活動も行われている。 1995年に創設された市民団体、「カザ・メモワール(Casamemoire)」は、カサブランカの建築の価値に対する認識を普及する活動を行っている。ガイドブックの作成、建築案内ツアーの企画のほか、2009年からは「カサブランカ文化遺産の日」を設け、カサブランカ市や文化省、フランス協会などとの共催で、20世紀建築のガイド付きツアーのほか、入場無料のイヴェントなどを行っている。現在のカザ・メモワールの会長であるアブドゥル・カスー氏は文化省にも所属しているが、活動の多くは建築家などの専属スタッフと市民ボランティアで行われている。このような取り組みを学ぶために他の国から来たインターンも受け入れている。

 ハッブース地区も、観光化に向けた活動の対象となっている。文化省で保護の対象となっている建築はこの地区では二つのみだが、都市計画を行う「カサブランカ都市機構(L' Agence urbaine de Casablanca)」では、地区全体の整備計画も立てている。実際のところ、カサブランカの旧市街地は、かばんや時計、スパイスなどを中心とする、東京で言えばいわゆる「アメ横」のような日常的な商店が多い地区であるのに対し、ハッブース地区は、モロッコの革細工やランプシェード、陶器などを売る店が並び、より観光客向けとなっている。

 フランス統治の遺産を保護することについて、地元の人々はどのように見ているのだろうか。ハッブース地区で土産物店を営む男性のひとりは、鉄道のそばにもかかわらず、地区の建造物は100年たってもまったく問題なく、非常に良くできているという。地区に携わったフランス人建築家の一人、オーギュスト・カデは、非ヨーロッパ人のために設計されたハッブース地区の中に住み、現地の技術を信頼して、かなりの部分を職人の裁量に任せたということもあり、広く信頼を得ていたようである。その意味では、この地区の保護は共感を得られやすいところもあるだろう。

 他方で、ハッブース地区から鉄道を越えると、そこには活気あふれる民衆の町が広がっている。衣類や食品、小物などの露店がびっしりと並び、昼間から夕暮れ時まで買い物客であふれている。ハッブースの再整備計画を立てた建築家エル・ハリリ氏によれば、そこはアラブ諸国のどこでも見られる典型的な民衆の町だという。

 しかし、その民衆的な地区の一角には、ハッブース地区とほぼ同時期に建設された公的な売春地区のあとがある。ブスビル2地区と呼ばれたそこは、東京の吉原をモデルにして建設されたという研究もあリ、植民地での売買春制度の問題と合わせ、日本とはある意味で共犯関係にあった地区でもある。ほぼ同時期に作られたにもかかわらず、ブスビル2地区の入リロにはごみの山が築かれ、フランス統治の記憶はかき消されようとしている。

 観光客を迎え入れようとするハッブース地区と、そのごく近くに広がる民衆的な地区は、どのような関係にあるのか。ハッブースの保護は、民衆的な感覚とはかなりずれがあるのではないか。「アラブ風」であること、フランス統治の記憶を残すということでは一致しながら対照的な二つの地区は、フランス統治の遺産についての単純な解釈を許さない。

都市基盤の整備の先にあるもの

 カサブランカの中心部には、近年ドラムが導入された。首都ラバトにも開通し、最新式の低床の電車が多くの市民に利用されている。

 モロッコでの細かい移動は、初心者には難しい。都市間交通は、鉄道のないところでは、停車場所が限定された相乗りタクシー、「グラン・タクシー」を利用する。カサブランカでは、中央市場のそばに大きな白い車が止まっているのを見ることができる。都市内では、「プチ・タクシー」を利用する。カサブランカでは赤、ラバトでは青の車が走っており、必要なときに合図をして止め、利用する。プチ・タクシーは都市の外に出ることを許古れておらず、空港や隣接都市に行くことはできない。

 ガイドブックには、プチ・タクシーに乗り込んだら、料金でもめないようにメーターを動かしてもらうと書いてある。確かに、ラバトではその手法で通用する。しかし、カサブランカは人であふれ、空車のタクシーを見つけることは難しい。既に誰かが乗っているタクシーが止まり、方向が同じなら乗せてやると言われることになる。メーターは使っておらず、降りるときに料金を聞くと、いくらでもいいよと返ってくる。もちろん、足元を見て多めに請求する運転手もいるが、料金は慣習的に運用されているのだ。地元の人は適当に交渉して払っている。

 そのような経験も観光の魅力のひとつだが、ドラムのような確定した料金のシステムに、つい安心感を覚えることも確かである。ドラムは現行システムに慣れた市民の利便性よりは、カサブランカの観光化に大きく寄与するだろう。

 ラシク(2002)は、カサブランカの大きな都市計画は、いつも危機に対応して行われてきたとしている。最初のプロストの都市計画は保護領化への反発、エコシャールの計画はフランス統治に対抗する民族主義の台頭、そして1980年代に計画されたものも、1981年の暴動に対応して進められたという。カサブランカの都市計画は、治安対策だというのである。実際のところ、1984年に創設古れた都市計画をあずかるカサブランカ都市機構は、内務省の管轄である。

 現在のモロッコ社会には、どのような問題があるだろうか。1999年に即位したモハメド6世は、街角のどんな小さな店にも肖像写真が飾られている。1971年のクーデタ未遂のあと、弾圧を強めた前国王の時代と比べ、民主化を進める姿勢も見せており、人気もあるようである。しかし、王宮の財産、高学歴者の失業など、不満がたまっていないというわけでは決してない。少数ながら、自爆テロや「アラブの春」に連動したデモなども起こった。

 現在の都市計画事業は、やはり治安対策を含むのだろうか。そうであるとするなら、それはモロッコ社会をどのように整形しようとしているのか。またそれは、フランス統治の影響を残しているのだろうか。カサブランカの今後の動きに注目していきたい。
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